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第75話

 佳純をビンタした翌日に、律儀に七海は交換してあったメッセージアプリで初めてメッセージを送ってきた。内容は、お礼のものだった。佳純との仲も取り戻そうと頑張るといった健気な内容だった。また遊びにいくと返信してから、理央がプレゼントとして送り付けきた柴犬のスタンプを送っておいた。  だから、安心しきっていた。翌月、佳純の様子を知るまでは。 「先輩に話すの、マジで嫌なんですけど…」  風呂上がりに、アイス棒をしゃぶりながら、ソファの上で横になってくつろいでいた理央の上に当たり前のように寝転んだ。後ろから長い腕が俺を抱きしめながら、渋々といった感じで声に出した。その声のもとを見上げると、唇を尖らして理央はむぐむぐと話し始めた。 「会長から、何か連絡きてません?」  ちゅ、としゃぶっていたバニラのアイス棒を離して、眉を寄せる。 「んだよ、あいつ、なんかやらかしたの?」  不機嫌そうな理央にアイスを口元にやると、嬉しそうにそれにしゃぶりついた。 「んや…最近、連絡がつかなくて、困ってるみたいなんですよ」 「はあ?」  アイスをそのまま理央の口に押し込んで、身体を起して携帯を取りに行く。それを後ろから、だから言いたくなかったのに~と理央が恨めしそうにつぶやいているのは聞こえなかったことにした。  携帯を操作して、佳純に電話をしてみる。何度コールが鳴っても、携帯の電話がつながることはなかった。諦めて、ディスプレイを消すと、後ろから理央が抱き着いてくる。 「ちょっと、りん先輩…」 「ん~?」  片手で佳純宛てに連絡を寄越せとメッセージを打っていると理央がすねているので、もう片方の手で後ろに手を伸ばしてわしわしと髪の毛を撫でる。 「いてっ」  なぜか不機嫌の理央が、俺の耳朶に犬歯を突き立てた。加減をしているのだろう甘噛み程度のものだが、がぶがぶと何度も噛みついてくると、じりじりする。メッセージを送り、理央の腕の中で半回転をして、胸の中に飛び込む。 「なんだよ、理央」  背中に手を回してぎゅうぎゅう抱き寄せてやると、頬を染める可愛い恋人は、それでも眉を寄せてむくれている。 「俺と二人っきりの時くらい、りん先輩のこと独占したいのに」  会長のこととなるとすぐにこれだ、とむくれた理央は、佳純にやきもちを焼いているらしい。外だともう少しだけ大人なふりをするのに、二人っきりの時だと止めどなく甘ったれになる。これを嬉しいと思ってしまうから、自分も大概だと思う。ふくれた頬に両手を添えて、つまんだり、押したりをしてほぐしてやる。 「かわいいやつ」  ふふ、と笑いかけると、まだふてくされている理央が唇を突き出した。慰めてほしいの合図だ。素直にその唇に吸い付いてやる。ちゅ、とかわいい音を立てて離れる。 「足りない…」  同じ顔のまま理央はおねだりをしてきた。おもしろくて、くすくす笑いながら、もう一度唇を合わせる。それなのに、もう一回、とまたアンコールをくらう。実際、理央に我慢を強いている部分はあるので、仕方なしにかわいい年下の彼氏を甘やかす。耳をこしょこしょとなぞったり、顎に甘噛みしてみたり、だんだんと瞳の奥の情欲が湧いてきて、もうおしまい、と離れると、抱きすくめられて、唇を大きな口の中に吸い込まれてしまう。やんわりと口をあけると、熱い舌が早急に侵入して、俺の舌をくすぐる。その舌を舐め返すと、お返しとばかりに、巻き付くようにぐるぐる舌を舐めつくされてしまう。 「ん、ぅ…ぁっ、ん」  理央が気のすむまで、与えられる快感に身を任せる。腰が一際甘く重くなったと思うころに、糸を引きながら、ぬらぬらと光る唇が離れていく。口の中にたまった、どちらともわからぬ唾液を、ごく、と飲むと、瞳がまたぎらりと光り唇に何度か吸い付かれた。 「ねえ、りん先輩…」 「ん~?」  ぽってりとした唇を優しくなぞりながら、理央に身体を預けて、整った顔立ちを堪能する。 「これでさ、会長があの先輩としっぽりしてんだったら、俺ら、もう解禁でいいんだよね?」  視線をやや上げると、真剣なまなざしとぶつかる。改めて、そう言われると、考えてしまって指先が固まった。  入学式早々から毎日のように、相手を変えて性行為に勤しんでいた理央のことを思うと、相当我慢をしてくれていたのだろうと思う。付き合って、三か月は裕に過ぎていた。きっと、世の中のカップルは当たり前のようにやっていることが、俺たちはできていない。俺のわがままのせいで。  もし、佳純と連絡がとれなくなっている理由が、本当にそれなのであれば、俺にとっては嬉しいことだし、もう操立てする必要もなくなるわけだ。今になって、不安と期待が入り混じった複雑な渦が心の中で暴れる。  熱い顔でかすかにうなずくと、理央は力いっぱいに俺を腕の中に閉じ込めた。 「あ~そうであってください、神様…」  どういう感情のつぶやきなのだろう、と疑問に思い、顔を見たかったが理央の心拍があまりにも早いので、それだけ愛されているということだと、この時の俺はのんきに思っていた。  一週間たっても、佳純からの連絡はなく、屋敷に突撃訪問するまでは。  新規の生徒会メンバーたちから、ついに佳純の不在へのクレームが入ってしまった。俺と佳純が腐れ縁だということを彼らは知っているし、リコールの言い出しっぺなのも知っているようだった。以前は在宅で仕事をそつなくこなしていたが、ここ最近に連絡がとれなくなってからは、佳純の承認待ちの書類が三つも高い山を作っており、おまけに佳純の提案待ちのものも大量にあるそうだ。副会長の彼からそう相談を持ち掛けられて、俺はやつの屋敷に訪問することを決める。いくら連絡をしても、既読にも留守電にもならないため、それしか手段がないのだ。七海への連絡も考えたが、万が一…と嫌な考えも過ぎ去ったので、控えた。直接会って文句の一つ二つつけてやった方が早い。放課後、委員の仕事は奥野に任せて、俺はやつのもとへ急いだ。その旨を簡単に理央に告げると、同行を希望するので、一緒に行くこととなった。  電車とタクシーを乗り継いで、屋敷をノックするといつもの執事が迎え入れてくれる。そして、焦燥した顔で佳純の居場所を告げられた。 「その…私が言うことでもありませんが、佳純様は、大層お疲れのようで…」  何が言いたのかわからずに、眉間に皺を寄せながら、いつもの部屋をノックした。返事がなく、扉を開ける。大きな窓から降り注ぐ三月のこぼれ日は柔らかく部屋を照らしていた。それでも、日はもう傾いており、部屋は薄暗い。その中で、大きなベットには誰もおらず、その前に項垂れた男の影だけがあった。 「おい、佳純…お前、なにやって…」  あまりにも重苦しい空気をまとった佳純、それに不在の七海。  じり、と冷たい汗がこめかみににじむ。急いで佳純のもとへ近づき、肩をつかむ。思ったよりも薄くなった身体に一瞬、身体が固まった。 「佳純っ、七海は?七海はどうしたんだよ?」  ぐっと手に力を込めて、こちらを振り向かせると目を見張る。  目の下にはびっしりとクマがこびりついていて、頬もこけている。ひげもだらしなく生えたままで小汚い。髪の毛も艶をなくし、べっとりと貼り付いているように見える。心なしか野良犬のような臭いもする。 「おいおい…どうしちまったんだよ、佳純…」  七海としっぽりやっていてくれれば、万々歳だった。しかし、現実は万が一、の方に傾いてしまっていたらしい。両肩をつかみ、軽く力を入れると簡単に身体が前後に揺れた。 「おいっ、とにかく七海は?七海は無事なのか?」  それだけは絶対に確認したい。またどこかで七海が苦しい思いをしているのだろうか。そう一瞬、脳裏をよぎった時、頭がどくどくと痛んだ。しかし、佳純は俺に揺さぶられながら、それにはかすかにうなずいた。ほ、と胸を撫でおろす。 「じゃあ、なんでここにいねえんだよ…七海は、どこいった?」  肩に手を置いたまま、しゃがみこんで佳純の視線に合うように顔を動かす。虚ろな瞳は俺を映さない。しかし、しわがれた声で、実家だ、と聞こえた気がした。 「実家?なんで実家にいんの?だって、お前…」  その瞬間、ぐら、と佳純の身体が傾いた。覆いかぶさってくる、と思ったが、理央がすかさず佳純の背後から肩に手をおいて俺に倒れ込むのを阻止してくれた。ぐったりとした佳純を、目の前にあるベットに横にさせる。生きているのかもわからない顔色の悪さに、ぞっとしたが、かすかな呼吸音が聞こえて、理央と見つめ合って、肩を落とす。廊下に顔を出すと、すぐ近くに執事が顔色を悪くしてそわそわと立っていた。俺を見つけると急いで駆け寄ってきて、佳純の容態を聞いた。扉を静かに閉めて、少し離れた廊下で執事と話をする。詳しくはわからないが、と前置きを置いてから、古くからの馴染みの執事は、俺だから話をしてくれた。 「二週間ほど前でしょうか。七海様がご実家に帰られたのは…」  二月が終わる頃に七海はこの屋敷を出て行った。七海自身は健康に戻っていたらしい。二月中に七海と会った時のことを思い返すと、顔色もよく、近くを一緒に散歩したことを思い返す。 「七海様がご実家に帰られてから、佳純様は、あのような状態でして…」  なんとか飯を食べさせようと最初は頑張ったものの、ここ数日はそれらも放棄して、一日ずっとあそこで茫然としているらしい。誰の言葉にも耳を傾けず、風呂にも入らず、寝ているのかもわからない状態で、ずっといない七海を見つめている。 「なんで、七海は実家に…?」 「詳しくは…。おそらく、後遺症の方の回復が芳しくなかったのかと…」  俺に叱咤された佳純は、七海に歩み寄った。しかし、あのアルファたちに弄ばれた七海のアルファへの拒絶が改善されず、おそらくあの七海だ。自分から、実家に帰ることを提案したのだろう。それを、きっと佳純は、止めることができなかったのだろう。あの冷徹人間は、最近心を手に入れたばかりなのだ。器用に引き留めて抱きしめるようなことは、まだできない。なんて、バカなやつだ。大きく溜め息をつく。 「医者はいますか?」  眉間を押さえながら、執事に伝えるとさらに顔面が青くなっていく。白いひげも心なしか艶を失って見える。 「多分、寝てるだけですけど…」 「今すぐ」  いつも優雅なあの老執事が、ばたばたと廊下を走っていった。こんなにも愛してくれる人がいるのに、あのバカタレは何してるんだよ。  アルファなんだから、胸張って、傲慢に迎えに行け。  目覚めた佳純に、また一喝してやる、と肩をぐるりと回した。

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