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第13話 αのプライド

「おいおい、露骨にそんな嫌そうな顔をしなくてもいいだろう?」  前方から歩いて来るヴィオレッティ殿下に気づき、思わず眉を寄せてしまった。内心「自分の行動を顧みてから言え」と思ったが、面と向かってそんなことを言うわけにもいかない。  僕は曖昧な微笑みを浮かべながらスケッチブックと木炭箱をしっかり握りしめた。それから頭を下げ、さっさと通り過ぎようと足を踏み出す。 「ちょっと待て」 「……何でしょうか」  呼び止められては通り過ぎるわけにもいかない。渋々といった態度……はさすがに失礼かと思い、きちんと正面を向いて背筋を伸ばした。 「まったく、男のΩは本当におもしろいな。おっと、違う違う。そういうことを言いたくて呼び止めたわけじゃない」  おどけたような表情を浮かべていたヴィオレッティ殿下は、ほんの少し僕に近づいてから「やっぱりな」と口にした。 「何でしょうか」 「だから、そう睨むな。ただの親切心で呼び止めたんだ」 「親切心、ですか?」  素直に信じることはできないが、前回のようによからぬことをしようとしているふうには見えなかった。それでも念のためと少し距離を取りながら、しっかりとヴィオレッティ殿下の顔を見る。 「画材を持っているということは、これからノアールの執務室に行くんだろう?」 「そうですけど」 「じゃあ、俺が言うよりもノアールに教えてもらったほうがいいか」 「何をです?」  僕の言葉に、殿下が思い切り呆れたような表情を浮かべた。 「おいおい、本当に何もわかっていないんだな。たしかに男のΩは珍しいが、それにしてもあまりに知識がなさすぎじゃないか? それとも男だから気にしていないってことか? それじゃあこの先大変なことになるぞ?」 「……だから、何がですか」  なぜか大きなため息をついたヴィオレッティ殿下が、「俺の忠告より王子様の自由を優先するあいつの気が知れないな」と言いながら改めて僕を見下ろした。 「きみからはαの匂いがする。あぁ、言っておくが俺の匂いじゃないからな? それに、その匂い方はマーキングに近い。つまり意図的に匂いを付けられているということだ」 「マーキング……?」 「そんな匂いをつけたままノアールに会うなんて、きみは怖いもの知らずだな」 「意味がわかりません」 「だろうな。でなければ、そのまま会おうなんて思うはずがない。ま、ノアールにしっかり教えてもらえばいいさ」  ニヤリと笑った殿下は「この際だ、手取り足取り教えてもらえ」と言って背を向けた。派手な紫色のリボンを揺らしながら去って行く後ろ姿を見つつ、言われたことを頭の中で反芻する。しかし匂い云々に心当たりはまったくなかった。 「そういえば、αとΩは互いの香りで相性がわかるんだったか」  ようやく発情した僕だが、いまだにαの香りというものがわからない。ヴィオレッティ殿下と話をしたいまも、それらしい香りには気づかなかった。 「そもそもマーキングとは何なんだ?」  僕は首を傾げながら、ノアール殿下の執務室へと向かうことにした。  執務室に到着すると、室内を整えていた侍従が扉を開けてくれた。どうやらノアール殿下はまだ来ていないらしい。 「そうだ、スケッチの前に首飾りのデザインを確認しておくか」  スケッチブックと一緒に持ってきたデザイン画をテーブルに広げる。首飾りの布地が真紅や紺碧、深緑に染められることがわかりデザインの幅も広がってきた。装飾も二、三個なら付けられそうだと聞き、可能な素材を職人に試してもらっている。  問題は留め具だが、こちらも試作品が一つ上がってきた。そのままというわけにはいかないだろうが、小さなビジューを付けることならできそうだ。カラーストーンなら加工も難しくないし大きさの調整もできるから、その辺りを付けられないか相談しようと思っている。 「早かったな」 「おはようございます、殿下」  デザイン画を見ながらあれこれ考えていると、扉が開いて殿下が現れた。席を立ち、右手を胸に当てて腰を折りながら朝の挨拶をする。頭を上げてから、さっそく首飾りの話をしようと口を開きかけたところで殿下の眉が寄っていることに気がついた。 「殿下?」  どうしたんだろうと首を傾げていると、「その香りは……」という声が聞こえてきた。 (香り……もしかして、ヴィオレッティ殿下が言っていたことか?)  ということは、何かしらの香りがしているという話は本当だったのか。 (αのマーキング、だったか)  本当にそんな香りがしているのかどうか、残念ながら僕にはわからない。何を言えばいいのかわからず、ただじっと殿下を見た。 「最近、ルジャンに会ったか?」 「ルジャン殿下、ですか?」  問われて、これまで三度遭遇し、三度とも銀製品をもらったことを思い出した。 「はい。最後にお目にかかったのは二日前ですが、そのとき銀製品を頂戴しました」 「銀製品……なるほど、それでか」 「殿下?」  やはりαに何かもらうのはよくなかったのかもしれない。強引に手渡されたわけではないが、微笑まれながら差し出されるとどうにも断りづらくて三度とも受け取ってしまった。  一つは例の筆で、その四日後には銀で編んだ花の耳飾りを、二日前には銀の編み模様に複数の宝石をあしらった首飾りをもらった。  いずれも目を引く繊細な作りで、しばらく眺めたり触ったりはしたものの身につけて過ごしたことは一度もない。ノアール殿下の妃候補として、他のαにもらった装飾品を身につけるのはさすがに憚られたからだ。しかし、いまの「なるほど、それでか」という言葉から、銀製品をもらったことと香りが関係しているのは間違いない。 (そういえば、今朝少しだけ身につけたな)  装飾品としての首飾りを持っていなかった僕は、宝石の適度な大きさを知りたくて銀の首飾りを身につけて鏡を見た。どうやらそれがまずかったらしい。 「香りというのは、もしやマーキングと呼ばれるものでしょうか?」 「マーキングを知っているのか?」 「いえ、そんなことを言われたので……」  誰に、とは言えなかった。まさかヴィオレッティ殿下とも接触したとわかれば、ノアール殿下の機嫌がさらに悪くなると思ったからだ。 「ヴィオレッティか」  さすが優秀な殿下だ。いや、僕が知っている王族αはヴィオレッティ殿下とルジャン殿下しかいないから当然か。これは下手に隠さないほうがよさそうだ。 「はい。ここに来る前に偶然すれ違いまして……申し訳ありません」 「いや、貴殿のせいではない。それにヴィオなら大丈夫だ。あいつは元々敵対しているわけではなく……いや、ヴィオが言うとおりわたしが甘いせいだ」 「殿下?」 「マーキングのことは、やはり知らないか」 「申し訳ありません」 「いや、これも先に教えておかなかったわたしの落ち度だ」  紅茶を用意した侍従が部屋を出ると、殿下が椅子に腰掛けた。僕も向かい側に静かに座る。 「以前、貴殿の香りが弱いと話したが、わたしの香りはわかるか?」 「殿下の香り、ですか?」  一瞬、何と答えるべきか迷った。「αの香りがわからない」と答えたら、出来損ないのΩとして妃候補から外されるのではと思うと言葉が詰まる。 (知られると、妃候補ではいられなくなるな)  そんなことを思った自分に驚いた。国のために大国の王族か富豪に嫁がなくてはいけないのに、何を考えているんだと叱咤したくなる。それに、このまま子ができなければどのみち殿下の後宮からは出ることになるのだ。 (そうだ、このままでは妃にはなれない)  そう思うと胸がちくちく痛んだ。以前より痛みが少し強くなっているような気がして、思わず胸元をぎゅっと握り締める。 「どうかしたか?」 「あ、いえ、殿下のというより、αの香りも自分の香りもわからないのです」  思わず正直に話してしまったが大丈夫だろうか。伺うように殿下を見ると「香りがわからないΩがいるとはな」という声が聞こえた。 (……呆れられたか)  いや、見限られたかもしれない。  αとΩにとって香りが大事なものだということはわかっている。僕にはその香りがわからない。それどころか発情して閨を共にしたのに子ができる気配すらなかった。それが何を意味するのか、王太子だった僕はすぐに想像できた。  子をなせない者は妃として不合格だ。もし妃にした後でそのことがわかれば、僕でも厳しい処分を下すことになるだろう。地位は剥奪しないまでも、隅へ追いやることになるはずだ。 (妃になれないよりも、なってから遠ざけられるほうがつらいだろうな)  そんなことになるくらいなら、先に切り捨てられるほうがましだ。胸の痛みを誤魔化すように小さく息を吐き、膝に置いた両手に力を入れて殿下を見た。  ノアール殿下の妃になれなかったとしても、発情した僕には他の嫁ぎ先を探すことができる。年齢を考えると早く見切りをつけて次を探したほうがいい。そもそも三十人近くの妃候補がいる後宮で勝ち残るなんて無謀な挑戦だったのだ。  わかっているのに、僕の中には「まだあと少し時間がほしい」という気持ちがあった。もう少し努力すればどうにかなるのでは、なんてことまで考えている。絵と違って何を努力すればいいのかわからないのに、王太子妃候補という立場から離れたくないと思ってしまった。 (……僕は何を考えているんだ)  愚かな自分にため息が漏れそうになる。国のためにも早く嫁がなければいけないのに、自分の気持ちを優先しようとするなんて最悪だ。 「わずかだが、貴殿から甘い香りがする」 「え……?」  一瞬何を言われたのかわからなかった。ヴィオレッティ殿下に襲われかけたとき、Ωの香りがしないと言われたばかりだ。あれから十日と少ししか経っていないのに急に香りがし始めるとは思えない。 「なるほど、本当にわからないのだな」 「……申し訳ありません」 「いや、責めているのではない。幼いときからαとして生きてきたわたしには、香りがわからない感覚がどういうものか察することができないだけだ」  気遣うような言葉に、「まだ可能性があるのかもしれない」なんて未練がましい気持ちがわき上がってくる。 (それでも、僕には期限がある)  そう思いながらも、わずかな希望を胸に言葉の続きを待った。 「αとΩには、αやΩにしかわからない香りというものが存在する。香りを嗅ぐことで互いを認識し、婚姻を結ぶきっかけになることも多い」 「そのことは、何となく理解しています」 「香りはαとΩにとって重要な要素だ。Ωは発情した際の香りでαを誘い、αは自分の香りをΩに付けることで周囲に自分のΩだと知らしめる」 (それじゃあ、まるで動物のようだ)  そう思いながらも、それさえ僕はできないのだと思うと情けなくなった。そしていまの僕にはノアール殿下以外のαの香りが付いているということだ。つまり、殿下の妃候補としては失格ということになる。 「申し訳ありません」 「なぜ謝る?」 「自分では気づきませんでしたが、僕に殿下以外のαの香りが付いているということなら、殿下の妃候補としてもってのほかだということは理解できました」  謝罪だけで済まないこともわかっている。Ωになって日が浅い僕には「香りくらいで」という感覚だが、優秀なαである殿下にしてみればとんでもないことに違いない。それに自分の妃候補に別のαの香りがついているのは不快なはずだ。これでは身持ちの悪いΩだと罵られても仕方がない。 (あれだけ気をつけなければと思っていたのにな)  自分ではΩとして自覚が出てきたと思っていたが、急には人は変われないということかもしれない。 「貴殿の責任ではない。むしろ、わたしの甘さが招いた結果だ」 「殿下?」 「これではヴィオに何を言われても仕方がない」  殿下が「ハァ」とため息をついた。 「念のため確認しておくが、発情のときもわたしの香りには気づかなかったんだな?」 「発情のとき、ですか?」 「三日三晩、ベッドを共にしたときのことだ」  問われて、あのときのことを思い出そうとした。しかし頭に浮かぶのはとんでもなく気持ちよかったということばかりで、香りがどうこうという記憶はまったくない。それどころか、したであろう行為の内容すらほとんど記憶になかった。 「あー……あの、大変申し上げにくいことなのですが……」 「かまわない」 「その……あのときは、ただ気持ちがよかったということしか覚えていなくて、ですね……」 「……何も覚えていないのか?」 「記憶がないと言いますか、おぼろげと言いますか……申し訳ありません」 「いや、謝る必要はないが……そうか、覚えていないのか」  気のせいでなければ、殿下の顔が少し曇ったような気がする。 「ということは、本当にまったくわからないのだな」 「……重ね重ね申し訳ありません」  不出来なことを指摘されるのは大人になってからもつらいものだ。殿下の言葉に何とも言えない感情がわき上がってくる。  不意に、貧弱な自分の体を見るたびに嫌な気持ちになっていた昔のことを思い出した。ぐぅっと胃が重くなるような気がして、膝の上に置いていた両手に力が入る。 「それでは、これならどうだ?」 「?」  どういうことだろうと視線を上げると、わずかに焼き菓子のような香りがしていることに気がついた。しかし目の前には紅茶しかない。 (ワゴン……にもないな。しかし、たしかに焼き菓子の匂いがする)  思わずキョロキョロと周りを見渡した僕に、殿下が「何か香りを感じるか?」と尋ねてきた。 「香りといいますか、いつもいただく焼き菓子の匂いがするような気がします」 「なるほど、貴殿には焼き菓子に感じられるのか」  僕の返事に殿下の表情が和らいだ。 「あの……?」 「では、これならどうだ?」  殿下の言葉と同時に濃厚な香りが鼻に入ってきた。 「芳醇なバターのような……いや、濃厚なミルク、かな」  そうだ、これは小さい頃から毎日飲んでいたミルクの香りに近い。なかなか体が大きくならなかった僕は、特製の濃いミルクを毎朝出してもらっていた。それは特別な牧場で育てている牛から搾る乳で、ビジュオール王国に来る当日の朝にも飲んだことを思い出す。 (あのミルクは本当に濃くて甘くて、一番のお気に入りだった)  思わずクンと鼻を鳴らしてしまった。 (あれ……?)  なぜか体の奥が熱くなってきた。頭もぼんやりしてきて何を話していたのかわからなくなる。それでも僕の鼻は濃いミルクの香りを求め、みっともないくらいクンクンと音を鳴らし続けた。 (こんな不作法なことは、やめなければ)  頭ではわかっているのに、目を閉じるとますます香りが気になった。強く香るほうに身を乗り出し、犬のように鼻を鳴らし続ける。 「いい香りが……甘くて、濃くて……僕の大好きな香りだ」  自分が何をしていて、誰の前にいるのかさえわからなくなってきた。ただ大好きな濃いミルクの香りに包まれているのが嬉しくて、もっとこの香りを嗅ぎたいと前のめりになる。 「わたしの香りは好きか?」 「……?」  誰かの声が聞こえた気がした。ぼんやりしたまま目を開けると、やたらと整った顔が僕を見下ろしている。 (なんて造形美だろう)  芸術の神に愛された顔が少しずつ近づいてくる。描くのも憚られるような美しさに見惚れていると、唇にチュッと温かなものが触れた。  その瞬間、これまで以上に濃厚なミルクの香りが鼻孔に入ってくるのがわかった。あまりの濃さに頭がクラクラし、目眩までしてくる。 「はっきりと香りを認識できなくても、わたしの香りにはちゃんと反応するんだな」 「……香、り……」  何か大事な言葉だったような気がするが、ぼんやりしてよくわからない。それよりも唇に触れていた熱が気持ちよくて、そちらのほうが気になった。 (もっと、触れてほしい)  そう思い、目の前にある熱に自分から吸いついた。濃く甘い香りをもっと感じたくて何度も柔らかな熱に吸いつく。耳の後ろを撫でられる感触に気づき、ゾワゾワする気持ちよさに身震いしてしまった。  どのくらい時間が経ったのだろうか。トントンと扉を叩く音にハッとした。目の前には上半身を屈めた殿下がいて、さらに僕の頬を両手で包んでいる。 「……あの、殿下?」 「今回のマーキングはこのくらいでいいか」 「マーキング……?」 「貴殿はまったく香りがわからないわけでもないようだ。それに……かすかにだが貴殿からも甘い香りがする。これは、わたしが好きなミルクセーキに似た香りだ」 「ミルクセーキ……?」  よくわからないが、どうやらマーキング云々という話は解決したようだ。途中ぼんやりしてしまったせいで殿下の話はほとんど覚えていないが、やけに上機嫌な殿下の様子に蒸し返すのはやめようと思った。 (しかし、僕の香りがミルクセーキとは)  たしかにおいしい飲み物ではあるが、少し甘過ぎやしないだろうか。いや、それよりも僕から香りがしたことのほうが重要か。  本当に香りがするのなら、出来損ないのΩとして殿下に切り捨てられる可能性は低くなる。もしかすると、また発情したときに相手をしてもらえるかもしれない。 (そういえば、次の発情はいつなんだろうな)  それがわかれば殿下に近づく時期も調整できる。しかし、発情に関して僕が得ている知識はほんのわずかだ。  今後のためにも殿下に訊いておこうと思ったところで、再び扉を叩く音がした。「入れ」という殿下の声に続々と官僚たちが入ってくる。見れば、どの官僚の手にもたくさんの書類や道具箱のようなものがあった。それを見た僕は、ようやくここが殿下の執務室だったことを思い出した。 (さすがに執務の邪魔をしてまで尋ねることじゃないか)  それにぼんやりした感覚もなかなか抜けてくれない。これでは満足にスケッチすることは難しいだろう。そう判断した僕は、殿下の邪魔にならないように退室することにした。 「殿下、今日は部屋でスケッチをすることにします」 「そうだな、まだしばらく影響が残るだろうから部屋にいるほうがいいだろう」 「影響?」 「昼食は一緒に取ろう。部屋に用意させる」 「わかりました」  昼食の件はいいとして、影響とは何のことだろうか。よくわからなかったが、とにかく執務の邪魔をしないようにとデザイン画を手早く片付け、静かに執務室を後にした。

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