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第11話 αとΩ
「ヴィオレッティと会ったと聞いたが」
一瞬誰のことかわからなかった。よくよく思い返し「そういえば」と思い出す。
「蓮を描いていたときにお目にかかりました」
「その後、ルジャンにも会っただろう」
「ルジャン殿下……にも、お目にかかりました」
六日前の出来事を思い出し、対照的だった二人の様子を思い浮かべる。
「二人ともαだ。気をつけたほうがいい」
そう言ってティーカップを口に運ぶ殿下の表情はいつもどおりだ。しかし声色が若干硬いように聞こえた。
(よくは思っていないということか)
それはそうだろう。後宮を出る許可はもらっているが、僕はノアール殿下の妃候補だ。殿下が不快に思うことは避けたほうがいい。
「では、あの辺りでのスケッチはやめることにします」
蓮を描けないのは残念だが、他にも絵の題材になりそうな景色はあちこちにある。「さて、次は何を描こうかな」と考えながら焼き菓子をひと口囓ったところで、殿下が「部屋の中から描けばいい」と口にした。
「はい?」
「芸術品が置かれている、あの部屋からでも池の蓮は見えるはずだ。あそこなら二人も近づかないだろうから、あそこで描けばいい」
「ベインブルで、ですか?」
「ベインブル?」
「……あ」
しまった。勝手に“ベインブル”と呼んでいたことを知られてしまった。
「ベインブルとは何だ?」
「……我がアールエッティ王国では、芸術の神が住まう城のことをそう呼ぶのです。あの部屋はまさしく芸術神の城のごとき様子だったので、勝手にそう呼ばせていただいていました」
ビジュオール王国は熱心な宗教国ではないが、よその国の神の城に例えられてはさすがに不愉快ではないだろうか。そう思いながら殿下を見たが、なぜか少し笑っているような表情を浮かべていた。
「おもしろいな」
「……申し訳ありません」
「謝る必要はない。それに、異国の神とはいえ神の城と呼ばれるのは名誉なことだ。歴代王族の審美眼が優れているという証でもある」
審美眼という言葉に、僕は大きく頷いた。
「たしかに、歴代の王族方は大変優れた目をお持ちだと思います。それに広く芸術を愛されていたこともわかります。あれほど系統の違う作品が一同に集められた場所は、アールエッティ王国はもちろんことどの国にも存在しないでしょう。あの部屋こそまさにベインブル。この世に現れた芸術の神の城に違い……ないと……」
またやってしまった。殿下の前だと口が滑らかになってしまうからか、つい熱心に語ってしまう。殿下が芸術談義を不快に思っていないことはわかっているが、それでも一人でペラペラと話すのは少し恥ずかしい。
「申し訳ありません」
「謝る必要はない。それに、かまわないといつも言っているだろう?」
「……ありがとうございます」
それでも、普段あまり表情が変わらない殿下が口元を緩めているのを見ると恥ずかしくなる。嘲笑でないことはわかっているが、まるで子どものように話す姿をおかしく思っているに違いない。
「貴殿がそれほど熱心に褒める部屋となると気になってくるな。これまで扉の前を通ることはあっても中を覗いたことは一度もなかった」
「なんと! それはさすがにもったいなさすぎます。芸術品の中には歴史的遺物と呼べるものも多数あります。せっかく近くで見ることができるのですし、絵画だけでなく他のものもご覧になられることをお勧めします」
「なるほど、それほどの部屋なのか。それならぜひ、貴殿の説明を聞きながら見てみたいものだ」
「説明、ですか?」
「ただ見るだけより、専門家の話を聞きながらのほうが楽しめると思うのだが?」
殿下の表情からは、からかっているようには見えない。本当に説明したほうがいいのだろうかと逡巡していると、「駄目か?」と重ねて問われて慌てて首を振った。
「いえ、ぼ……わたしでよければ。ただ、絵画以外は聞きかじった程度の内容になってしまいますが」
「それでもわたしよりは詳しいだろう? それに知らないことを学ぶのは楽しい。新たな知識を貴殿から学ぶというのは、じつに楽しそうだ」
芸術に関してもそういう考えを持っているとは、さすが大国の王太子だ。
「殿下は、以前から芸術に興味を持たれていたんですか?」
「いや、それほどでもないな」
「そうですか。いえ、それにしては絵画への関心が高いように見えましたので」
「あぁ、それは貴殿の熱心な様子を見ているうちに興味がわいたんだ」
今度は明らかに微笑んでいるとわかる表情を浮かべている。僕は「どうも、ありがとうございます」と何に対する謝意かわからない言葉を口にしながら、少し冷めた紅茶を口にした。
(ほら、まただ。殿下に微笑みかけられるだけで体が熱くなる)
最近、近づかなくても微熱を感じるようになった。とくに殿下と話をしているときに感じることが多い。それも殿下の表情が柔らかくなるときが多い気がする。
「それから『僕』でかまわない」
「え?」
「以前から何度も言い直しているだろう? たしかにわたしは王太子だが、貴殿はその妃候補だ。二人で話すときまで畏まる必要はない」
「あー……、ありがとうございます。アールエッティ王国ではわたしと口にすることがほとんどなかったもので、お恥ずかしい限りです」
「そういう穏やかな国だから、貴殿のような王子に育ったのだろうな。いいことじゃないか」
「……ありがとうございます」
なんだろう、妙に照れくさい。それにしても今日の殿下はやけに饒舌だ。というよりも機嫌がいいように感じる。ヴィオレッティ殿下やルジャン殿下の話が出たときは機嫌がよくないように見えたが、気のせいだったんだろうか。
そんなことを思いつつ、また一つ焼き菓子を囓る。芳醇なバターと濃いミルクをたっぷり使った贅沢な焼き菓子だなと思いつつ、なぜかその香りが鼻の奥をやたらと刺激するような気がした。
殿下に「芸術品の説明をしてほしい」と言われて三日が経った。今日はそれほど忙しくないということで、さっそく午後のお茶の時間に二人でベインブルを見て回ることになった。そういうことならと昼食後すぐにベインブルにやって来た僕は、どのあたりを見て回るのがいいか下見をすることにした。
「やはり最初は絵画からがいいだろうか。それなら僕もある程度説明ができるし、殿下の質問にも答えられるだろうし」
これまでの殿下の様子から考えても、興味を持ちそうな絵画から見て回るのがいいような気がする。その中で他に興味が向いたら、それを次に選ぶのがよさそうだ。
「よし、ではどのあたりの絵画にするかを決めておくか」
ベインブルには数百年に渡って収集されてきたであろう品々が並んでいる。しかし鑑賞するために置かれているわけではないため、残念ながら年代も系統も作家でさえバラバラな状態だ。だから時代を追って見ていくという鑑賞はできない。
「いや、待てよ。そのほうがかえっておもしろいかもしれないぞ」
殿下は別に展示会を見るわけじゃない。それなら年代も流派もバラバラの状態で見るほうが飽きがこないかもしれない。
「それなら有名作家あたりから見るのがいいだろうか」
そんなことを考えながらあれこれ見て回っていると扉が開く音がした。予定よりも随分早かったなと思いながら出入り口に向かうと、そこには予想外の人物が立っていた。
「ヴィオレッティ殿下」
「やっぱりここだったか。ランシュ殿の姿がこのあたりの窓から見えたと聞いたときはどういうことだと頭をひねったが……なるほど。この部屋は芸術品まみれだな」
そう言いながらキョロキョロと部屋を見回している。
(「芸術品まみれ」か。つまり、まったく興味がないということだな)
そんな人物が、なぜこの部屋にやって来たのだろう。
「ぼ……わたしに、何かご用でしょうか」
「以前、話しただろう? 俺の肖像画を描いてほしいと」
「それは、ノアール殿下の許可が必要だとお答えしたはずですが」
「あぁ、そういえばそうだったな」
そう言いながら、近くの棚に並べてある花瓶を指で撫でている。
(そんな触り方をしたら倒れてしまうじゃないか)
棚にしっかり固定されていないから倒れてしまうかもしれない。とくにヴィオレッティ殿下が触っている細身の花瓶たちは倒れやすく、そのせいで現存しているものがとても少ないのだ。
僕は内心冷や汗をかきながら、ヴィオレッティ殿下の手をじっと見つめた。少しでもぐらつくようなら殿下を突き飛ばしてでも花瓶を守ろう。そう決意し、殿下の手元と花瓶を注視しながら棚に近づく。
すると、花瓶を触っていた手が急にこちらに向かってきた。驚いている間に力強い手に腕を掴まれてしまう。
「……っ、あの、」
「男としては華奢な腕だな」
「殿下、」
「俺より随分小柄で細い。華奢というより貧弱といった感じか」
腕を掴んだままジロジロ見られた挙げ句、僕が気にしていることを指摘されてカチンときた。
(僕だって男らしい肉体がほしいと思っていたさ)
ノアール殿下のような完璧な造形美でなくても、せめて描きたくなるような体つきであったならと何度も思った。いまならΩだったからだとわかるが、思春期の頃は貧弱なままの自分の体が嫌いで仕方なかった。
「さすがにいまの言葉は失礼ではないでしょうか」
「へぇ。怒った顔も可愛いじゃないか」
「は……?」
「東側では見ない髪や目の色だが、こうして見ると悪くない。肌も透けるように白いし、これがベッドの上で赤く染まるのを想像すると……うん、なかなか色っぽい」
「はぁ?」
「腰も細いな。これじゃあ姫君たちと大して変わらないんじゃないか?」
「ちょっと、何をするんですか!」
腕を掴んでいた手で腰を抱かれ、そのまま脇腹や腰を何度も撫でられる。あまりにも失礼な行動に、相手がノアール殿下の従兄だということも忘れて「ふざけないでください!」と怒鳴り体を捩った。ところがヴィオレッティ殿下の腕は思った以上に力強く、逆に体を引き寄せられてしまった。
「なぁ、ノアールから俺に鞍替えしないか?」
言われた言葉に「なんて失礼な!」と怒りが湧いた。「鞍替え」なんて、それじゃまるで僕が尻軽のような言い方じゃないか。妃候補の中では底辺かもしれないが、だからといってそんなことを言われる筋合いはない。
言葉の内容と耳にかかる生温かい吐息に、一気に不快感が増した。
「何をおっしゃっているのか、意味がわからないんですが」
「さすが男のΩだ。そう簡単にはなびかないか」
声は笑っているが、からかっているだけのようには感じられない。
(冗談じゃないとしたら、もっとたちが悪いぞ)
耳や頬に触れる吐息が気持ち悪くて、両手で思い切り胸を押し返そうとした。ところがヴィオレッティ殿下の体はまったくといっていいほど動かない。
(同じ男としても腹が立つな……!)
そう思ってさらに力を込めるが、やはりびくともしなかった。
「そうやって抵抗されると、俄然気分が盛り上がる」
「はぁ?」
「俺もビジュオール王国の王族だ。王太子じゃないが、母は陛下の妹だから将来は安泰、二十八で男盛り真っ直中でもある。どうだ、俺に乗り換える気はないか?」
「何を言っているんですか! 僕はノアール殿下の妃候補ですよ!?」
僕の言葉に「ハハッ」と笑ったヴィオレッティ殿下の顔が、さらに近づいてきた。
「ノアールはΩにうんざりしている。争ってばかりのΩたちに囲まれてきた環境には同情するが、だからと言ってΩを遠ざけるなんてもったいないと思わないか? それに比べて俺はΩが大好きだ。もちろん性別にもこだわらない。むしろ、男のΩというものに興味津々なんだ」
「何を、」
「男のΩというのはここが濡れると聞いたんだが、ランシュ殿も濡れるのか?」
「……っ」
尻を撫でられて驚いた。男の自分がそんなことをされるなんて想像したこともなく、あまりに無礼な行為に体が固まってしまった。
(ノアール殿下に注意されたばかりだというのに)
自分でも「Ωなのだからαには気をつけなければ」と思っていたのに、二十四年間男として生きてきたからかすっかり油断していた。
(なんてことだ……!)
これはおそらく貞操の危機というものだ。このままでは、きっとまずいことになる。
「興味も何も、僕はノアール殿下の妃候補です。いくら従兄殿とはいえ王太子の妃候補に手を出そうなど、どうかしています」
「αに刃向かうΩなんて、やっぱり男のΩはおもしろいな。ただ珍しいだけじゃつまらないと思っていたが、ますます興味を引かれる。それにな、王太子妃候補でも俺になびくΩはいるぞ?」
「え……?」
言われた意味がわからず、思わずヴィオレッティ殿下の顔を見た。
「俺には二人の妃がいるが、両方とも元はノアールの妃候補だったΩだ」
(なんだって?)
「ノアールにまったく相手にされないのが不満で、早々に俺に乗り換えたというわけだ。王太子妃ではないが、有力王族の妃になれたのだから万々歳だろう」
笑っている顔にムカッとした。姫君たちを何だと思っているのかと、王太子だったときのことを思い出して腹が立った。
彼女たちは家や国を背負ってたくさんの努力をしている。そんな彼女らを引き受ける者として、王太子だった僕は一人一人を大切に考えていた。
たしかに姫君たちの中には、王族なら誰でもいいと考える人もいるだろう。僕だって国のためならノアール殿下でなくてもいいと考えている。だからといって姫君たちを軽く扱っていい理由にはならない。こんなふうに気軽に「あちらが駄目ならこっちでどうだ」なんて迫っていいはずがない。
(というよりも、僕を珍獣のように見ていることに腹が立つ!)
僕は動ける範囲で思い切り右手を振った。手のひらは見事ヴィオレッティ殿下の頬に当たり、小気味よい音が鳴る。
「……刃向かうのはいいが、こういうのはいただけないな」
腰から腕が離れ、慌てて数歩飛び退いた。それでも得体の知れないものを感じ、さらにジリジリと後ずさる。
「Ωがαに逆らうことは許されない。Ωはただ優秀なαに身を委ねていればいい」
「……Ωは、物じゃありません」
「いいや、Ωはαの所有物だ」
ヴィオレッティ殿下の黒目が見据えるように僕に向けられた。
「な……っ」
殿下の目を見た瞬間、何かが背筋を這い上がってくるような感覚に襲われた。体がゾワゾワし、足が凍えるように冷たくなる。まるで見えない氷の手に撫でられているような不可解な感覚に、僕は戸惑い動けなくなった。
「Ωはαの所有物だということをノアールはわかっていない。だからあれだけ大勢のΩが後宮にいるのに、誰一人として手をつけないんだ。Ωに飽き飽きしていたとしても、それとαの本能は別なのにな」
僕の手が当たった唇の端を、ヴィオレッティ殿下が親指でひと撫でする。そうして僕を見ながらニヤリと笑った。
「さっさと抱いて首を噛めばいいのになぁ。Ωにとって噛まれる相手はたった一人だが、αは何人だって噛める。何人のΩだって所有できる。優れたαなら、なおさらそうして力を誇示すべきだ」
殿下が笑いながらゆっくりと近づいてくる。それだけで肌がゾワッと総毛立ち、足だけでなく全身が凍ったように動けなくなった。
「それなのに何が一人で十分だ。そういう綺麗事を言い続ける割に本気を出さないノアールには辟易する」
僕の頬にヴィオレッティ殿下の指が触れた。血の気が引いた肌に触れる指はやけに熱く、その熱さえも不快で目眩がする。あまりの気持ち悪さに、微熱とはまったく違う熱が体中に広がった。まるで体内から火傷するような不快さに、せり上がるような吐き気さえも感じた。
「さて、お気に入りのΩが俺に噛まれたと知ったら、ノアールはどんな顔をするかな?」
(噛む……?)
そういえば姫君たちもそんなことを話していた。何を指すのかわからないままだが、目の前の男にだけは噛まれたくないと思った。男としてもそんな屈辱的な行為を受け入れるわけにはいかない。
「さ、わる、な」
「へぇ。αの威嚇にも多少耐えられるのか。本当に男のΩはおもしろい」
目を見張ったヴィオレッティ殿下が、嫌な笑みを浮かべながら首を触ってきた。その瞬間、耐えがたいほどの恐怖を感じた。
首を触っているのは指のはずなのに、剣先を突きつけられているような感覚に握り締めた手のひらが湿っていく。背中は冷や汗なのか熱からくる汗なのかわからないものでぐっしょり濡れていた。突然襲いかかってきたわけのわからない恐怖に、僕はただ震えることしかできなかった。ただただ怖くて仕方がない。
「これでもう逃げられない。どんなΩもαには従わざるを得ない」
「よくわかっただろう」と耳元で囁かれ、ゾッとするとともにブルッと震えた。訳のわからない恐怖のせいか目の前が少しずつ滲んでいく。
「薄い碧色が涙に濡れるのはたまらなく美しいな。これは泣かせ甲斐がありそうだ」
(そんなものがあってたまるか!)
心の中ではそう反論しているのに、実際には口を開くことすらできなかった。このまま、このろくでもない男にいいようにされるのかと思うだけで恐怖と怒りが体中を駆け巡る。
「さて、どんな味がするかな」
ニヤッと笑いながら僕を見たヴィオレッティ殿下が、再び顔を寄せてきた。あまりの恐怖に瞼をギュッと閉じた直後、今度は熱風のようなものが体を貫いた。
(何だ……?)
おそるおそる瞼を開く。目の前には相変わらずヴィオレッティ殿下の姿があるが、先ほどまでとは違い険しい表情を浮かべていた。
「涙が望みなら、おまえを泣かせてやろうか?」
ヴィオレッティ殿下の背後から聞こえてきたのは、ノアール殿下の声だった。
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