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第78話
まだ俺が感じられるほどのにおいの強さはない。しかし、理央はしっかりとした足取りでずんずん階段を上っていく。理央は、鼻がいい方なのかもしれない。教室のある本棟の最上階、屋上に出る。風紀の持つスペアキーで扉を開ける。春風に乗って、桜が下から舞い上がってくる様は幻想的で美しい。しかし、それよりも俺には重要なことがある。
屋上には誰もいなかった。目を閉じて、鼻で匂いを探る。風向きによって匂ってくることがわかった。瞼をあげると、理央は春風に黒髪を揺らしながら、気持ちいい~と春を喜んでいた。
俺は、匂いの検討をつけて、辺りを見回して、人影を見つけた。遠くの文化棟の最上階。屋上に、誰かがいる。匂いも、風があそこから運んでいるようだった。誰だ、と目を凝らす。その焦点が合う前に、理央がつぶやく。
「会長ですよ」
「佳純?」
確かに背格好は完全に一致した。あまり意識して佳純のフェロモンの匂いを嗅いだことがなかったため、わからなかった。
「でも、このくらいの匂いなら、誰も発情しませんし、大丈夫ですよ」
理央を見ると、柵の上で腕を組んで、春風を気持ちよさそうに目を細めて、うっとりしている。
確かに理央の言う通りかもしれない。匂いはあくまでも、うっすらだったし、一般のアルファやオメガと同じくらいかやや弱い程度に匂いをかぎ分けられる俺が、追うことすらも難しかったものだから、大丈夫かもしれない。
しかし、風紀委員長として、心配の芽は摘んでおきたい。
どういうつもりでフェロモンを巻き散らしているのかはわからないが、止めるしかあるまい。そう思って、足を一歩踏み出そうとしたときに理央が、あ、と言った。
「りん先輩、あの子って…」
俺に振り返り、手招きしている。今はそれどころではない…と思いつつ、理央の隣に並んで、指差す方に視線を落した。学園名物の桜並木から、一人の男子生徒が現れた。そして、遠いが誰だか認識できる程度には近い。
「え…、七海…?」
小柄な少年は、おそらく七海だった。もともと、後遺症以外は健康な状態に戻ったという話は佳純の別荘で聞いていた。そうか、今日から復帰なんだな、とつい頬が緩む。昇降口に向かって歩いてきた七海に声をかけようとしたとき、七海が辺りをきょろきょろとしだした。どうしたんだろう、と思った後すぐに、はっと思いつく。
「まずい、七海、フェロモンに気づいてんじゃないのか?」
もし、七海に何かあっては困る。大切な友人なのだ。急いで迎えに行こうと振り返った瞬間に、手首を捕まれた。その阻んだ手の持ち主を見上げると、理央は真剣な顔で俺を見つめた。
「理央、離せ」
「なんで?もし、あの人が会長のフェロモンに気づいたのなら、それっていいことなんじゃないの?」
は、と目を見開いた。確かにその通りだ。
アルファによるフェロモンレイプの後遺症でアルファへの拒絶反応に悩まされていた七海が、もし本当に佳純の、アルファのフェロモンを感じて、それを見つけ出せたなら、それは良い方に転んでいる証拠だった。拒絶反応があるのであれば、ここから逃げるか、違う場所に行くはずだからだ。落ち着いた俺に向かって、理央は穏やかに微笑んで、肩に腕を回して密着する。
「少し、様子を見てあげましょう」
ふわ、と温かな春風が吹いて、桜の花びらが可憐に舞う。その中に、優しくて甘くて大好きな理央の匂いが溶け込んで、目を細める。
「うん…」
素直に小さくうなずいた俺に、理央は、いい子、と言って、頬にキスをした。
七海は昇降口に吸い込まれていった。しばらく、文化棟の屋上を二人で見つめる。心配で、胸の内がそわそわとするが、その度に理央を見上げると、理央は穏やかに笑っていた。俺の視線に気づくと、大丈夫だよ、と優しくキスをした。学校内なのに、まだ誰もいない空気に流されて、それを享受してしまう。何度目かの大きな春風が髪をさらうと、佳純が動いた。扉から、小さな人影が現れた。
「り、りお、あれ…っ」
肩を叩いて、そこを指差す。佳純とその人影が向き合っている。んー、と理央が目を凝らす。
「多分、あの先輩じゃない?」
目を見開いて、じっと見ていると、佳純がどんどん彼に近づいていって、小さな身体をすっぽりと包み込んで隠してしまった。わ、と小さいピンクが俺たちの視界を遮るほど舞い上がってくる。次に彼らが視界に入ったときは、強く抱きしめ合っていた。
遠目でも、思いが叶ったということが伝わってきた。
「よかった…」
ぼろ、と涙が溢れて、慌てた。人の幸せを受けて、涙を流すなんてはじめての経験で驚いていると、理央が俺を抱きしめた。
「ちょ、理央っ」
腕の中でむずむずと身体を動かしていると、顎をつかまれて、唇を食まれてしまう。その腕を握りしめるが、理央は何度も角度を変えて、上唇を、下唇を、その合間を、吸い付き、しっとりと合わせてくる。
「ん、っ…」
くすぐったくなるような甘い口づけに鼻から吐息が抜ける。理央がゆったりと顔を離していくのにつれて、瞼を引き上げる。眦を染めた理央が、火照った唇で言葉を紡ぐ。
「りん先輩…好きだよ…」
心臓が大きく跳ねて、存在を知らしめるように何度も早鐘を鳴らす。笑い飛ばすほど、俺も余裕がなかった。
あの二人が結ばれる、ということは、俺たちにも重大な意味をもたらされていたから。
「り、お…」
情けなくも、震えてかすれた声しかでなかった。理央の熱い視線を見返すことで精いっぱいだった。
「りん先輩…俺…」
またゆっくりと唇が近づいてきて、瞼を降ろそうとしていると、ピリリッと電子音が鳴り響いた。
緊急事態か?!と急いでそれを取り出すと、メッセージアプリのお知らせだった。トーク画面を開くと、佳純からで「今日休む」と書かれていた。
「はあ?!ふざけんなっ」
先ほどまで佳純がいた屋上に目を移すと、もう二人の姿はなかった。変わりに、昇降口を出て、七海の手を引っ張りながら、生徒会寮へと急ぐ二人の小さい背中が見えた。
「おいおいおい…」
思い合う番が、ようやく通じ合えたことは大変嬉しいことなのだが、それとこれとはまた別だ。
今日は始業式。始業式で生徒会長が不在ということは、大変問題である。
急いで電話を入れようとするが、メッセージには続きがあった。
「しばらく休むから、連絡を寄越すな」
「おいおいおいおいおい…」
急いで指先でタップして、やつの携帯に電話をかける。耳元に当てると、機械的なアナウンスが電源が切られていることを知らせてくる。何度やっても結果は同じだった。どうしてくれようか、と悩んでいると、後ろから大きな身体に包まれる。顔を振り向かせると、ゆるい顔の理央が湿度を持って囁く。
「ねえ、俺たちも休んじゃおうよ…」
ね、と理央が耳元に吸い付いてくる。れろ、と耳朶を舐められると、ぞぞ、と首筋の裏が痺れる。肩をすくめて、息を飲む。うっかり流されてしまいたいという自分を殴り倒して、理央を突き飛ばす。
「だめっ!俺たちは、ちゃんと、頑張ろう…」
あいつらの分も。
理央は不服そうだった。最後まで俺たちが我慢するの…と顔に書いてあった。仕方ない、と自分に言い聞かせて、理央をぎゅ、と抱きしめた。首筋にキスを落す。
「夜、必ず行く、から…」
吐息と共に耳に囁きかける。ぎく、と理央の身体が腕の中で固まったのがわかる。耳の先まで熱い。しかし、それは理央も同じようで、視界をかすめる耳が真っ赤だった。ちゅ、と耳朶に吸い付いて、離れる。真っ赤に固まる理央を振り返らずに、屋上を後にした。こめかみをすごい速さで血流が通っていくのがわかる。身体は熱いのに、爪先だけは妙に冷えているような感覚で、地に足がついていない気さえする。叫び出したい衝動を、階段を駆け下りるエネルギーに変えた。
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