6 / 19

第6話 小さな異変

「どうも調子がよくないな」  原因には心当たりがある。日々のスケッチ時間を減らしているからだろう。それに満足いくスケッチもできていない。  六歳の頃、自分の絵が気に入らなくて勝手に臍を曲げたことがあった。想像しているものと自分が描き出すものがあまりに違いすぎて癇癪を起こしたのだ。いま考えれば、なんとも芸術家らしい気質じゃないかと微笑ましく思う。しかし当時の僕にそんなことがわかるはずもなく、腹が立って仕方がなかった僕は絵を描くことを放棄した。というよりも、描けないなら描かなくていいと考えたのだ。  最初の三日間は何ともなかった。ところが四日、五日と経つにつれて少しずつ寝付きが悪くなり、十日が経つ頃には食欲までなくなってしまった。それでも頑なに絵を描こうとしなかった僕は、十四日目に高熱を出して寝込んでしまった。 「後にも先にも、病気はあれだけだったな」  あのとき、自分は絵を描かなくてはいけない体質なのだと理解した。それから今日まで、時間の長短はあれど毎日必ず絵を描くようにしている。  そういう意味では昨日も今日も短時間ではあるもののスケッチはした。しかし、どうも調子がよくない。 「やはり、楽しいと思いながら描かなくては意味がないか」  わかってはいるが、いろいろ考えてしまうせいかスケッチに没頭することができなかった。この状況を打開する方法はただ一つ、ノアール殿下に確認することしかない。 「まずは殿下に芸術をどう思っているか訊ねたいところだが……」  殿下とは毎日のようにすれ違っている。そのとき「殿下は絵画はお好きですか?」だとか「カメオが素敵ですね」だとか声をかければいい。その流れで僕が絵を描くことをどう思うか尋ねるだけだ。  脳内ではいくつもの問答を想定しているのに、実際に殿下の姿を見ると言い出せなかった。それを何日もくり返している。 「絵を描く僕は不愉快だと言われるかもしれないと思うと、どうにも言い出せなくなるな」  これまで、そんな言葉を投げかけられるかもしれないと考えたことすらなかった。誰もが僕の絵を褒め、僕自身も画家であることを誇りに思ってきた。それらを否定されるのは僕自身を否定されるということで、そう感じてしまうからか話しかけられない。 「いや、この際細かなことは後回しだ。まずは殿下が芸術にどの程度興味を示すか探って、それから僕が絵を描くことをどう思うか聞こう。運がよければ会話が弾むだろうし、そうなれば発情も近づくはずだ」  それに絵を描くことを不快に思っていなければ堂々と描き続けることができる。一石二鳥だと思えばためらうことは何もない。 「よし。さっそく今日、殿下に尋ねてみることにするか」  そう考えた僕は、結局一度も木炭を手にすることなくスケッチブックを閉じた。そうして汚れていない手を念入りに洗い、服を整えてから廊下に出る。後宮を出て王宮の表に入り、いつもどおりフカフカの廊下を左に曲がったところで殿下の姿が目に入った。 (少し緊張するな)  どんな大国の王族を前にしても緊張したことなどなかった僕だが、ほんのわずか手に力が入る。足も少し重く感じているが、発情のためにも今後のためにも早く解決したほうがいい。  僕は意を決して殿下のほうへと足を踏み出した。 (まずは頭を下げ、体二人分ほど離れたら声をかけよう)  そんなことを考えながら頭を下げると、「最近描いていないそうだな」という声がした。 「え?」  言われた意味がわからず顔を上げれば、すぐ目の前に殿下が立っている。相変わらず美しい装いだなと思いながら「何のことでしょうか?」と返事をした。 「後宮の庭で絵を描いていただろう?」  おっと、すでにご存知だったとは。いや、それもそうか。あれだけ姫君たちに見られているわけだし侍女たちも知っているはずだ。  逆に殿下のほうから話題を振ってくれてよかった。この機会を逃す手はない。 「絵を描くのは日課なのでスケッチをしていました。もしや、ぼ……わたしが絵を描くのは不快だったでしょうか」  これで不快そうな表情になったら絵を描くことは諦めよう。部屋の中でも侍女たちに見られてしまうから、それこそ寝室で隠れてスケッチするしかない。あとは気分を害したことを謝り、これまでどおり廊下ですれ違う作戦を続ければいい。  そんなことを考えていた僕の耳に、「別に不快ではないし、描きたいのなら描けばいい」という返事が聞こえてきた。 「そう、ですか」  意外な言葉に驚いてしまった。 「なぜ驚いている」  慌てて微笑みを作り、小さく頭を下げて「すみません」と謝罪する。 「なぜ謝る?」 「あぁいえ、失礼な態度を取ってしまったかと思いましたので」 「別に失礼だとは思っていない。ただ、なぜ驚いたのかと思っただけだ」 「それは、こちらでは王族が絵を描くことは一般的ではないと思っていたからです」 「たしかに一般的ではないな。だからといって、貴殿が絵を描くことを不快に思ったりはしない。アールエッティ王国は芸術の国で王族も芸術を嗜むということは、わたしも知っている」  殿下の言葉に、重く感じていた気持ちがふわりと軽くなった。 「ありがとうございます。おっしゃるとおり我が国は誰もが芸術家でして、王族であっても芸術家の一人として活動しています。かく言うわたしも、幼い頃から絵を嗜んできました」 「知っている。隣国の王太子が、見合い用の肖像画を貴殿に描いてもらったと自慢していた」 「そうでしたか! 肖像画はわたしの得意とするところでして、これまで多くの王侯貴族の肖像画を手がけてきました。そうだ! 殿下も肖像画がご入り用でしたら喜んで描かせていただきます……ので……」  しまった、調子に乗りすぎた。絵のことになると、相手のことなどおかまいなしに話をしてしまうのは悪い癖だ。 「失礼しました。これ以上執務の邪魔をするわけにはまいりませんので、ぼ……わたしは、このへんで失礼を」 「別に急ぎの仕事はないからかまわない」  改めて見た殿下の顔は相変わらず無表情に近い。気にしていないと言っている割には表情が変わらないというか、本心が読みづらい人物だなと思った。 「貴殿がどれほど絵を好んでいるのかよくわかった。後宮に限らず、スケッチをしたいのならどこででもするといい」 「寛大なご配慮、ありがとうございます。あの、それでは一つお願いしたいことがあるのですが」 「なんだ?」  本心ではどう思っているかわからないが、少なくとも僕が絵を描くことは否定されなかった。それならついでに訊いてしまおう。 「部屋で絵の具を使ってもよいでしょうか」  言ったあと、殿下の表情がわずかに変化したように見えた。これは驚いている顔だろうか。 「絵の具とは……あぁ、色を塗りたいということか」 「はい。絵の具は匂いがありますし、道具を広げるので場所も取ってしまいます。それに万が一床など汚してしまうかもしれませんので、先に許可をと思いまして。あぁ、でもそこはきちんと配慮します。絵の具が落ちても大丈夫なように養生用のシートも持ってきましたから」 「持ってきたとは……もしや、荷物に絵の道具を詰めて来たのか?」 「はい。スケッチ用の木炭やスケッチブック、絵の具や溶き油に筆、大小様々なキャンバスに養生シート、簡易イーゼルも持ってきました。そうだ! 我が国で開発した色鉛筆もあります。あれはそのまま使えば鉛筆ですが、水を含ませた筆でなぞると水溶き絵の具のような風合いに変わって……って、あはは」  またやってしまった。僕は引きつった笑みを浮かべながら「すみません」と静かに頭を下げた。 「謝る必要はないと言っただろう。それに部屋は好きに使っていいとも言ったはずだ」 「ありがとうございます」  変な王子だと思われたかもしれないが、少なくとも不快には思われなかったようだ。そのことにホッとしながらも、今後は気をつけなければと自分に言い聞かせる。 「それにしても、それだけの道具を持ってきたとなると鞄のほとんどは絵の道具で埋まったのではないか?」 「四つのうち三つは画材で埋まりました」 「では、身の回りの物は一つ分だけか」 「元々絵の道具以外はそれほど必要ありませんので、それで十分です」  姫君たちなら化粧道具や装飾品など必要な物も多いのだろうが、男の僕は着替えの服や下着類で十分だ。そのくらいなら鞄一つあれば足りる。それに衣服類なら買い足すことができるが、画材はそうはいかない。  僕の答えに殿下がまた少し驚いた顔をした。やはり多くの画材を持ち込んだのはよくなかっただろうか。 「おもしろい王子だと思っていたが、想像以上におもしろいな」 「ありがとうございます」  褒められているようには聞こえないが、不快に思われなかったのならよしとしよう。 「絵に夢中になっている人物は身近にいなかったな。そのうち貴殿の描く絵を見に行くことにしよう」  そう告げた殿下は、僕が返事をする前に執務室へと入ってしまった。 「絵を見に来るということは、それだけ接触の機会が増えるということか」  思わぬ展開になった。本当に絵を見に来てくれるなら濃厚接触も狙える。それなら発情も早く訪れるに違いない。 「いろいろ悩んだりもしたが、よい結果になったな」  僕は晴れやかな気分でベインブルの部屋へと向かった。  それから五日後、なんと言葉どおり殿下が部屋にやって来た。 (まさか、こんなに早く見に来るとは)  若干戸惑いながらも、背後からの視線をキャンバスと筆で受け止める。  今日は殿下の執務が休みだと聞いた僕は、ベインブルに向かうことなく朝食後からキャンバスと向き合っていた。まずは手慣らしにと、ケーキ皿ほどのキャンバスに芍薬を描くことにした。この大きさならそこまで多くの道具を必要としないし、養生も簡単で済む。  養生シートを床に敷き、下描きが済んだ小さなキャンバスを組み立てたイーゼルに載せた。椅子の横には鞄を積み上げて養生シートを敷き絵の具を置く机代わりにする。そうして「さぁ、下塗りを始めるぞ」と筆を握ったところで、まさかの殿下の登場だ。 「ふむ、絵とはこうして描き始めるのか」 「人によりますが、僕はこのように下塗りをしてから本格的な色つけに入ります」 「これは?」 「絵の具を溶く油ですね」 「……不思議な香りがする」 「我が国で開発した溶き油は、従来の油より匂いがきつくありません。代わりに植物由来の素材を使っていますので、ものによっては花やハーブの香りがします」 「ほう」  よほど珍しいのか、殿下が溶き油の入った瓶を手にとって見ている。ほかにも絵の具や絵筆の種類、キャンバスの大きさなどいくつも質問された。 (思っていたよりも芸術に興味があるのかもしれないな)  質問の内容からそう判断した。それなら僕にとっても好都合だ。  もし本当に殿下が芸術に興味があるのなら、今後も絵画をとおして接触機会が増えるかもしれない。それなら僕の発情も順調に促されるだろう。発情さえすれば殿下とベッドを共にできるだろうし、うまくすれば子も授かるはずだ。 (そうすれば晴れて妃になり、アールエッティ王国を助けることができる)  それに芸術の話ができるのなら妃になってからも楽しい日々が送れそうだ。こうして毎日絵も描けるだろうし、生まれた子に絵を教えてやれるかもしれない。 (まさに薔薇色の未来じゃないか!)  こうなったら、あとは早く発情するだけだ。まずは発情し、それに気づいた殿下とベッドを共にし……そこまで考えて、またあの問題にぶち当たった。 (結局、殿下のアレをどこに入れるのかはわからず仕舞いだな)  学んだ本の図柄を何度も思い返したが、男の僕には入れるべき場所がない。Ωになったら現れるのかとも思ったが、そういう場所はどこにも見当たらなかった。 (まぁ、発情したときに考えればいいか)  いまは発情することが先決だ。そのためにも殿下との濃厚接触を続けなくてはいけない。そんなことを考えながら、下絵の線に沿って淡い色を載せていく。 「ただ線で描いているだけの状態でも、うまいものだな」  不意に聞こえてきた殿下の声にドキッとした。 「ありがとう、ございます」  絵を褒められることには慣れているが、下絵を褒められたのは久しぶりかもしれない。そもそも完成前の絵を家族以外に見せることがないから当然だ。 「この線が、どのような絵になるのか楽しみだ」 「おそらく十日前後で完成すると思います」 「そんなに早く描き終わるのか」 「この大きさですし、手慣らしにと考えていましたので」 「なるほど。さすがはアールエッティ王国一の画家と呼ばれる貴殿だな」 「もったいないお言葉です」  なんだろう、胸が少しくすぐったい。これまで数え切れないほど聞いてきた賛辞なのに、殿下に言われると少し違っているように聞こえる。これも僕が妃候補という立場だからだろうか。 (そうだな。未来の夫になるかもしれない相手に褒められれば、さすがに少しは照れるか)  トクトクと小さく高鳴る鼓動を感じながら、僕は無心であれと念じつつ筆を動かした。

ともだちにシェアしよう!