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第69話

 終業式が無事終わり、風紀の年内最後の会議も終えた。冬休みは、もうすっかり落ち着いた学園を考えて、風紀委員の活動も休止とした。各自、地元の友人や家族と大切な時間を過ごしてほしいと思う。俺も、年末年始は帰省する。そうしないと、あのうるさい兄二人が輪をかけてやかましくなるからだ。  昇降口で理央を待っていると、声をかけられ、何の気もなしに振り返る。 「りんりん」  その懐かしい呼び名に驚く。マフラーをぐるぐる巻きにして、鼻先を赤くした海智がいた。 「先輩…」  眉を下げながら微笑む海智に、少し歩こうと誘われて、理央に先に部屋に帰っていてくれと連絡をいれてから、後ろに続いた。 「すっかり冬だね」  はは、と笑う海智の息は白い。すん、と鼻をすすると、目の裏が痛むほどの冷たい空気だ。 「何か用ですか?」  性急に話を振ると、海智を笑って足を止めた。その一歩後ろで足を止める。 今になって、俺に話とは何だろう。想像がつかず、困ってしまう。 「ねえ、りんりん…」  振り返った海智は、真摯な眼差しで俺を見つめた。それを、じ、と冷静に見返す。 「俺、りんを、たくさん傷つけてきたことに、ようやく気付いた…」  半歩近寄ると、俺の垂れていた手を両手で包んだ。それを大事そうに、一撫でしてから、ごめん…と小さくつぶやいた。 「だから、もう一度チャンスがほしい。俺、やっぱり、りんの事が好きだ…」  心からの言葉だと感じられる。眦を染めて、海智は続けた。 「俺、大学はアメリカに行くことにした」 「え…」 「学びたいことがあるから行く。家の仕事のこともある。でも、一番は、バース性の研究が進んでいるあっちなら、俺の身体も元に戻るかもしれない」  だから、と握る手に力がこめられる。縋るように見つめられる。 「りんとずっと一緒にいたい」  見上げるほど大きな海智が、俺よりずっと小さく見えた。  そ、と握っている両手に空いている手を当てて押すと、簡単にそれはほどけて、落ちていった。にこり、と笑いかけると、海智はひどく傷ついた顔をした。 「ごめんね、先輩。俺、もう決めたから」 「りん…」 「俺は、大切な人を裏切らない」  本当に最後だと思った。もう、海智と巡り会うことはないだろう。  それでも、俺の心はびっくりするほど穏やかだし、微笑みかけることもできた。海智は、ぐ、と下唇を噛むと力強く、俺の腕を引っ張り、腕の中に収めた。ぎゅう、と抱きしめれる。  これが、最後だ。  背中に両手をあてる。冷たい身体は、かすかに震えているようだった。バニラの香りだけが、俺の鼻をくすぐる。 「さよなら…俺の、初恋…」  海智はそうつぶやいて、腕をほどき、顔を見せずに歩いて行ってしまった。その背中が見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くした。最後であろうその姿を、目に焼き付けんばかりに。 「ありがとう、俺の初恋…」  拗れた俺の初恋は、ようやく終焉を迎えられたようだ。  手を握られても、抱きしめられても、愛を囁かれても、俺の心は波立たず非常に穏やかだ。もう、終わったんだと、身体の奥から安堵の溜め息が漏れた。  寒風に追い返されながらも、生徒会寮へと向かう。エントランスがようやく見えてきた、と思ったら、そこに人影が二つあった。理央だ。声をかけようとするが、理央の目線は目の前の小柄な少年に向けられている。目の前の生徒は、理央の親衛隊員だったと思い出す。確か、二年生のオメガだ。む、と心が固くなるがわかった。  理央は笑顔でその少年に手を振って別れると、その一部始終を見ていた俺に気づいた。 「りん先輩っ」  理央は、ぱあっと顔を明るくさせ、にこにこと破顔しながら近づいてきた。いつものごとく、突進のごとく抱き着いてくる。また、でかくなったその身体を支えると、俺の身体はよろけてしまう。 「ん~りんせんぱ……ん?」  マーキングのように、俺の頭に頬を擦り寄せる理央が、顔をしかめて、すんすん、と鼻を鳴らした。 「え、くさい?」  顔をあげると、理央の顔を見る前に腕を強い力で引っ張られて、エントランスへと足がもつれるように進む。 「ちょ、理央っ、どうした?」  ぐいぐい引っ張られて、エレベーターに乗せられて、理央の部屋へと連れ込まれる。重いドアが締まりきる前に、そこに背中を押し付けられてしまう。顔の横に、バンッ、と大きな手のひらが撃たれる。おそるおそる視線をあげると、理央が冷たく見下ろしていた。 「り、お…?なに…」 「先輩、今日、なんで先に帰ったの」  冷たい声に背筋が凍る。なぜこんなに理央が怒っているのかがわからなかった。 「は…?」 「何してたの」  今度も右耳に破裂音が響き、鼓膜が痺れる。理央の両手に囲われて、逃げ場を失う。 「俺に言えないことなの?」 「ちょ、何、怒ってんの?全然わからん」 「はぐらかさないで」  身体がさらに覆いかぶさってきて、影をつくる。なんだかわからないが、初めて見るほど、理央が怒っていることだけがわかった。どうして、と眉を寄せて、頭の中をぐるぐる回転させていると、答えない俺を理央は嘲笑う。 「あいつに会ってたんでしょ?」  あいつ…。海智のことだろうか。なんでわかったんだろう、と首をかしげる。 「許さないから」 「ぅわっ」  巻いていたマフラーを乱暴にほどかれて、首筋が急にひんやりと寒くなる。 「なっ、理央っ、んっ」  襟を無理やり引っ張られて驚いているうちに、熱い唇が強く吸い付いた。ぴり、と痛みが走り、身体が縮こまってしまう。理央の身体を押し返そうと両手で突っぱねると、理央の大きな手のひらによって簡単にドアに貼り付けられてしまう。 「俺、浮気は絶対許さないから」 「はあ?ちが、っん」  そう低く唸るようにつぶやくと、理央はもう一度、俺の首筋に吸い付いた。さっきよりも強く痛みが走る。 「何が違うわけ?こんなにべったり、他のアルファのにおいつけて」  顔を上げた理央の瞳は完全に据わっていた。そして、ようやく話が見える。おそらく、海智に最後の別れのハグをした際についたフェロモンに理央は異様に反応してしまっているのだ。 「りん先輩はわかってない。アルファがどれだけ、自分の好きな人に執着するのか」 「理央…」  今にも泣きそうに歪んだ顔を、撫でて抱きしめてやりたかったのに、手はがっちりと固定されてしまっている。 「理央、ごめん…手、離して」 「やだ」  子供のように答えた理央は、また身体を寄せて、首元に吸い付いた。何度か吸い付き、終わったかと思ったら、もう少し後ろの方に歯が立てられた。 「いっ!」 「りん先輩がオメガだったら、番にしてずっと閉じ込めておけるのに…」  首の痛みよりも、理央のその言葉に、喉がつまり、胸が張り裂けそうになった。 「どうしたら、りん先輩を独り占めできるの…」  噛み跡に、ちゅ、と吸い付いて舐め、理央が顔をあげる。赤い唇が目についたが、すぐに顔をそらした。 「り、ん先輩…」  理央の怒気がみるみる収まっていくのを感じた。何度も俺の顔を覗こうとしてくるのを、俯いて顔を隠す。その度に、はらはらと頬を雫がなぞっていく。  昨日の俺は、こんなこと予想もしてなかった。  今日もきっと、理央と穏やかなで甘いひと時を過ごせるんだって思ってた。二学期がんばったなってお互いを労わっているだろうと思っていた。それなのに。  バース性関係なく、俺を愛してくれた理央だから決心できたのに。  なんで、理央が、オメガを求めるんだ。  俺が、唯一、手に入れられない、オメガという性を。  大好きなお前を縛れるのに、手に入れられないオメガという性を。 「ご、ごめん…りん先輩、泣かないで…」  両手で顔を包まれてしまう。さっきまで怒っていたくせに、理央はおろおろとしながら、何度も俺に謝ってきた。 「ごめん、りん先輩…もう痛いことしないから…」  つかまれていた手は力なく垂れさがったままだった。かさついた親指が何度も、俺の頬を撫でて涙を拭った。それでも、とめどなく雫は溢れる。 「…理央にだけは、言われたくなかった…」  ぼそりと、虫の息でつぶやくが、理央はちゃんと言葉を聞き取ってくれていた。 「ごめん、最低なこと言った、俺…俺…」  理央がいてくれるなら、俺はオメガでありたかった。  佳純と七海の二人を見ていると、とても幸せで、俺には見えない絆で結ばれているようで、とても羨ましかった。俺も、理央とそういう遺伝子レベルの絆が欲しいと、いつだって薄暗く、オメガに嫉妬していた。 「俺、ベータだよ…」 「ごめん…ごめん先輩…俺、不安で…」 「…結局、理央も、オメガがいいの…」  傷ついた友達に向けて操立てて、ヤらせてくれないベータの男なんか、必要ないのか。  ふ、と吐息と共に嘲笑が漏れた。 「違う違う!そんなわけない!俺はりん先輩だから好きになったんだよ?」  理央は力強く首を横に振り、必死に俺に叫ぶ。それを、涙でゆがむ視界でぼんやりと見つめる。 「そういう意味じゃない!違う!違うよ、先輩…」  俺の二の腕を痛いほど握りしめて、理央は項垂れる。茫然と涙は流れるばかりだった。 「…ごめん、帰る…」  初めてだった。  理央といたくないと思った。  今のぐちゃぐちゃの自分では、理央を困らせるようなことしか言えないとわかっていたから。  好きだからこそ、一旦、ちゃんと距離を置いて考えたかった。  答えが出る保証なんて、ひとつもないのだけれど。

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