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36 エピローグ
今日も満員電車に揺られている。
退職した翌週から新しい職場へ向かっている自分を、我ながら勤勉な人間だと思う。
職場が変わって、電車に乗っている時間が少し長くなった。風景らしい風景もない、真っ暗な地下鉄の車窓。相変わらず俺の視界は、人の頭頂部ばかりだ。
もぞ、と俺の懐で小さい頭が動いている。満員電車にかこつけて、遠慮もなく抱きついてくる痴漢がいる。
「こら」
「だって、次の駅で僕、降りるから」
甘え上手なウサギがうっとりと俺を見上げている。
そんなに熱い視線で見詰められると、車内であることも忘れてキスしたくなる。
「今日も部屋へ行っていい?」
「いいよ。夕飯はうちで食べろよ」
「うん。孝成に数学を教えてもらってから」
立星館ゼミナールのホープに、俺が教えられることなどないと思うが。
恋人と二人きりでマンションで過ごすのも、こうして朝、約束を交わす時間があるのも、どちらも嬉しい。
「俺の受講料は高いぞ。なにせライバル校の校長だからな」
「あ、そうか」
くすくす、と笑う伊勢の顔が好きだ。胸元に頬を寄せて甘える仕草も。
背中を抱いていた手が人知れず腰を撫でに下りてきても、ウサギなら構わない。
『次は──駅、──駅、お降りの方は…』
アナウンスが流れても離れようとしない痴漢に、仕返しの抱擁をする。自分たちがどんなに密着しても、満員電車だからきっと誰も見ていないだろう。
車窓の外が明るくなり、混雑したホームの風景が広がった。名残惜しい手を離して、伊勢をドアの方へと送り出す。
「気を付けてな」
「うんっ」
「また後で」
「また後で」
同じ言葉を伊勢も返した。電車が停車し、ドアが開く。
たくさんの乗客に押されながら、伊勢はホームへ降りた。
「行ってきます」
閉まるドアの向こうで手を振るウサギ。笑顔の恋人を乗せて、電車はまた、走り出した。
END
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