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第7話 後宮バトルロワイヤル
使い切った絵の具がアールエッティ王国から届いたと聞き、自分で取りに行くほうが早いと思った僕が浅はかだった。そう思ったのは、前方から五人の姫君たちが歩いて来るのが見えたからだ。
(困ったな)
僕をよく思っていない姫君たちに何か言われるのは目に見えている。かといってここで踵を返すのはよくない。「仕方ない」と小さくため息をつき、会釈をして廊下の端を通り過ぎようとしたときだった。
(お……っと、危ない)
爪先に何かぶつかって躓きかけた。スッと消えた棒のようなものは、姫君の一人が手にしている日傘だ。もし僕が姫君たちのような靴を履いていたら転んでいたかもしれない。
「そういえばあの方、絵の道具を山のように持ち込んでいるそうよ」
「まぁ。一体何をしにここにいらっしゃったのかしら」
「お妃候補ではなく絵を描きにいらっしゃったのね」
扇子で口元を隠してはいるが、明らかに僕に聞こえるように話している。
(スケッチのときと言い、毎回こうだと少し疲れるな)
だが、これが後宮での日常なのだろう。三十人近くいる妃候補たちは互いに牽制し合い、誰よりも早く殿下の子を生みたいと思っている。そのためには一人でも多くの候補を退けたいに違いない。
(もしかしなくても、こういうことを想定しての「身一つで来るように」ということだったのか)
そうしなければ、この程度の小競り合いでは済まないような気がする。それこそ家や国同士の争いに発展しかねなかっただろう。
(だから姫君同士で手を組んでいるのだろうが、最後は個人戦になるはずだよな?)
つまり、手を取り合っている仲間同士で蹴落とし合うことになる。そう考えると何とも恐ろしい話だなと思った。
僕もそんな妃候補の一人なのだ。悠長に「後宮とは恐ろしいものだな」なんて感心している場合じゃない。わかってはいるものの、男の僕が姫君たちの足を引っ張るという考えにはどうしても至れない。
(それなら、僕が誰よりも早く子を孕んでしまえばいいということなんだろうが)
それが何より難しいことはわかっている。
「いくらΩだとしても男性ですもの。早々に諦めたほうが身のためよ」
「そもそも男性のΩが本当に子を生めるのかわからないわ」
「子を授かることができるのか怪しいものね」
(それは僕も気になっているんだ)
元侍医の話ではΩなら男でも確実に妊娠するということだが、そもそもαのアレを入れる場所がない。それでどうやって子を孕めるというのだろうか。
(いやいや、それではアールエッティ王国の未来が危うくなってしまう)
それ以前に僕は発情すらしていない。いまの僕には問題が山積みだ。一人でどうにかできることなら努力もするが、殿下に接触することくらいしかできることがないのが歯がゆい。
どうすべきかブツブツつぶやいていると、「嫌だわ、独り言かしら」という声が聞こえてきた。視線を上げると姫君たちの背中が見える。どうやら無事に乗り切れたみたいだが、「白っぽい見た目は気味が悪いわ」という言葉が引っかかった。
「それも嫌がられる原因の一つか」
アールエッティ王国がある北西の地域には色の薄い人間が多く住んでいる。一方、ビジュオール王国がある東や南側は黒髪や黒目が多く、肌の色も僕たちより少し濃い。そんな中では、僕のように銀色の髪や淡い碧眼は気味が悪く見えるのだろう。しかも僕の髪は短いながらもフワッフワで、そうした髪質の人も見当たらなかった。
「姫君たちとは極力接触しないのがお互いのためか」
祖国にいたときには考えもしなかった問題がたくさん出てきた。しかしこれも国のため、何としても後宮で生き残り最初に殿下の子を生まなければならない。そうして妃となって国の借金と未来を何とかするのだ。
「それに、男の僕には期限があるようだしな」
それが最大の問題だった。いつまで後宮にいられるのか確認していないが、殿下の最初の言葉から察するにそう長くはないだろう。
やれやれとため息をつきながら、穏やかに過ごしていたアールエッティ王国の生活が懐かしいなとため息が漏れた。
「なぜ母上主催のガーデンパーティに参加しなかった? 招待状が来ただろう?」
殿下が「母上」と呼ぶ人物はビジュオール王国の王妃しかいない。その王妃から招待状が来なかったかと問われ首を傾げた。
(もしや、姫君のどなたかが隠したかな)
あり得る話だ。もし僕がガーデンパーティに参加すれば否が応でも目立つだろうし、王妃の目に留まる可能性もある。姫君たちはそれを嫌がったのだろう。
(僕としては姫君たちと接触しなくて済んだのだからよかったわけだが)
ただ、殿下に招待状が届いていないことを知られるのはよくないような気がした。僕が告げ口した形になっては後々面倒なことになりかねない。
「後宮での催しには参加しないほうがよいかと思いまして」
「なぜだ?」
「僕はΩではありますが見た目は男ですし、なかにはよく思われない方々もいらっしゃるでしょう」
「なるほど。母上は残念がっていたようだが、理由はわかった」
「それは申し訳ないことをしました」
「いや、気にしなくていい」
横に立つ殿下にチラッと視線を向ける。相変わらず表情は読めないが、一応は納得してくれたようだ。
(後宮で生き残るというのは大変なんだな)
小さくため息をつき、黄色の絵の具を含ませた筆をキャンバスに載せる。
芍薬を描き終わった僕はいま、部屋の窓から見える庭の薔薇を描いている。小振りな花をたっぷりと咲かせる黄色の薔薇は、アールエッティ王国の庭でもよく見かけた種類だ。棘がないから少し切り分けて王宮内に飾ることもあり、懐かしくなって新しい題材に選んだ。
薔薇の絵は殿下も気に入ったらしく、最近では昼食後によく覗きに来るようになった。小一時間ほど僕が絵筆を動かすのを見ながら絵や庭の話をするのだが、ガーデンパーティの話もそんな中で出てきた話題だった。
薔薇に鮮やかな黄色を載せ終わり、次は光を描き入れるかと新しい筆を手にしたところで、殿下がやけにじっとキャンバスを見ていることに気がついた。
「殿下、どうかされましたか?」
「あぁ、いや何でもない」
そう言いながらも口元に右手を当て何か考えている。もしや僕の描く薔薇に問題でも見つけたのだろうか。そう思った僕は、もう一度「殿下、どうぞおっしゃってください」と声をかけた。
「気に障ったら申し訳なく思うが……」
「いえ、拝聴します」
芸術とは作る側の人間だけのものではなく、大勢に見られて初めて光り輝くものになる。そのためには見る側からの意見を聞くことも大事だと、幼いときに絵画の師に教わったのを思い出す。
「貴殿の絵は写実的で素晴らしいが、この絵ならもう少し輪郭をぼかすというか、荒くするというか……あぁ、うまく言葉にならないな」
「輪郭……荒く……なるほど。写実性よりももっと抽象的な……そうですね、子どもの絵本のような風合い、ということでしょうか?」
「あぁ、それが近いかもしれない。いや、気を悪くしたのならすまなかった」
「いえ、それは大丈夫です。なるほど、抽象画的な要素か」
僕はこれまで写実的な絵を中心に描いてきた。まるで生き写しのような肖像画が人気なのも、僕のそうした技術が高く評価されているからだ。しかし、殿下の意見になるほどと思う部分もあった。
(違う要素を取り入れることで新たな扉が開かれることもあるか)
いまの僕に行き詰まった感はまったくない。さらに写実性を極めようという意欲もある。だが、そうではない一面も今後の僕の絵には必要となってくるかもしれない。
「殿下、ありがとうございます。早速取り入れてみようと思います」
改めて礼を述べると、殿下の黒目がほんの少し笑ったように見えた。
この日から、殿下との芸術談義により一層花が咲くようになった。おかげで殿下との濃厚接触も順調に進み、いよいよ発情するのではと期待も膨らんできた。
「そう、とてもよい方向に進んでいるとは思うんだが……」
部屋の隅の小さな山を覆い隠している養生シートをそっとめくる。そこには真っ白なキャンバスやスケッチブック、木炭箱が積み上げられているが、一番上には完成した芍薬のキャンバスが置いてある。ただし、真ん中には大きな切れ目が入っていた。
「しかも、ご丁寧にバッテンときたものだ」
明らかに悪意があっての仕業だ。この部屋には常に侍女がいるわけではなく鍵もついていない。だから後宮にいる人物なら誰でも出入りすることが可能だ。
「姫君の誰かがやったか、もしくは頼まれた侍女がやったか……いや、後者はないな」
二カ月近く後宮にいれば、侍女たちが誰かの肩を持つような教育を受けていないことはわかる。おそらく殿下が厳しく命じているのだろう。
ということは姫君の誰かが、もしくはいずれかの集団がやったに違いない。無残に引き裂かれたキャンバスを指で撫でると胸がズキンと痛んだ。
「何も罪のない絵を傷つけなくてもよいのにな」
急激に殿下との接触が増えてきた僕が目障りになったのだろう。男の僕に自尊心を傷つけられたということかもしれない。どちらにしても、僕は完全に標的にされてしまったということだ。
ふと、破れたキャンバスの端に視線がとまった。そこは芍薬の花びらと葉の間の部分で、薄い青と紫を混ぜた色がポンポンと載せるように塗られている。
「初めて筆を使ったと話していたのに」
他とはまったく違う筆使いのその部分は殿下が塗ったところだ。
あまりに興味深そうに見ているから「少し塗ってみますか?」と言って筆を差し出した。少し驚いたような顔をしていた殿下だったが、やはり興味があったのだろう。筆を受け取ると、ここにポンポンと絵の具を載せたのだ。そうして「絵筆を握ったのは初めてだ」と感慨深げに口にした。
「殿下の目に触れないようにしよう」
僕自身は「絵がかわいそうだ」と思うだけだが、初めて筆を使った殿下は傷つくかもしれない。それが元で絵画への興味が遠のくのは悲しい。
「初めてだったのにな」
少し盛り上がった絵の具の部分を指で撫でる。色を載せたあと、珍しく少しだけ楽しそうな表情になった。普段表情が変わらない殿下だからかよく覚えている。あの顔を思い出すと、やはり胸がズキンと痛んだ。
「……ふぅ」
無意識に出た息がやけに熱い。
「僕はそれほど怒っているということか?」
いや、そんな気持ちは抱いていない。むしろ悲しみのほうが強いくらいだ。
「じゃあ、この熱っぽさはなんだろう」
そういえば高熱で倒れたときにほんの少し似ている気がする。あのときは急に熱が上がったが、回復する途中はこんなじわっとした感覚だった。
「今日は殿下も来ないし、少し早めに休むか」
養生シートを被せる指までも少し熱い。風邪でも引いたのだろうかと思いながらも、少しだけ薔薇の絵に向かった。しかし集中することはできず、「やっぱり今日は駄目だな」とため息をついて筆を置いた。
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