「やはり香りはしないが……少し触れるぞ」 「……っ」 　声がしたあと尻のあたりを撫でられて驚いた。というより、撫でられたことが気持ちよくてびっくりした。 （なんで気持ちがいいんだ……？） 　腰や尻、お腹を撫でられるだけでゾクゾクする。思わず滅多にしない自慰のときを思い出し戸惑っていると、ボタンを外され上着を脱がされた。そのままタイを取られカフスも取られる。 　気がつけばズボンを穿いていないのにシャツは羽織ったままという、よくわからない格好になっていた。靴は脱がされたが、膝下まである靴下は履いたままのような気がする。 「んっ」 　素肌にシャツが擦れるだけでゾクッとした。熱があるからか下半身がほぼ裸だというのに肌寒さは感じない。 「男のΩは香りがしないものなのか？」 　不思議そうな声に、閉じていた瞼をゆっくり開けた。目の前にはシャツとズボンだけになった殿下の姿がある。 「殿下……？」 　これはどういうことだろうか。視線をぐるりと巡らせると、自分が薄暗い部屋のベッドに横たわっていることがわかった。ただ、見慣れたいつものベッドとは違う。それに、かすかにだが焼き菓子のような香りもした。 「これは、バターか……いや、ミルクか？」 　なぜそんな香りがするのだろうかと思っていると、「礼儀として、一応確認しておく」という声が聞こえた。見ると殿下の顔がやけに近くにある。 （そうか、覆い被さっているから……というか、なぜこんな状況に……？） 　薄暗いため殿下の表情はよくわからない。声だけで判断すれば少し焦っているようにも感じる。 「これから発情の相手をするが、かまわないな？」 「……はつ、じょう……？」 　一瞬何を言われたのかわからなかった。そうして殿下の言葉が頭を一周し、ようやく自分の状況に思い至った。 （なるほど、これが発情なのか） 　目眩も熱も感じるから、てっきり風邪か何かで高熱が出たのかと思っていた。一人でいたときなら、これが発情だとはわからなかっただろう。 （殿下が近くにいて、よかった） 　しかも願ったり叶ったりの状況になっている。考えていたとおり殿下の近くで発情し、そのままベッドに連れ込まれた。そうしていま「発情の相手をする」と言われた。 　それはつまり、これからベッドを共にするということだ。 （アレの問題はわからずじまいだが、まぁ、いいか） 　万事、殿下がうまくやってくれるに違いない。それに僕はこの機を逃すわけにはいかないのだ。ここで子を孕むことができれば大国ビジュオールの王太子妃の一人になれる。 「よろしく、おねがい、します」 　朦朧とした頭のまま、とりあえずそれだけは口にすることができた。そんな僕の言葉に、殿下が少し笑っているような声で「わかった」と答えた。 　まさか、尻があんなに気持ちよくなれる場所だとは思わなかった。それに、心配になるほどグジュグジュに濡れていたような気もする。 　おぼろげながら、尻の中を殿下の指であれこれされたのは覚えている。とにかく気持ちがよくて大変だったということしか記憶にない。むしろ気持ちいいこと以外の感覚が抜け落ちているくらいだ。 「発情とは、すごいものなんだな」 　そうとしか言いようがなかった。最中は気持ちがよくて何度も泣いた気がする。うっすらとだが、とんでもないことを口走った記憶もある。それもこれも頭がおかしくなるくらい気持ちがよかったせいだ。 　そんな強烈な状況が続いたからか、意識がはっきりしているいまも体が熱っぽい。というよりも……。 「尻の奥が熱い」 　いや、奥だけじゃない。出口……いや、この場合は入口か。とにかくそこもジンジンと熱を持っていて、お腹の奥も妙に熱っぽかった。体中が気だるく、肌が敏感になっているせいか着ている夜着の感触すらくすぐったく感じる。 　ジンジンする尻を気にしながら少し動いたところで、あることに気がついた。 「そうか。僕にはほかに穴がないから尻なのか」 　ようやくあの謎が解けた。まさか尻とは思わなかったが、よく考えれば僕の体にはそこしか突っ込める場所がない。解決したのはいいが、ますます珍獣のような気分になった。 「女性のΩは普通の女性と同じなのだろうが……男のΩは、やはり変わっているということだな」 　尻に突っ込んで子ができるなんて、いくらΩでもとんでもなさすぎる。人体の不思議を超えて珍獣としか思えない。 「まぁでも無事に発情したわけだし、これで子ができていれば万々歳だ」 　初めての発情で子ができるのかはわからないが、可能性はなくはない。子ができたかは閨の本で何度も読み返したからきっとわかるはずだ。 「ちょっと待て。腹に子ができたとして、僕はどうやって生むんだ？」 　ベッドに横たわったまま、じっと天井を見る。本にはナニを入れる場所から子が出てくると書かれていた。ということは、つまり……。 「いや、そこは違うのかもしれない。それに、まだ子ができたと決まったわけじゃないしな」 　子ができなければ困るが、すぐに子ができても困るような気がする。どうやって子が生まれるのかわからないうちは孕みたくない気もしてきた。 　眉をひそめながらそんなことを考えていると、扉が開く音がした。頭を動かし視線を向ければ、いつもより身軽な服装の殿下が水差しを持って近づいてくるところだった。 「目が覚めたか」 「これは殿下、……っ」 　慌てて起き上がろうとして失敗した。なぜか腰や足に力が入らず、上半身をうまく起こすことができない。 「無理に動かないほうがいい。体を起こしたいなら手伝ってやろう」 　そう言った殿下の手で、あっという間に起こされた。まるで僕に重さがないような様子で、これまた簡単に背中を支えるクッションを差し込まれる。 （そういえば、ここに運んでくれたのも殿下だったか） 　僕より頭一つ大きい殿下だが、騎士たちのようなムキムキの体には見えない。そう見えないだけで案外よい体つきをしているのだろうか。それならぜひ一度描きたいところだが……おそらくベッドの中で何度も目にしたであろう殿下の体の記憶はまったくなかった。 「申し訳ありません」 　残念なことをしたと思いながら、手を煩わせてしまったことを謝る。 「かまわない。それに随分と無理をさせたのはわたしのほうだ」 「無理？」 「三日三晩ベッドを共にした。その間ほとんど繋がったままだった。体に力が入らないのはそのせいだろう」 「三日、三晩」 「傷がないことは確かめたが、痛くはないか？」 「傷……」 「わたしをあれだけ受け入れ続けたんだ。もし痛いのなら塗り薬を用意してある」 「……いえ、たぶん、大丈夫だと思います」 　熱を持っている感覚はあるが、薬を塗るほどではない。というより、ここで頷けば間違いなく殿下の手を煩わせることになる。なにより場所が尻では遠慮せざるを得なかった。 （それに、三日三晩とは……） 　国で読んだ本に「αとΩの交わりは普通の人よりも長い」と書いてあったが、それほどまでとは思わなかった。しかも「ほとんど繋がったまま」ということは、僕の尻に殿下のアレが入ったままだったということだ。 （Ωの尻とはすごいんだな） 　実感はないが、ただただ感心する。そんな僕の目の前に、美しい色のグラスが差し出された。 「喉が渇いているだろう」 「ありがとうございます」 　色合いから察するに、南の地域で作られている吹きガラスだろうか。小さな気泡までもがデザインの一つに見えるのが素晴らしく、深い青色が見たことのない南の海を思わせるようで興味を引かれた。 「グラスに興味津々なのはいいが、まずは水を飲んだらどうだ？」 「あぁ、すみません。つい気になって」 　殿下の言葉はもっともだと思い、口をつけてグラスをグイッと傾ける。思ったより喉が渇いていたのか、たっぷり注がれていた水はあっという間になくなった。 「ふぅ。発情とは、こうも喉が渇くものなんですね」 「それは発情のせいというより……いや、それよりもう一杯必要か？」 「ありがとうございます」 　殿下自ら注いでくれた水を、また一気に飲み干す。そのまま空になったグラスの側面や底を見ていたら、ベッド脇の椅子に座った殿下が「おもしろいな」と口にした。 「はい？」 「これまで出会ったΩで、貴殿ほどおもしろい人物はいなかった」 「男のΩだからですか？」 「それだけではないが、確かに男性のΩは珍しい。我が国でも七十年前の王妃にいただけで、記録もあまり残っていない」 「ということは、殿下のご先祖に男性のΩが？」 「曾祖母にあたる人が男性のΩだった」 　なんという偶然だろうか。いや、そういうことがあったから行き遅れのような僕にも声をかけてきたのだろう。しかも、こうしてひ孫の殿下がいるということは男のΩでもちゃんと子を生めたということだ。そのことにホッとしつつ、グラスを水差しの隣に戻した。 「もしやと思い曾祖母が書き記した日記を調べてみたが、香りのことまではわからなかった」 「香り？」 「貴殿からはΩ特有の香りがしなかった。いや、ほんのわずか甘い香りがしたような気はしたが、発情したΩはもっと香るものだ。それこそαやΩでなくてもわかるくらいにな」 　そうなのか。しかし僕は間違いなく発情していたはずだ。だから殿下とベッドを共にできたわけで、三日三晩もの間、殿下のアレを尻に入れることになった。 「貴殿の香りは、あまりにもかすかだった。その原因が男性だからかと思って曾祖母の日記を読んだんだが、それらしいことは書かれていなかった」 「あー……」 　もしかしてと思った。それなら香りがしなくても合点がいくような気がする。 「何か心当たりでもあるのか？」 　殿下の顔をチラッと見る。表情はよくわからないが、何かを懸念したり訝しんだりしているようには見えない。 （話しても大丈夫か？） 　いや、こうしてベッドを共にしたのだし話しておくべきだろう。もし今後子ができたとして、僕の体のことで何か起きないとも限らない。 「じつは、ぼ……わたしは、つい最近Ωだと判明したばかりなのです。随分遅くにΩになったので、そのせいで香りがしないのではないかと」 　さすがに発情も初めてだったとは言いづらい。そこは言わなくても問題ないだろうと判断し、香りのことだけを話した。 「なるほど。それであちこちに婚姻の打診をしていたのか」 「お恥ずかしい限りです」 「いや、おかげで貴殿の存在を知ることができたんだ。わたしは年齢や香りにこだわりはないから、気にしなくていい」 「ありがとうございます」 　僕の返事に、殿下が少し微笑んだように見えた。 「殿下？」 「あぁいや、やはりおもしろいと思ってな」 「わたしがですか？」 　少し微笑んでいるような殿下が大きく頷いた。 「後宮にいる妃候補の姫たちは我先にと自分のことを話し出す。そうすることでわたしの関心を得たいのだろう。しかし、貴殿はあまり自分のことを話そうとしなかった。あぁ、芸術の話はよくするが、それ以外はほとんど聞いていない」 「あー……その節は、大変失礼しました」 　芸術、とくに絵画の話になると言葉が止まらなくなる自覚はある。そのことを殿下が呆れているに違いないと思い頭を下げると、「絵の話は興味深いからよいのだ」と言われた。 「それに姫たちはわたしのことをやたら褒める。わたしの容姿を褒め、我が国を褒め、その国を導くことになるわたしに媚びる。これまで出会った姫たち全員がそうだった。そこも貴殿はまったく違っていた」 　なるほど、妃候補とはそういうものなのか。自分の妃候補たちにそういったことをされた経験がなかった僕には思いつかなかった。 「これはわたしの後宮のΩに限ったことではない。陛下の後宮のΩたちも似たり寄ったりだった。誰もがαに目の色を変え我先に近づこうとする。互いに争い蹴落とし合い、かと思えば手を組み誰かを陥れる。これまでも集団で一人を追い詰め後宮から追い出すことがあったくらいだ」 （やはりというか、それは壮絶だな。いや、僕もそれに近い状況ではあるのか） 　話しながら大きなため息をつく殿下の気苦労は、いかばかりのものだろうか。 　Ωに成り立ての僕には、正直そういうことをするΩの気持ちはわからない。想像はできるが、Ωゆえの思いや悩みを真に理解するのは難しいだろう。しかし、王太子だった者として殿下の気持ちを察することはできる。 （しかも大国の王太子だからな。気を遣い続けながらの妃選びなんて、僕なら放り出して逃げ出したくなる） 　それを殿下は何年も続けているということだ。いや、父王の後宮を見ていたのであれば物心ついたときからということになる。 「殿下のお立場、お察しします」 「そうか、貴殿は王太子だったな」 「地位は返上しましたが、わたしにも妃候補の姫君たちはいましたので」 「……そうか。いや、ただの男性だったのなら妃候補がいてもおかしくはないか」 　おや？　殿下の表情が少し変化したような……これは不快に感じている表情じゃないだろうか。やはり小国の王太子と同列に語ったのがよくなかったのかもしれない。僕は「いえ、αでない僕には察して余りあることでした」と頭を下げた。 「やはり、おもしろいな」 　これは褒められていると思っていいんだろうか。謝意を述べるべきか悩んでいると、「軽んじているのではなく褒めているのだ」と言葉が続いた。 「男性のΩとはいえ妃候補として来たのだから、もっと貪欲なのかと思っていた。しかし、想像していたのとはまったく違って驚いた。その理由がΩとして日が浅いせいだということはわかったが、貴殿は今後も変わらないのだろうな」 （貪欲じゃないわけでもないんだけどな） 　それなりに欲はあるし、国の借金返済のために妃になろうとしているのだから十分強欲だ。 「それに、最初に目に留まったのがわたしの顔ではなくカメオだったのもおもしろかった」 　あのときは目線の先にカメオがあって助かった。それに殿下が身につけるカメオは繊細なものが多く、芸術品としても優れているからつい目を留めてしまう。 「あのときのカメオは大変素晴らしいものでした。ぜひ我が国でも真似をしたいと思うほどの逸品だと思います」 「ほら、そういうところがおもしろいというのだ」 　よくわからないが、殿下が微笑んでいるということは気分を害しているわけではないのだろう。 「そうだな。貴殿はわたしの顔を見てどう思う？」 「顔、ですか？」 　急にどうしたのだろうかと思いつつ、改めて殿下の顔を見た。 　癖のない黒髪は襟足が首筋を隠すくらいの長さに整えられ清潔感がある。肌の色は僕より少し濃いが、かといって日焼けしているというわけではない。目鼻立ちがはっきりしており、黒い瞳は理知的でいかにも優秀なαといった様子だ。こういう顔立ちなら、さぞや肖像画映えするだろうと惚れ惚れする。 「理想的な造形美だと思います。殿下のような完璧な顔立ちは見たことがありません。ぜひ一度、この手で描いてみたいと思うほどです。いえ、それを言うなら体つきもすばらしいと思います。手足はほどよく長く、肩幅や腰の太さ、それに頭と体の大きさの均衡が絶妙に整っていらっしゃる。おそらく骨格も美しいのでしょう。顔だけでなく全身の肖像画も描きたくなる……ほどの……」 　目の前で殿下が肩を振るわせながら笑っていた。ここまではっきりと笑っている姿を見たのは初めてだ。「またやってしまった」と思った僕は、慌てて「申し訳ありません」と頭を下げた。 「いや、かまわない……くっくっ。それにしても、くくっ……貴殿は、本当に、ふふっ……絵のこと、ばかりなのだな……いや、素晴らしいことだ」 　笑いながら言われても褒められた気がしない。それでも初めて見る殿下の満面の笑みのせいか、照れくさく感じた。 「ありがとうございます」 　謝意を伝えると、まだ少し笑ったままの殿下の目がじっと僕を見ている。 「まさか、発情明けの会話がこんなふうになるとは思ってもみなかった。貴殿は本当におもしろい」 　そう言って殿下の指が僕の頬をひと撫でした。発情は終わったはずなのに、殿下の熱を感じた瞬間なぜか体の奥がざわりとしたような気がした。