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第76話

 十分程度で眼鏡で白衣の男が部屋に飛び込んできた。医師だと名乗る彼は乱れた髪と眼鏡を直して、気絶したままの佳純の横に立って、診察を行った。その時に目に入ったものに驚いて、待ったをかける。 「え、これ…」  佳純の左腕の丁度肘裏あたり、もう薄くなっているが、無数の小さい針の跡があった。医師を見上げると、険しい顔で俯いていた。 「それと、今の佳純くんは関係ないですよ」  顔をあげた医師は俺に困り顔で微笑んだ。 「いや、そんなわけ…」  さすがの事態に気が動転してしまう。もしや、佳純までも怪しげな薬を…と暗い疑惑が浮かび、混乱する。そんな俺の焦燥した様子を見て、医師は一つ溜め息をついて、じっくりと考えてから俺に向き直った。 「これは、佳純くんが自作したバース性抑制の注射痕です」 「バース性抑制…?」  よく聞くアルファの抑制剤、ということだろうか。つ、と冷たい汗がこめかみをつたった。ぐ、と手の甲で拭っていると、医師は続けた。 「アルファ性を消す薬です」 「アルファ性を消す…?」  はい、と医師はうなずいた。 「七海さんを楽にしてあげたいから、と自分を検体として投与していました」  真っ白な顔で弱り切った佳純を見つめる。自分のアルファ性を失ってでも、七海を繋ぎとめておきたかったのか。胸が張り裂けそうなほど痛む。だったら、なぜ、七海はここにいないのだ。お前は、七海を迎えにも行かず、ここで倒れているんだ。 「佳純くんは大丈夫です。衰弱していますが、アルファの彼ならすぐよくなります」  一応と言って、手早く点滴を打ち始める。執事が持ってきた紅茶を進められ、三人で近くのソファに腰かける。ほんのりと温かい紅茶は優しい匂いがして、いつも七海と飲んだなと思い出される。 「先生は、七海がなんで実家なのかわかりますか?」  紅茶を一口含んで、医師は紅茶をテーブルに戻した。そして、少し考えてから俺を見つめる。 「佳純くんを迎えに来てくれた君たちなら、話しても大丈夫かな」  眉毛を下げて笑う先生に、理央と顔合わせてから向きなおし、深くうなずいた。それから、先生は七海が抱えていた焦燥感や不安感、そして、期間を設けて佳純と離れることを決断したことを教えてくれた。 「七海くんも、佳純くんも、お互い好き合っているのに、バース性というのは面倒でね」  それに…と何かを言いかけて、医師は紅茶を一口飲んで、何でもないと笑った。さて、と膝を叩き立ち上がる。点滴が終わったらしい。急いで俺と理央も立ち上がって、ベットサイドに寄る。 「私はこれで失礼します。何かあったらすぐに呼んでください」  にこりと医師は微笑んだ。 「それから、起きたらまず風呂に入れて、ごはんをたんまり食べさせてください。それでしっかり眠れば大丈夫です」  念を押して医師が指を立てながら教えてきた。もちろんです、とうなずくと、目を細めて医師は頭を下げた。 「佳純くんをお願いします」  きっとお二人の言葉なら届くと思います、と少し寂しそうに目の前の大人は言った。  ムカつくから、ここの絶品スコーン食べてけよ、と理央に笑いかけて、執事にお願いをする。快く受け入れてくれ、三十分ほどで焼きたてのそれは届けられた。理央も驚くおいしさで、二人で、煎れなおした紅茶と共に和んでいると、のそ、とベッドの中身が動いた。すっかり忘れるほど満喫していた。むぐむぐと口を動かしながら、そちらを見やると、佳純が起き上がった。 「おー、起きたか。お前もどうだ?」 「…なんで、凛太郎が…」  それに長田…なんで…、と佳純は頭を回しているうちに、最後の一個を俺が食べてしまう。紅茶で流してから、佳純の隣に立つ。しばらくぼんやりと自分の手を見つめていた佳純は、俺を見上げた。 「お前、鏡見たか?」  は?と言い返す佳純に、顔をしかめる。 「人生長い間お前と一緒に過ごしてきたけど、今、史上最強にブスだぞ?」  腕を組んで見下しながら、真向に伝える。怪訝そうな顔をする佳純は視線をそらした。 「そんなんだと、今度こそ本当に七海に愛想つかされんぞ?」  そういうと佳純は目を見張って顔を上げた。一瞬、きら、と瞳を輝かせたが、すぐにそれは重い瞼で遮られて、うなだれてしまう。 「七海は、もう…ここを、出てったんだ…俺なんか…もう…」  筋立った拳はきつく握られて震えていた。  ただでさえ長かった前髪はさらに伸びて佳純の顔が見えない。目途をつけて、額に思いっきり指を跳ねさせて叩く。びしっ、と強い音が響き、佳純がかすかに呻いた。 「そうだな、七海ってめちゃくちゃ可愛いし、庇護欲そそられるし、なのになんか色気もあるから、すぐにイケメンで金持ちで優しいアルファが迎えにきてくれるよ」  明るくそうつぶやくと、ぎ、ときつく睨みつけられた。ふん、と鼻を鳴らす。 「そういうことだろ?お前が言ってることって。俺よりいいアルファと幸せになって~ってことだろ?」 「違う」 「何が違うんだよ?お前、いいアルファ紹介してあげろよ」  すぐさまベッドから這い出た佳純は、俺の胸倉をつかむが、ふらついて元の状態に戻ってしまう。 「こんな、ゾンビみてえな顔して野良犬の臭いさせたひげオヤジなんか、あの七海が選んでくれるはずねえだろうが」  頭を押さえた佳純は、俺を見上げていた。ますます青い顔になっていく。 「七海が言ったんだ…ここを出てくって…それで、俺…」  目がぐるぐると回っている。そりゃ、飯も食わず寝もせずいれば、頭は正常に回らない。頭も回らなければ、心も正常には動かない。 「バカかお前」  はあ、と大きく溜め息をつく。佳純は子犬のような顔で俺を見上げていた。 「んなの、お前が情けねえ顔見せっからだろ?あの優しい七海が、それを見過ごせるほど図々しくねえのくらいわかんだろ」  たった数回しか話したことのない俺でもわかるわ、と肩をすくめる。茫然として何もわかっていないバカタレに俺は蜘蛛の糸を垂らす。 「七海もきっと同じだよ。自分がダメな身体だから、他のオメガにお前を譲ろうってさ」  それで良いわけ?と聞く前に、佳純は薄い身体で、ダメだと吠えた。いきなりの大声に驚いていると、佳純はベッドに拳を振り下ろして唸る。 「七海は俺以外と番うなんてダメだ。俺だって、七海以外とは、絶対に無理だ」  めらめらと生気が浮き上がってきて、ほ、と胸を撫でおろす。口角も上がる。 「だったらちゃんとしろ。七海が、お前にまた惚れるくらいに」  臆病になっているだけじゃ、何も手に入らない。本当に手に入れたいものは、なんと言われようとも、絶対にその手を離すな。  理央が俺に教えてくれたことを佳純にぶつける。次に視線が交わると佳純の目はすっかり光りを取り戻していた。ゆら、と立ち上がり、部屋を出て行った。しばらく待っていると、着替えを済ませ、ひげも剃り、濡れた顔をがしがしとタオルで拭く佳純が帰ってきた。湯上りなのもあるのか、顔色もよく、ちゃんと清潔な姿に戻り、頬が緩んだ。その俺に気づいた佳純は、近くのソファに腰を下ろした。 「凛太郎、悪かったな」  ありがとう、と小さく礼を言った佳純に小さく溜め息をつく。まったく不器用なやつ。 「それ、生徒会メンバーに言ってくれ」  多数のクレームが入っていることを教えておく。理央が苦笑いをしていた。 「年度終わりなのに悪いことした」  理央にも頭を下げた佳純に、理央は慌てて手を振る。 「俺なんかは全然大丈夫ですから気にしないでください!それより…」  言葉を詰まらせた理央に視線を送ると、いつものいじけた顔つきをしていた。 「早く恋人さんと仲直りしてラブラブに戻ってください。一刻も早く」  俺は思わず吹き出してしまったが、佳純は不思議そうな顔つきで、おう…と返事をしていた。そのシュールさにもさらに笑いがこみ上げてきた。 「でないと、俺のちんこがそろそろ爆発しっふがっ」  とんでもないことを言い出したので、さすがに言い切る前にビンタをくらわす。ごほん、と大きく咳払いをすると理央は涙目でこちらを見てから、もう一度佳純に、頑張ってください、と手を合わせていた。 「今すぐ七海んとこにいけ!と言ってやりたいとこだが、今は生徒会の仕事優先な」  にっこりと佳純に微笑みかけると、少し思案したあとに、それがいい…とうなずいた。  心は決まったようだが、ではいざ会ってみて何をどう伝えるかは悩むところがあるだろう。そう思っていたのだが、佳純の脳内ではエンゲージリングのことを考えられていたことを誰も気づくことはなかった。  コンコン、とノックされたあと、執事が、涙目になりながら、ほかほかの豪華な夕飯を目の前に並べていった。 「料理長が力を入れ過ぎだ…」  凛太郎たちも食っていってくれ、と言われた目の前の料理は、中華に洋食に和食に韓国料理。なんでも揃って、パーティーでも始まるのかと思われるほどの量だった。有り難く理央と飯にあり付いて、しっかりと腹を膨らました佳純に目を細めた。

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