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第73話
「え?!佳純のやつ、そんなに七海に会ってねえの?」
新学期がはじまり、新年度へ向けての準備で生徒会が忙しくしていたのはわかっていた。七海が寂しがっているだろうと思って、可能な限り、時間を作っては会いに来ていた、クリスマス前の理央との一件の後ろめたさもゼロではないが。
しかし、あのバカが夜も遅く、目の前の恋人である七海が寂しそうに眉を下げて笑っていた。
「確かに、忙しいのはわかってたし、そうさせたのは俺だから、えらそうに言えねえけどさ…」
もじもじとつぶやくと、七海はくすりと笑った。七海が笑うと、周りに小さな花が咲くような可憐さがある。こんな可愛い恋人をほっぽっとくなんて、許せない野郎だ。
その笑顔が束の間、す、と寂し気に俯かれるのを俺は見逃さなかった。そ、と、紅茶を置いた手を包むように握る。
「七海には悪いことしたな…今、佳純がそばにいなくて、心細いだろ…?」
大好きな人と会えない、傍にいられないつらさは、俺も何度も経験がある。会おうとお互いの努力がないと、時間は生み出せないのだ。ましてや、学園と七海との距離は物理的にも遠くなっているのだから。
思い返せば、最近の佳純は、わざわざ毎日のように登校していた。生徒会の仕事がそうせざるを得ないのだろうと思っていたが、七海を一人この山奥の屋敷に置きおいてまですべきことなのだろうか。理央は毎日のように俺を風紀室まで迎えに来たし、時間のずれは感じられなかった。
この屋敷から学園まで、車を使ったとしても、一時間はかかる。車内で仕事をしたり睡眠をとったりすることは可能だが、そこまでしてやるべき仕事とは何だろうかと疑ってしまう。
「大丈夫、僕、凛太郎と過ごす時間も好きだから」
目の前のあいつの恋人は、そんないじらしいことを微笑みながら言ってくれる。こんなに気の利いて優しい子に、なんでこんな寂しい笑顔をさせてしまっているんだ、と心の中で佳純をずたぼろに殴り倒す。七海は、長い睫毛をふせ、かすかに振るわせてから、つぶやいた。
「凛太郎の手、あったかいね」
あまりにもか細い声に眉間に皺が寄ってしまう。七海が顔を上げる前に、笑顔を貼り付けて、わざと明るく返す。
「心もあったかいからな~」
七海の手を両手で握りしめて、ぎゅうぎゅう揉むように力をこめる。七海の手は、恐ろしく冷たく感じられた。顔色は大分よくなった。しかし、細い腕はそのままで、握りしめたら折れてしまいそうだ。改めて、こんな華奢な七海への暴力を思い返して、いたたまれない気持ちでいっぱいになってしまう。
「にしても、やっぱり、あのバカタレは恋人ほっぽっといて、本当に信じられねえわ」
七海が出来ないだろうから、今度俺がぶん殴っといてやる、と鼻息荒く目を見開いて伝えると、七海は、声を上げて愛らしく笑った。絶対にぶっ飛ばすと心に強く誓う。七海の笑顔は、佳純の隣にあってほしいと思うのは、幼馴染バカなのかもしれない。それでも、このか弱く愛しいオメガを守ってほしいと思う。それが、佳純であれば、心から安心できるのだ。
それなのに、あいつは何やってんだ。
ここの料理人が作る、焼き立てでほろほろの香ばしいスコーンを頬張りながら、眉間を寄せた。
「りん先輩~愛しい彼氏がお迎えにきましたよ~」
大きな音を立てて扉を開けて満面の笑みで理央が風紀室に入ってきた。我が物顔でずんずん俺のもとへやってきて、にこにこと帰りの準備を勝手に始める。仕方なしに今日の連絡を打ち終えたパソコンを閉じる。
「毎日、愛があふれてますね」
戸締りは僕がやりますから、と微笑みながら本日の当番の笹野が言う。気の利く笹野を理央が笑顔でねぎらう。これも、気づけば見慣れた景色となった。最初、理央が生徒会に移動してからは、なんだか寂しさを抱かざるを得なかった。しかし、こうやって理央は俺を迎えにくるついでに、風紀のみんなにも挨拶をしていく。理央会いたさに、笹野も遅くまで残っていたのではないだろうか。今日行われた古典の小テストの話や、同じ学年の生徒の奇行など同学年にしかできない話をしている二人は、年相応の幼さの感じられる顔をする。それを、温かな気持ちで見つめる自分と、少し嫉妬してしまう自分がいる。
しかし、今日の俺には、特別な任務が待ち受けいているのだ。
「理央、今、生徒会室に誰がいる?」
「会長だけだと思いますけど…みんなと一緒にでてきたし」
理央の話しぶりだと、今日も会長様は一人でせっせと残業をしているらしい。理央が持っていた俺のカバンを受け取って、よし、と鼻息を荒くする。
「殴り込みだ」
意気揚々と足を進める俺に対して、不穏な気配を察知した同学年二人は、さ、と顔を青ざめた。
「は、早く凛太郎先輩についてって!」
笹野が急いで背中を押すと、理央は我に返り、急いで小さな背中を追いかけた。
「ちょ、りん先輩っ、どういうことですか?」
長い脚はあっという間に俺の隣に並んでしまう。
「説明はあとあと。とりあえず、俺は佳純に話がある」
一緒にくるか?と目線を上げて問うと、もちろんついてきますけど…と理央は柔らかい表情の癖に眉を下げて困ったような顔をした。早歩きで来たため、息も乱れているが、お構いなしに生徒会室の扉を勢いよく開け放った。
目的の人物は、扉と正面に向かった一番奥の机で書類とにらめっこをしていた。俺の来訪にも、顔色一つ変えず、ちらりと一瞥して、また仕事に戻った。それは俺の昔馴染みのある冷徹さだった。しかし、おそらく今の佳純にとっては、その態度は普通ではない。
「おい」
机の目の前にきて、顎を上げて佳純を見下しながら低い声で命じる。佳純は、眉間に皺をよせて、心底嫌そうに俺を見た。
「立て」
「は?」
「立て」
鼻根に皺を寄せて、だるそうに俺を見ている。じ、と俺が目線をそらさないので、佳純は渋々立ち上がった。見上げるほど大きな彼の左頬めがけて、俺の利き手が空を切って破裂音を響かせた。後ろで理央が顔面蒼白で息を飲んでいた。久しぶりのビンタに右手がじんじんと熱を持っている。しかし、目の前の男の左頬は、みるみる内に赤くなっていった。口は切れていないらしかった。
佳純は乱れた髪の毛を、面倒くさそうにかき上げながら俺を見下ろした。
「なんだよ、いきなり…」
「七海の分だけで勘弁してやる」
七海、と名前を出すと佳純は、さらに顔に皺を増やして嫌悪を色濃くする。続きを促しているのか、言葉がでないのかはわからないが、じ、と俺を見ているだけなので、続ける。
「七海の友達として、もう一発グーでいきたいところだが、七海のために我慢してやるよ」
佳純を叩いた右手を、ぎゅ、と握りしめる。七海の寂しげな無理やりの笑い顔が頭をよぎり、眉を寄せてしまう。
「お前、なんで、帰ってやらねえんだよ」
あんな、無駄にでかい、知り合いもいない、寂しい部屋に。
「なんで、一人ぼっちにさせてんだよ」
大好きなはずの恋人を。
大きな窓ガラスの向こうと、ベットの上に座ってただぼーっと眺めている七海の薄い身体を思い出す。
佳純は、俺の言葉に、は、と目を見開いてから、苦々しく顔を歪めて、俯いた。
「んな仕事、ここじゃなくても出来んだろ」
俺が巻き込んでしまったことだ。俺も責任持って、やれることなら全力で手伝う。俺には、心強い味方もいるから、なんとかなるだろう。後ろに立っている理央に背中を押されて、足を踏ん張る。
「七海を、あんな寂しそうに、笑わせるなよ…」
ぎり、と奥歯が鈍く擦れる音がした。目の前の男のこめかみに力が加わっていることが、見て取れた。どういう感情が、でかくなった幼馴染の中に渦巻いているのかがわからなかった。じ、と彼の言葉を待つ。部屋には秒針の音が響き渡った。それでも、俺も理央も、佳純の言葉を待った。そして、弱々しく彼から囁かれた言葉は、「怖い」だった。
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