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第10話 後宮ワルツ

 無事に初めての発情を終えた僕は、三日ほど休息を取ることになった。その間、毎日殿下が様子を見に来たことには驚いたが、αとΩが発情を共に過ごすというのはこういうことなのだろうと考えた。  ところが、すっかり元気になってからも殿下が毎日やって来る。以前も絵を描いているときに覗きに来ていたが、いまは昼食を一緒に取り、時間があれば午後のお茶の時間にも現れた。執務が休みの日には朝食後にやって来て半日ほど同じ部屋で過ごしている。 「殿下と食事をともにするのはよいのだが……」  というより、一人で食べるよりもずっと食が進む。やはり二人で食べるほうがおいしいからだろう。芸術談義も弾み、殿下とは随分親交を深められてきた。そう、僕にとってはよいこと尽くめだ。 「しかし、こちらはどうしたものかな」  目の前には三枚のキャンバスがある。いずれも後宮の庭の花を描いた小さいものだが、すべて真ん中をバッテンに切り裂かれていた。これで通算九枚だ。 「姫君たちにとって、僕はそれくらい目障りということか」  だからといって、こうもキャンバスを駄目にされたのでは困ってしまう。絵もかわいそうだが、なにより新しいキャンバスをまた送ってもらわなければいけない。輸送費のことを考えると頭が痛くなってきた。 「かといって、ビジュオール王国のキャンバスはあまり質がよくないしな」  部屋に飾ってあるどの絵を見ても、キャンバスも溶き油も質がよくない。そういうこともあって画材はすべて送ってもらっているのだが、こんな状況が続くとそんな贅沢も言っていられなくなる。 「かといって扉に鍵をつけるわけにはいなかいしな」  そんなことをすれば何かあったのかと尋ねられるだろう。そこでキャンバスのことを話せば、殿下のことだから姫君たちの仕業に違いないと察するはずだ。姫君たちの行動には頭を抱えるが、だからといって罰を与えたいとは思っていない。 「やれやれ。後宮とは恐ろしい場所だな」  手っ取り早いのはキャンバスを鞄に仕舞うことだ。鞄なら鍵がかかるし、さすがに大きな鞄ごとどうこうすることはないだろう。 「問題は、鞄に仕舞うと湿気対策ができないことか」  湿気取りを使っても変色してしまう。それを解消するためには定期的に外に出すしかない。 「面倒だが、そうするしかないか」  問題は絵の具が乾いていないキャンバスのほうだが、こちらは姫君たちが刃を立てないことを祈るしかない。  作業中のキャンバス以外を鞄に仕舞った僕は、気を取り直して紫陽花のキャンバスに向かうことにした。一枚は写実性を追求しているが、もう一枚は殿下の言葉を思い出し抽象的に描こうと日々取り組んでいる。  そんな僕の作業に興味があるのか、今日も部屋に殿下が現れた。作業途中だが、殿下の姿はさながら鑑賞しているように見える。ときおり「ふむ」と小さな声が聞こえるのは、何かしら考えながら見ているということだろう。 (思っていたよりも絵画に興味津々だな)  よいことだと思いながら筆を動かしていると、「なるほど」という殿下のつぶやきが聞こえてきた。 「どうかされましたか?」  振り返ると「あぁ、気を散らせてしまったようですまない」と謝罪された。 「いえ、大丈夫です。それより何か気になる点があるようでしたらぜひ拝聴したいと思いまして」 「気になるということではないのだが……。何かに見えるなとずっと考えていたんだが、ステンドグラスだと気づいたんだ」 「ステンドグラス?」  描きかけのキャンバスに視線を戻す。 「なるほど、たしかに」  抽象的なイメージを広げていった結果、花の境界線が単調になったからかステンドグラスのように見えなくもない。手探り状態で進めているが、いっそステンドグラスをイメージして描き進めるのもよさそうだ。 「このあたりはとくに、そのままガラスで再現してもよさそうだと思わないか?」 「そう、ですね」  急に殿下の顔が近づいてきて驚いた。目線を合わせるためだろうが、それにちても近すぎる。かろうじて返事はしたものの、気になってチラチラと横目で殿下を見た。「なるほど、こうなっているのか」とつぶやく顔は熱心そのものだ。 (熱心なのは素晴らしいと思うが、近づかれると体が熱くなるのがな)  発情を終えてからというもの、殿下が近づくだけで微熱のようなものを感じるようになった。これも発情したΩ特有の現象かもしれないが、体の奥がむず痒くなるような熱には正直困っている。 (原因を殿下に尋ねるわけにもいかないし)  そもそもαである殿下がΩのことに詳しいとは限らない。かといって姫君たちに聞くわけにもいかず、しばらく様子を見るしかなさそうだ。 「あぁ、これは本格的に邪魔をしてしまっているな。すまない、作業を続けてくれ」  そう言った殿下が肩をポンと叩いて離れた。たったそれだけのことなのに触れられた右肩がやけに熱く感じる。筆を持つ指先にまでじんわりと熱が伝わり、なぜか鼓動まで速まった。 (僕の体は一体どうしたというのだ)  よくわからない現象に内心首を傾げながら、紺碧色の絵の具を含ませた筆をキャンバスに載せた。  発情から十日余りが経ったが、どうにも落ち着かない。落ち着かないというより、殿下が近くにいるといまだに微熱が出るような感じがして気になった。 「やはりΩに関する本を借りるべきだろうか」  僕がΩに成り立てだと知っている殿下ならよい本を貸してくれそうだが、何となく気が引ける。発情に関する本だと言えば「それほど発情したいのか」と勘違いされそうで、ただの男だった身としては何とも言えない気分になるのだ。 「ここは様子を見ることにしよう」  僕の体はようやく一人前のΩになったばかりだ。他にも変わったことが起きるかもしれない。微熱くらいでいちいち気にしていたら生活できなくなってしまう。  気分転換でもしようと考えた僕は、後宮から出てベインブルこと宝物庫の部屋から見える庭に向かった。そこには蓮が植えられた小さな池がある。花にはまだ早いが水に浮かぶ蓮の葉というのもなかなか風情があり、最近のお気に入りのスケッチ場所になっていた。 「後宮の庭ではスケッチしづらいからな」  今度こそ間違いなく姫君たちの餌食にされるだろう。さすがの僕も流れるような嫌味を聞き続けられるほど鈍感じゃない。それなら近づかないのが一番だ。 「僕が子を孕めばすべてうまくいくんだろうが……」  いや、焦りは禁物だ。体調を整えるためにもスケッチをするのがいい。そう思い、池のそばにあるベンチに腰掛けてスケッチブックを開く。 (今日も視線を感じるな)  シュッシュッと木炭を動かしながら、さりげなく視線を左右に動かす。はっきりとは確認できないが、柱の影に誰かいるようだ。 (後宮でなくても僕の品定めをしたい人たちがいるということか)  ノアール殿下に近しい誰かに頼まれたか、それとも妃候補の姫君たちの親族が手を回しているのか。 「あまり落ち着ける雰囲気じゃないが、仕方ない」  姫君たちのように直接仕掛けてこないだけましだ。そう思い、無心で木炭を動かし続けた。  しばらく絵に没頭していると「これはこれは」という声が聞こえてきた。視線を上げれば、前方からかなり身なりのよい男性が近づいてくる。少し長めの黒髪を鮮やかな紫色のリボンで結んでいるのが印象的な人物だ。 (格好からすると貴族……いや、王族か?)  ノアール殿下のようにカメオをしていれば判断できるのだが、一目で王族とわかるような目印は見当たらない。それでも万が一のことを考え、急いで木炭を箱にしまってハンカチで手を拭った。そうして男性が目の前にやって来るより先に立ち上がり、胸に右手を当てて腰を折る。 「へぇ。俺が王族だってよくわかったな」  やはり王族だったか。ホッと胸をなで下ろしつつ、「アールエッティ王国の第一王子、ランシュと申します」と挨拶をした。 「俺はヴィオレッティ。王太子の二つ上の従兄で、王宮の東にある金貨の館に住んでいる」 「従兄殿でしたか」 「ヴィオと呼んでくれてかまわないよ」 「それはさすがにできません、ヴィオレッティ殿下」  かっちりした王太子らしいノアール殿下と違い、なんとも気さくな王族だ。そんな感想を抱いていると、ヴィオレッティ殿下がグッと体を寄せてきた。驚いて数歩後ずさったが、顔を近づけたまま笑みを浮かべ僕を見下ろしている。 「Ωだと聞いたが、それらしい香りがしないのは本当なんだな。首は噛んでいないと聞いていたが、男のΩは女性とは違うってことか?」  いくら王族でも初対面でこれは失礼じゃないだろうか。そう思ったものの相手はノアール殿下の従兄殿だ。失礼にならない程度に後ずさりながら微笑みを浮かべる。 (それに、もしかしたらこの人が次の嫁ぎ先候補になるかもしれないわけだしな)  そう思うとなぜか少し胸が痛んだが、微笑みながら「香りについてはわかりません」とだけ答えた。 「いまや男のΩはほとんど見つからないからな。そういった意味でも興味深い」  ニヤリと笑いながらの言葉に、下心があって近づいてきたのだと悟った。 (さて、どうしたものかな)  殿下の従兄だと言うし、香りを気にしているということはαに違いない。興味深いという言葉から、そういう対象として見ているのは間違いないだろう。  しかし、僕はまだノアール殿下の妃候補だ。こうして別のαと接触することは本来あってはならない。 (いや、もし僕がαと遭遇してもかまわないから後宮を出る許可が出ているのだとしたら……)  一瞬そんな考えが浮かんだが、いま考えるべきことじゃない。いまは目の前の王族とどう接するかだ。 「ランシュ殿は大変有名な画家だと聞いたが」 「はい。国一番の画家だと自負しております」 「なるほど、それでここで絵を描いているのか」 「ビジュオール王国の庭はいずれも大変美しく、せっかくなので絵に描こうと思いまして。後宮の庭もですが、こちらの庭も大変素晴らしい。とくにあの池は陽が当たる場所と影の陰影が素晴らしく、何枚スケッチしても飽きません。それに蓮の花が咲く頃の美しさはいかばかりかと想像しながら描く、のも……」  しまった、また調子に乗ってしまった。慌てて口を閉じたが、ヴィオレッティ殿下がやや眉を寄せて僕を見ていることに気がついた。 (なるほど、従兄殿は絵画には興味がないのか)  むしろノアール殿下の反応のほうが珍しいのかもしれない。そういう意味でも殿下とはよい夫婦になれそうだが、もしそうならなかった場合はこの人物が伴侶になるかもしれないということだ。 (……いや、せめて絵画に興味がある王族にしよう)  他にも従兄弟たちがいるという話だから、人柄を聞いてから決めても遅くはない。 「そんなに絵が好きなら、俺の肖像画はどうだ?」  眉を寄せていたヴィオレッティ殿下の顔がパッと笑顔に変わった。 「ランシュ殿の描く肖像画は素晴らしいと聞き、それなら一度描いてほしいと思っていたところだ。そうだ、せっかくだから金貨の館に来ないか? 館の庭も手入れが行き届いているから気に入るはずだ」 「ぼ……わたしはかまいませんが、ノアール殿下に許可をいただかなければお返事しかねます」 「……へぇ」  顔は笑顔だが、雰囲気から僕の答えが気に障ったのだとわかった。しかし僕はノアール殿下の妃候補の一人で、勝手に話を受けるわけにはいかない。それにヴィオレッティ殿下はαだろうから、それこそ殿下の許可がなければ大問題になる。 「まぁ、本当にランシュ殿がΩなら許可は出ないだろうな」  なるほど、最初に香りを確認したことと言い僕がΩだと信じていないのだろう。男のΩは珍しいから直接見ておきたかったというところか。 「わたしからノアール殿下に話をしましょうか」 「いや、いい。あぁ、絵の邪魔をするつもりはなかったんだ。作業に戻ってくれてかまわない」  そう言うと、長い黒髪と紫色のリボンをなびかせながら去って行った。やれやれと思いながらベンチを振り返ったところで、今度は右手奥から誰かが近づいてくるのが見えた。 (今度は誰だ?)  手にしたスケッチブックを再びベンチに置いて目をこらす。すると、一瞬何かが光り輝いたのがわかった。 「あなたは、もしかしてノアール殿下の……」  現れたのは、先ほどのヴィオレッティ殿下と同じくらい身なりのよい男性だった。慌てて右手を胸に当てながら腰を折る。 「アールエッティ王国の第一王子、ランシュと申します」 「やはり。あぁ、わたしはルジャンと申します。陛下の弟の長男で、ノアール殿下の一つ下の従弟にあたります」  そう言って優雅に腰を折る姿は、まさに大国の王子らしい優美な動きだ。 「いま、ここにヴィオレッティがいませんでしたか?」 「はい。あちらに行かれましたが」 「やっぱり。……何か言われたのではありませんか?」 「肖像画を描いてほしいとおっしゃっていました」 「はぁ。本当に仕方のない人だ」 「あの……?」  小さくため息をつくルジャン殿下の耳元で、美しい銀の耳飾りが揺れている。 (さっき輝いて見えたのはこれか)  この距離で見ても見事だが、細かな部分はどうなっているのだろうか。近くで見てみたい衝動に駆られ、慌てて踏みとどまった。  先ほどのヴィオレッティ殿下の様子から、ビジュオール王国の王族は芸術に携わる者をよく思っていない可能性がある。ここで同じ轍を踏むわけにはいかない。 「ヴィオレッティは、あなたがΩだと聞いてずっと興味を持っていたのです。ノアール殿下がこれまでどおり興味を示さないようなら自分が、そう思っているのでしょう」 「そうでしたか」  やはり珍獣のようだなと思った。ただ観察されるだけならいいが、今後はそうもいかなくなりそうだ。あまり実感がわかないが、Ωとして身の安全を考えたほうがいいのかもしれない。 「ヴィオレッティは母君に付き添って金貨の館に住んでいるんですが、たびたび王宮に来ているようなので気をつけたほうがいいですよ」 「ありがとうございます。……あの、ヴィオレッティ殿下の母君とは」 「陛下の妹でいらっしゃいます。二十年前に夫を亡くされ病がちになっていたところ陛下より金貨の館を賜り、ヴィオレッティも八歳から金貨の館に住んでいるのです。わたしは両親や弟たちと王宮より南に建つ紅葉宮に住んでいるんですが、物心ついたときから王宮で何度も顔を合わせているので従兄弟というより兄弟のような感覚ですね」  話を聞きながら、国内に従兄弟がいたらこんな感じだったのだろうかと思った。残念ながら父上の妹は三人とも国外に嫁いでいるため、従兄弟たちを兄弟のように思ったことはない。妹はいるが男兄弟がいなかったからか少し羨ましく思った。 「では、ノアール殿下とも兄弟のように?」 「いえ、さすがに王太子と兄弟のようにというのは難しいでしょう」  ルジャン殿下の黒目がわずかに細くなったような気がした。気分を害する言葉だったのかと思い、「余計なことを口にしました」と頭を下げる。 「気にしないでください。それより、あなたは絵を描かれると聞いたのですが」 「はい。あぁいえ、我が国では王族でも芸術を嗜む風潮がありまして」 「あぁ、ヴィオレッティが何か言ったのでしょう? たしかにビジュオールでは王族や貴族が絵を描くことはありませんが、気にしないでください」 「ありがとうございます」  ということは、王族によって感じ方は様々ということか。ノアール殿下も絵画に興味を持っているし、ルジャン殿下も芸術に関心があるのかもしれない。ノアール殿下に嫁ぐことができなかったらルジャン殿下に嫁ぐのはありか。そう考えたところで、また胸が小さく痛んだ。 (なんだか胸がちくちくするな)  妙な鈍痛が気になりながらも笑顔を絶やさないように気をつける。 「男性のΩは珍しいと聞いていますが、あなたには不思議な魅力がありますね」 「魅力、ですか?」 「これまでどんなに美しいΩの姫君がやって来ても、ノアール殿下はまったくと言っていいほど興味を示しませんでした。それなのに、発情したあなたを真っ先に連れ帰ったと聞いて驚いていたんです。なるほど、殿下はあなたのような人が好みでしたか」 「それはわかりませんが、あのときは本当に助かりました。その後も何かと気にかけていただいています」  僕の言葉に「それが珍しいんですよ」とルジャン殿下が口にした。 「そうだ。絵の題材をお探しなら、わたしが住まう紅葉宮にいらっしゃいませんか? 秋はもちろんのこと、いまの季節も青紅葉が美しいですよ」 「ありがとうございます。ただ、ノアール殿下から許可がいただければになりますが」 「それもそうですね」  にこっと微笑んだルジャン殿下が、「機会があれば、またお会いしましょう」と言って渡り廊下のほうへと去って行った。その姿にホッとしたのは、珍しく少し緊張していたからかもしれない。 「それもそうか。殿下の従弟ということはルジャン殿下もαなのだろうしな」  相手がαかもしれないというだけで体が硬くなるのは、無意識にΩの部分が緊張するからかもしれない。 「いや、それだけじゃないか」  ついこの間まで平凡な日々を送っていたのに、あまりにも目まぐるしい変化に少し疲れているのだろう。  発情してからというもの、姫君たちの当たりは強くなる一方だ。そして今日、二人の王族αに声をかけられた。どちらも王宮に出入りしているようだから、また顔を合わせることがあるかもしれない。そう思うと自然と体が強張った。 「それに、あの二人は婚姻相手になるのかもしれないしな」  ノアール殿下が駄目なら……なんて考えるのは失礼なのだろうが、国のことを考えればそうも言っていられない。それにしても、と考える。 「ここに来てからというもの、自分自身が覚束ないような気がしてならない。まるでΩだということに踊らされているようだ」  そう、ビジュオール王国の後宮という舞台で忙しくワルツを踊らされている気がしてならない。そんな状況にやれやれと思いつつも、国のためにも何とかしなければなと空を見上げた。

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