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第70話
「やだ!絶対やだ!」
理央は俺にしがみつくように抱き着いた。強い腕に身動きがとれなかった。
「だめだ…いったん、距離を置きたい」
「やだ!だめ!絶対離さない!」
理央、とわがままを言う子供を諭すように名前を呼ぶと、泣き散らす顔と視線がぶつかる。
「ここで離したら、先輩は帰ってきてくれない!だから、ちゃんとここで話をしよ?」
ね?と理央が何度も言ってくる。それに、帰りたい、とだけつぶやき返す。しかし、理央は俺の言うことを聞いてくれず、力ない俺の身体をずるずると引きずるように、座りなれたソファに座らせた。俺が逃げ出そうとする力がないのを理解すると、理央は俺から視線を外さないようにしながら、キッチンへ向かい、お湯を沸かした。
この前の休みの日に、二人で買い物に出た時に買った紅茶をいれてもってきた。ぐずぐずと泣きながらも、器用にこなす理央を何も感じないまま見つめた。
「飲んで…」
ず、と鼻をすすりながら理央は、カップに口を付けた。カップを寄せると、ふんわりとハーブとフルーツの香りがする。一口すすると、甘味がふんわりと広がり、口から入った熱のある液体が身体をほぐしていく。ほろ、と涙がまたこぼれた。これを買った時は、こんな風に飲むなんて思いもしなかった。
もう、これが理央と並んですごす、最後の飲み物なのだろうか。
そう思ってしまうと、涙がカップの中にぽたぽた、と吸い込まれていった。
「やだ…」
理央と離れる。
「俺…ずっと、理央と一緒にいたいよ…」
心の奥底からの気持ちが言葉であふれた。
この紅茶を選んだ時の笑顔も、このソファで二人で寝落ちして笑い合った朝も、泣いている俺を慰めてくれたあの夜も、全部全部、忘れたくない。
でも…。
アルファとオメガは遺伝子で結びあっている。そこにベータは邪魔してはならない。これは、バース性を生み出した神様が決めたことなのだから。これをそむくということは、きっと生き物として間違っているのだと俺は思う。
いつか訪れる、運命の番との出会いを恐れる夜もある。
それでも、今、ここで理央が抱きしめているのは自分なのだと安心して目を閉じる。
しかし、理央が求めているのは。本当に求めているのは。
「ベータの俺じゃ、やっぱりダメなのかな…」
「ダメじゃない!」
隣から叫ぶような大声に、肩をすくめると、理央はすぐに声を落して、ご、ごめん…とつぶやいた。カップを机に置いて、隣に振り向いた。理央はソファに乗り上げて、身体ごとまっすぐ俺を見ていた。
「俺は、りん先輩のバース性に惚れたんじゃない。りん先輩だって、俺がアルファだから好きになったわけじゃないでしょ?」
紅茶とほぐれた心は、さっきよりも冷静に頭を回させた。こくり、と小さくうなずくと、理央は、ほっと顔の緊張をややほぐした。
「その…さっきのは、ごめん…俺、ずっと不安で…自信なくて…」
理央は、眉を寄せて、視線を外しながら、ぽつぽつと話す。
「生徒会の仕事、すればするほど、簡単にこなしてた前の城戸崎先輩のすごさがわかるんだ…」
理央は、海智が担当していた会計業務を請け負うことになった。もとから数字が得意なため、総一郎がそう推薦し、理央も笑顔の二つ返事で了承していた。しかし、そんな思いを持っていたとは、知らなかった。
「それに、聞くと、あの人と先輩、空手部だったんでしょ?俺の知らないりん先輩のことも、あいつは知ってる…」
どんどん海智への言葉が荒くなっていくのにも、理央の気持ちが見え透いた。
「年も上で、大人っぽくて、いつも余裕があって、りん先輩にもいい思いさせてたんだろうなって思うと、俺…」
理央は下唇を強く噛み締めた。
「いつも、りん先輩のことになると余裕なくて、ガキで…それと比べられたら、勝ち目ねえなって思ってて…」
俺の前では穏やかで、いつも明るくて温かくて、おひさまのような理央が、そんなことを思っていただなんて、気づきもしなかった。理央は俺をまっすぐに見つめて、真っ赤な目ですがるように言う。
「ねえ、お願いだから、もうあの人と会わないでよ」
ぎゅう、と握られた二の腕が軋む。理央の眦から、一粒雫がぽろ、と頬をなぞった。
「俺、りん先輩のこと、好きでたまらなくて、本当はずっとこの手をつないでいたいし、一緒にこの部屋にずっと閉じこもっていたい」
理央が、そんな澱んだ気持ちを俺に抱いていたことにも驚いた。
生まれて初めてぶつけられる強い愛に、心も頭も混乱していたが、だんだんと冷静になっていく。
「誰にもりん先輩を見せたくないし、りん先輩にも見てほしくない。こんなにかわいい人、世界でたった一人だから…」
そ、と手のひらが俺のこめかみにあてられて、頬を撫でた。何度も、大切な宝物のように撫でられる。
「先輩はわかってない…自分がどれだけ魅力的で、かわいくて、人を寄せ付けているかって…」
本当は会長のところにだって行かせたくない…
顔を歪めた理央は、苦々しく低くつぶやいた。
俺にはたくさんわがままを言わせるのに、理央は実はこんな思いを隠していたのか。気づいてやれなかったのは、俺の責任だ。
「会長に操立ててるのも、本当は嫌だ…りん先輩が、そんなに会長を思っているのを見せつけられている気分がして…」
理央は、俺を握っていた手を脱力させて、うなだれた。大きな身体は小さく震えている。ず、と鼻をすする音がすると、はは、と理央が自嘲する。
「本当、俺って最低…、こんな俺、先輩に見せたくなかった…」
その小さく見える身体を、そっと抱き寄せた。びくり、と大きく揺れてから、理央は、腕の中でぐずぐずと泣き出した。
「やだ…やだよ、りん先輩…俺の、こと…きらい、っ、に、なら、ないで…」
俺の服をぐしゃりと握りしめて、理央はすがった。嫌いにならないで、ずっと一緒にいたい、とえづきながら、何度も繰り返した。自分が、こんなにも誰かから強い愛を受けられる人間だと思っていなかった。理央が、こんな薄暗い感情を隠していたことにも気づかなかった。思いもしなかった。いつも、わがままを渋々でも、笑顔で背中を押してくれて了承してくれていた。聞き分けの良い後輩は、実は、まだまだ甘ったれで、独占欲が強くて、不安で、必死で、俺のことが大好きでしかたないらしい。
それでも…
「理央も、いつかは、オメガを望んでしまうかもしれない…」
すっかり黒が板についた髪の毛を撫でながら、本心を零すと理央が急いで顔をあげた。鼻水を垂らしただらしない顔で目を見開いて俺を見ていた。
「ありえない…絶対にありえないから」
「…さっき、お前は…俺にオメガを望んだだろ…?」
さっき、理央がしてくれたように頭から涙でぐっしょり濡れた頬を撫でる。穏やかに言えた自分に安心する。理央は俺の手を握りしめて、急いで首を横に振った。
「そうじゃないっ、オメガを望んだんじゃなくて、先輩を望んだんだ」
「…でも、俺は、オメガにはなれない…」
「わかってる、だって俺は、オメガじゃなくて、りん先輩に惚れたんだから」
必死に訴える理央を、じ、と見つめる。
「先輩がオメガだったら、俺が番にして、一生俺から離れられないように、逃げられないようにできるって思ったんだよ」
アルファはそんなこと思っているのか、と思ってしまうのはベータの俺だからだ。そして、そうやって束縛されるオメガを羨ましいと思えてしまうのも、俺がベータで、所詮夢物語だからだ。
「俺がオメガじゃなくたって、理央の傍にいるよ」
ふ、と呆れたように笑うと、理央は潤んだ瞳をさらに見開く。そのあと、眉をひそめて俯いた。小さくうなるようにつぶやいた。
「わかってる…わかってるよ、先輩はそう言ってくれるって…でも、においがした、から」
理央は、俺からした海智のフェロモンのにおいのせいで、こんなに不安定になってしまったんだ。やっと、ぼんやりした頭が回ってきて、真実が見えてくる。これだけ、理央がねじれた愛情をぶつけてきたのも、それが原因なのだ。
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