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4-2 もしも、許されるのなら。

 目を疑った。アインスが掲げた短剣が穿ったのは、俺ではなく彼自身の胸元だった。予想外の行動に、俺は声すらも失って愕然とした。  心臓を避け、周辺部に刃を入れると、彼は短剣を投げ捨て、そこに己が指を捩じ込ませて胸部を開いた。 「ぐっ……ぅ」  苦悶に歪む口元から、呻きが漏れる。(おびただ)しい量の血液が噴き出し、ぼたぼたと俺の頬を、胸を紅く染めていく。――温かい。(かぐわ)しく鼻を(くすぐ)る、アイちゃんの血の臭い。  脈打つ心臓が露わになった。その片隅に、半ば一体化したように細い血管に巻かれて、例のマイクロチップが存在していた。僅か数ミリのゴミのように小さな部品。破損させたり心臓部が破壊されると爆弾が作動し、宿主の死を報せる仕掛けになっている位置情報発信機。ナンバーズ(  俺  達)を縛り、散々弄んだ小型の悪魔を、アイちゃんは慎重に指先で摘まみ上げるや無造作に遠くへと放った。  大きな放物線を描き、チップは割れた窓の向こうに吸い込まれていく。……白い。いつの間にか降り始めた粉雪に混じって、廃墟の町に降り注ぐ。――落下音はしなかった。 「上手くすれば取り出せると、お前が教えてくれたからな」  熱い息の塊を吐き出して、アイちゃんが下手くそに微笑った。傷口は既に塞がっているけれど、その額には痛みによって玉の汗が浮き出ていた。金縛りが解けたように、俺もやっと声が出せた。 「無茶な……少しでもズレてたらっ」  今になって、ゾッとした。悪くしたら、アイちゃんが死んでいたかもしれないのだ。 「何回かシミュレーションはしていたから、問題は無い」 「シミュレーション?」  それじゃあ、まるで、初めからこうすることを決めていたような……。  アイちゃんは泰然と言う。 「約束しただろう。お前が死ぬ時は、私が死ぬ時だと。お前の答え次第では任務を遂行し、お前を殺して私も死ぬ気でいたが、どうやらその必要は無さそうだからな。……お前が死を迎えるその瞬間まで、私が傍に居る」  アイちゃんの大きな掌が、俺の頬にそっと触れた。付着した血液を拭うように、優しく撫ぜる指先。鼓動が跳ねて、動揺が走る。 「待って、それだとアイちゃんも命令違反の脱走罪で人類の敵として追われることになっちゃうよ」 「そうだな」 「そうだなって、そんな軽く……」 「お前は、どうしても私に殺されたいのか? それとも、私の傍に居るのは嫌か?」  ふと真剣な眼差しに射抜かれ、俺は胸の奥を掴まれたような感覚に陥った。思わず、目を逸らす。 「嫌……な訳じゃ、ないけど……」  そんなの予定と違う。調子が狂う。アイちゃんが任務よりも俺との個人的な約束の方を優先するなんて。嬉しい……でも、駄目だ。 「俺は、アイちゃんに死んで欲しくない。俺が死んだ後も、生きるって約束してくれる?」 「お前は、私に呪いを掛けるのか」  ハッとした。アイちゃんの声が、痛みを孕んだように切なげに揺れた。 「お前が居ないこの三週間は、酷く空虚なものだった。ずっと傍に居るのが当たり前だったから、自然とお前の姿を目で探してしまうんだ。その度、お前の不在を思い知らされ、打ちのめされた。……今更、お前が居ない世界なんて考えられない。永遠を生きるのは、独りでは長過ぎる」 「何、それ……何か、プロポーズみたい」 「そう思ってくれていい」  苦し紛れに茶化そうとしたのに、真面目に返されてしまい、俺の頭の中は瞬間真っ白になった。 「……どういうこと?」 「好きだと言わないと分からないか?」  意志の強い声。見上げた穏やかな黒瞳の奥に、静かな熱が宿る。俺はまたぞろ固まって、やがて言葉の意味がじわりと全身に浸透していくと、今度は喉の奥をぎゅっと抓まれたような心地になった。  好き? アイちゃんが? 俺を? 「嘘だ」 「私は嘘は吐かない」 「たまたま俺が傍に居たから、そんな気がしただけだよ」 「恋愛とは、そういうものじゃないのか」 「だって……駄目だよ、そんな」 「何故だ?」  だって……。 「俺、アイちゃんが思ってるような人間じゃない……」  いや、まだ吸血鬼? もう分かんないけど。 「アイちゃんの知らないところで、俺いっぱい悪いことしてきたんだよ。脅迫で人を従わせたりとか、平気で人を傷付けて……フュンフだけじゃない、セーラちゃんを殺したのは、俺だよ」 「殺した? 〝催眠〟を使ったのか?」 「違うけど……」 「なら、お前は殺してない」 「でも、俺が彼女を拒絶したからっ」 「それで死を選んだのはセーラ自身だろう。必要以上に自分を責めるな。……お前が私にそう教えてくれたんだったな。それに、脅迫か何か知らんが、それだってもう過去のことだろう。私が好きなのは今のお前だから、関係が無い」  アイちゃんは揺らがない。頬に添えた指先で、今度は俺の顎を掬う。俺が頑固だから態度で示そうとしたのか、ゆっくりと顔が近付いてきて、俺は慌てて手で拒んだ。  途端、アイちゃんが傷付いたような表情(かお)をしたものだから、俺の胸も刺されたように痛んだ。  アイちゃんが問う。 「……嫌か?」 「違うよ。……俺、汚れてるんだ」 「汚れてる?」 「小さい頃、養父に抱かれてたんだ。だから……アイちゃんまで汚しちゃうから」  アイちゃんが目を瞠った。絶句するその姿に、胸が潰れた。  嫌だよね、やっぱり。そんな奴。  無言の視線が居た堪れなくて、顔を背けた。その時、 「その養父はどこに居る」  低く唸るような声で、アイちゃんが吐き出した。 「え?」 「――殺す」 「いや、待ってアイちゃん! とっくの昔に、機械兵に()られてるから!」  凄まじい怒気が伝わってきて、目を剝いた。  え? アイちゃん、怒ってくれるの?  アイちゃんの手が、大きくて温かい掌が、再び俺の頬に触れた。真綿で包み込むような優しい触れ方だった。そうして彼は、労るような表情で告げる。 「辛かっただろう。守ってやれなくて済まない」  喉の奥がまた、ぎゅってなった。 「そんな……だって、出会う前のことだよ」  次の瞬間、アイちゃんの腕の中に居た。抱き締められたのだと悟ると同時に、耳朶に彼の声が降ってくる。 「お前は汚れてなんかいない。……綺麗なままだ」  優しくて、それでいて決然とした声音だった。  俺は目をしばたたき、それからそっと伏せた。――泣いてしまいそうだった。  アイちゃんが静かに問い掛ける。 「もう一度、お前の望みを聞かせてくれ。お前は、まだ私に殺されたいのか? お前の本当の願いは、何だ?」  ――俺の、本当の願い。  走馬灯のように、過去の記憶が頭の中を駆け巡った。  神父様と過ごした教会。居心地の悪かった養護施設。空虚な一人暮らしのマンション。――アイちゃんと交わした、血の味の接吻(キス)。  例え血と粉塵に塗れた景色でさえ、隣にアイちゃんが居れば色鮮やかに輝いて見えた。  ――言っても、いいのかな。  駄目だと言い聞かせて、押し殺してきた。どれだけ強く願っても、それは手に入らないものなのだと、諦めて見ないふりをして。  だけど、もしも許されるのなら――。  君に、ずっと言いたかったことがある。好きだよって。お願いだから……。 「――俺を、愛して」  絞り出した声は、(かす)かに震えて空間に溶けた。 「分かった」  力強い声が、拾って応えた。俺は堪え切れずに、嗚咽を漏らす。アイちゃんの腕が一層強く俺を抱き締めた。 「もう既に愛しているがな」

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