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第5話 妃候補としての新生活

 ビジュオール王国に来た僕の一日は、鶏の鳴き声で目が覚めるところから始まる。起きたらまず窓を開けて、気持ちのいい空気を胸一杯に吸い込む。アールエッティ王国ではまだ肌寒いが、海が近いビジュオール王国は新緑が眩しいよい季節だ。 「そういえば、ビジュオール王国には四季があるんだったな」  アールエッティ王国にも季節はあるが、夏は短く冬が長い。それも春や秋より少し暑いとか寒いとかいった程度で、季節感をたっぷり味わうことはなかった。  それに比べてビジュオール王国にははっきりとした四季があると本に書かれていた。そうした四季のもとで見る景色はどれほど美しいだろうと思い、つい荷物に詰め込む画材が増えてしまった。 「絵の具を使うときは許可を得なくてはな」  だが、まずは発情を迎えるのが先だ。そのための計画もすでに立ててある。  僕はさっと顔を洗って歯を磨き、着替えを済ませると朝イチのスケッチに取りかかった。毎日何かしら描かないと体調がおかしくなる僕は、とりあえずスケッチで一日を始めることにした。  スケッチをしていると侍女たちが朝食を運んでくる。初日は僕がスケッチしていることに驚いていたようだが、毎日同じことをくり返しているからかいまではすっかり慣れたらしい。今日も驚いた表情一つ見せずにおいしそうな料理を並べ、静かに頭を下げて部屋を出て行った。 「そういえば、一人で食事をするのは初めてか」  アールエッティ王国では、大体家族揃って食事をしていた。両親が忙しいときは妹のルーシアと食べていた。だから、こんなふうに一人だけで食事をするのは初めてということになる。 「まぁ、そのうち慣れるだろう」  少し寂しい気もするが、これがビジュオール王国での日常なのだと慣れていくしかない。  食事が終わり昼食の三時間前になると、後宮から出て“ベインブル”と勝手に呼んでいる部屋に向かう。  本来、後宮にいる妃候補たちが後宮の外に出ることは許されない。万が一でも間違いが起きては大変だからだが、僕は男性Ωだからかあっさりと許可が出た。相手がαでなければ子ができないからかもしれないが、遭遇する危険性は考えなかったのだろうか。 「まぁいいか。おかげで殿下に近づく機会が増えたのだしな」  まずは毎日殿下に会うこと。これが僕が考えた計画だ。ただすれ違うだけで発情を促せるのかはわからないが、とにかくαである殿下の近くに行かなければ何も始まらない。そのために僕が目をつけたのは、殿下の執務室のそばにある宝物庫と呼ばれる部屋だった。  そこは代々の王族が集めた品が置かれている保管庫のような部屋で、僕にとっては芸術品が山のように納められた夢のような場所だ。部屋の存在を知ったとき、僕は「なんて素晴らしい!」と芸術の神に感謝の祈りを捧げた。同時に「執務室の奥に貴殿の好きそうな部屋がある」と教えてくれたノアール殿下の言葉に「これだ!」とひらめいた。  殿下が執務室に行く時間を狙ってその部屋に行けば必ず顔を合わせることになる。殿下はほぼ毎日執務室へ行くと侍女に確認したから、毎日通えば毎日すれ違えるということだ。  すれ違うだけだから本当に短い時間しか近づけない。というより、ほとんど一瞬のようなものだ。それでも回数をこなせば接触時間を増やすことができる。質より量だと考えた僕は、とにかく毎日殿下とすれ違うことを目標に掲げることにした。 「それにしても」と、これから向かう部屋のことを思い出す。 「ベインブルのような部屋まであるなんて、いろんな意味で僕は幸運だな」  ちなみに“ベインブル”というのは芸術の神が住まう城の名前だ。そう言いたくなるほどの部屋だから、芸術の神への感謝の気持ちを込めてそう呼ぶことにした。  スケッチブックと木炭を仕舞った僕は、手を洗ってから服を整え廊下に出た。数十歩ほど歩くと後宮の出入り口に到着し、そこから王宮の表に入ることができる。フカフカの絨毯が敷かれた廊下の途中で左に曲がれば王太子専用の執務室で、さらに進むと目的地であるベインブルがある。 (今日もバッチリだ)  角を曲がったところで、前方から従者をつれたノアール殿下が歩いてくる姿が目に入った。相変わらず美しいデザインの服を身に纏っている。 (今日のカメオはストーンカメオだな)  どうやら殿下はシェルカメオだけでなくストーンカメオもお気に入りらしい。たまにキラキラ光る宝石も見えるから、カメオ・アビレも好きなのだろう。 (もしかしなくても殿下は、そこそこ芸術品が好きなんじゃないだろうか)  それなら会話も弾みそうだが、いまのところ殿下と話をする機会はない。殿下が僕の部屋を訪れたのは初日の一度きりで、そのときも十数分程度の会話で終わってしまった。  次に話す機会があればカメオの話題から入ってみようと思いながら、ほんの少し殿下のほうに距離を詰めつつ頭を下げる。そうして殿下が通り過ぎるのを待ち、頭を上げて歩き出そうとしたところで声をかけられた。 「毎日通っているようだが、飽きないか?」  振り返ると殿下が僕を見ていた。 「そんなことはありません。あの部屋にある品々の中には、失われてしまった過去の技術で作られた芸術品もあります。僕は絵画が専門ですが、それ以外のそうした品々にも興味があります」 「なるほど、アールエッティ王国の王子らしい言葉だ」 「ありがとうございます。いえ、いまの言葉に対してだけではなく、あの部屋への出入りを許可していただいて本当にありがたく思っています」  そう答えると、ノアール殿下の真っ黒な瞳がますます僕の顔をじっと見た。何かおかしなことを口にしたかと思いながらも視線を受け止めていると、「おもしろい」という小さな声が耳に入った。 (おもしろい? 僕が?)  別におもしろいことなど言っていないはずだがと首を傾げる。 「あの部屋はいつでも開いているから、見たいときに見ればいい」  そう言った殿下が、黒髪をなびかせながら執務室へと入っていった。 「いつも開いているなんて、不用心じゃないか?」  いや、これほどの王宮なら各部屋にいちいち鍵をかけなくても警備上の問題はないのかもしれない。そういうことなら食事の時間を省いてでも入り浸りたいくらいだが……いや、それでは目的が変わってしまう。 「僕は殿下に近づくためにベインブルに通っているのであって、それを忘れないようにしなければ」  改めて「まずは発情して、それから殿下とベッドを共にして、そうして子を生む」と呪文のように唱えながらベインブルの扉を開けた。  執務室の近くで殿下とすれ違うという作戦を始めてから十日が経った。まだ僕の体には何の変化もないが、そもそも発情するとどうなるのかわからないから接触を続けるしかない。 「それに発情すれば殿下が気づくだろうし」  むしろ気づいてもらったほうが都合がいい。そのままベッドに連れ込んでくれれば、いろんな手間が省ける。 「そういえば、あの問題が解決していなかったな」  僕は、いまだに殿下のアレを僕のどこに入れるのかわからないままでいた。出立ギリギリまでその手の本を探したが、残念ながらαとΩの夜の営みが詳しく書かれた本を見つけることはできなかった。歴代国王がαであるこの国ならその手の本もあるのだろうが、さすがに「αとΩの夜の営みについて書かれた本を貸してください」とは言いづらい。 「殿下のお任せするのが一番か」  そんなことを考えながらスケッチブックと木炭箱を片手に後宮の庭へ出た。そこは僕が滞在している部屋のすぐそばで、ちょうど花開いた芍薬がよく見える場所だった。あまりに美しいからスケッチしようと思い、ベインブルに向かう前に庭に通うことにした。 「アールエッティの王宮内には八重の芍薬ばかりだったが、一重の花も可憐で美しいな」  いままさに花盛りと言わんばかりの美しい花々を勢いよく紙に落とし込んでいく。静かな空間にシュッシュッと木炭が走る音はどこで聞いても落ち着くからか、僕は無心で芍薬を描いた。 「あら、あちらにいらっしゃるのは最近後宮に入られた方じゃないかしら」 「そういえば、そんな話があったわね」  不意に若い女性の声が聞こえて手が止まった。声がしたほうに視線を向けると、美しく着飾った姫君が数人、僕のほうを見ている。僕がいるところから少し離れているが、それでも声が聞こえるということはわざわざ大きな声を出しているのだろう。 (なるほど、こういうことは後宮らしいな)  アールエッティ王国は随分前に一夫一妻になったから、妃同士の牽制や揉め事といったことには無縁だった。ただ、コントリノール王国に嫁いだ叔母上から何度か後宮の話を聞いたことがある。 (話を聞いたときには、なんて恐ろしいところだと思ったものだ)  あのとき後宮を復活させてはならないと本気で思った。ところが何の因果か僕自身がその後宮に入ることになってしまった。しかもここには三十人近い妃候補がいるのだから、それだけたくさんの思惑が蠢いているということになる。  そう考えると、とんでもないところに来てしまった気がする。だが、そういう妃候補の姫君たちを僕は出し抜かなければならないのだ。  視線を芍薬に戻しながらも、目の端で姫君たちを観察した。全員が一様に似たようなドレスを着ている。肩部分が膨らみ、スカート部分がふわっとしているところなどまったく一緒だ。なにより全員が肌にぴったりくっつく形の首飾りをしているのが気になった。しかもすべて真っ黒で宝石一つ付いていない。 (もう少し個々の感性に合ったドレスを着たらいいのに)  もし後宮にいる妃候補全員が同じようなドレスを着ているのだとしたら、似たり寄ったりでつまらなくはないだろうか。それ以前に全員がお揃いでは不気味な気がする。 (いや、それがこの国での普通なのかもしれないのか)  他国の感性をあれこれ言うのはよくない。他者との違いを認めてこその芸術で、アールエッティ王国はそれを心がけてきたから芸術の国として花開いたのだ。 「そのせいで貧乏まっしぐらだけどな」  国のことを思い出すと誇らしいやら情けないやら複雑な気持ちになる。それでも、あの国は僕の祖国だ。第一王子として生まれた僕は、国のためにここで王太子妃にならなくてはいけない。そう思い直した僕は、ただ無心でスケッチを続けた。  こんなふうに朝の庭でスケッチをするようになって三日が過ぎた。気のせいでなければ近くの廊下に現れる姫君の数が増えたような気がする。 「なんというか、これではやっぱり珍獣のようだな」  小さくため息をついたところで姫君たちの声が聞こえてきた。 「いつもああしていらっしゃるのね」 「そういう国からいらっしゃったそうよ」 「なんと言ったかしら。ほら、西のほうにある小さな国で……」 「アール何とかと言ったのではなくて?」  国名はアールエッティで、場所は西ではなく北西だ。芸術国として名が通っているはずだが、あまり付き合いのない東側では国名すら覚えてもらえていないらしい。四年に一度の芸術祭では宣伝効果が低いとなれば、回数を増やすべきか。そんなことをあれこれ考えながらスケッチを続けていると、一際大きな姫君の声が耳に入ってきた。 「王族が絵を描くなんて、笑ってしまいますわね」 「絵は画家に任せればよいのに」 「ほら、あんなに手を真っ黒にして。あれでは服も扇子も汚れてしまいますわ」 「同じ妃候補だなんて思いたくないものね」  指摘された自分の手に視線を向けた。なるほど、木炭を使っているから右手の指は真っ黒だ。遠目でよく指先まで見えるものだなと感心する。 (手が汚れることをどうこう思ったことはなかったな)  アールエッティ王国では誰もが芸術家であり、道具製作や梱包、備品調達など芸術に携わる仕事をしている者が多い。農家や土木仕事を担う職人たちも芸術を嗜み、王族も全員が芸術家だ。そのことを誇らしく思うことはあれど、恥ずかしいと思ったことは一度もない。 (しかし、この国では違うということだ)  僕自身がどう思われようとかまわないが、これではアールエッティ王国が悪く思われてしまいかねない。それは僕の本意ではなかった。 「庭のスケッチはやめておくか」  以前のように朝のスケッチは部屋ですることにしよう。それから朝食を食べ、これまでどおりベインブルの部屋に行けばいい。 「それに、庭のスケッチも随分とできたしな」  すでに五十点ほどの花の絵を描き終わっている。これをキャンバスに写し取り色を塗り始めるのもよさそうだ。 「となると、殿下に許可をいただく必要があるか」  そう思うと、ほんの少しためらう気持ちになった。もし殿下も絵を描く自分を快く思っていなかったとしたら……そう思うと気分が沈む。 「先に確認したほうがよさそうだな」  まずは殿下が芸術をどう思っているか確認しよう。そこで否定的な意見が出たとしたら辛抱するしかない。芸術を拒絶されるのは耐えがたいが、僕は芸術のためにビジュオール王国へ来たわけじゃない。 「わかってはいるんだ」  それでも国と僕自身を否定されるかもしれないと思うと足取りが重くなる。部屋に帰った僕は、いつもより丹念に手を洗うことにした。よい香りの石鹸を泡立てながら、すっきりしない気持ちを洗い流すように何度も何度も手を洗った。

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