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32.託されたマダム

   * * * 「ソラさん?」 「……──あ、はい」  食事の最中、名を呼ばれた事にずいぶん間をおいて気づいたソラが顔を上げる。  するとおかしそうに笑った祖母が首をかしげてソラに問うた。 「なんだか上の空ね」 「すみません」 「良いのよ。ソラさんが上の空なのは良くある事ですもの」  そう言うと立ち上がり、冷めた茶を温かな物へ交換した。  ソラは温かな茶の入ったティーカップに手を伸ばし、そっと口をつける。  高級茶葉のように香り高くはないが、飲み慣れた優しい味にホッとした。 「でも何だか、今日はいつもと様子が違うようね」 「そうでしょうか?」  ソラの気が緩んだのを見計らったように、祖母、ヒナタが言った。  いわく、食事中に薬の調合を考えたり、歯磨き中に曇ったガラスに思いついた魔法陣を書き始めたり、会話中に読んだばかりの魔術誌に思考が移り上の空になるのは良くあるらしい。 「それは申し訳ない」 「良いのよ、面白いですからね」 「面白い……」  何が面白いのかソラにはさっぱり分からなかったが、目の前のヒナタが本当に面白そうに話すのでこのままでも良いのだろうと結論づける。 「それで、今のソラさんは何を考え込んでいるのかしら?」 「……」 「魔術の事、では無いように見えるの。もっと複雑な、ソラさんが体験した事の無いような悩みで考え込んでしまってるように見えるわ」 「……」  言われて、確かにそうだと感心する。  体験した事のない、考えた事すら無かった問題に思考が持っていかれている。  プラドと王都で会ってから、今日でもう三日経つ。  とても楽しかった思い出が溢れているはずなのに、別れ際のプラドが頭から離れない。  何を間違えたのだろう。どうして彼はあんなにも怒っていたのだろう。彼の悲しそうな瞳は、自分がそうさせてしまったのか。  そして、あのキスの意味は、何なのか。  考えても考えても、寂しさばかりがつのって答えが出せない。  そもそも答えがあるのかどうかも分からない。  右も左も上も下も分からない暗闇に、一人取り残された気分だ。  握られていた右手が今も寂しく感じるのは何故なのか。  分からない。分からない。  世界で行われる国連統一試験のほうが遥かに簡単に思える。明確な答えがあるとはとても有り難い事なのだと実感した。  けれどふと思う。目の前の人生の大先輩ならば、この答えのない答えを見つけられるかもしれない、と。 「おばあさん、お聞きしても良いですか?」 「あら、珍しい。どうぞお聞きになって?」 「キスとはどのような間柄でするものでしょうか?」 「あら……」  自己完結が当たり前で、あまり人に相談をしないソラ。だからだろう、ソラからの珍しい相談にヒナタも人知れず張り切って乗るつもりだったが、ソラから出たとは思えない相談内容にしばし止まる。 「あらあらあら……まぁまぁまぁまぁ」  しかし、すぐに頬に手を当て目を丸くするヒナタ。どこか瞳が輝いて見えるのはソラの気のせいだろうか。  ヒナタはやや興奮していたが、それでも物静かな佇まいは崩さずソラと改めて向き合った。 「キスねぇ……もちろん好き同士でするものだと私は思っているわよ?」 「やはりそうですよね」  言葉を慎重に選んで口に出せば、ソラも深くコクリとうなずく。  ソラも同じ認識であると確認したヒナタは、ほんの少し身を乗り出しソラの顔を覗き込むようにして優しく微笑んだ。 「したいお相手がいらっしゃるの? それとも、もうしたのかしら」 「……された、が正しいと思います」 「あらあら、情熱的なお嬢さんなのねぇ」 「いえ、男性です。同級生の」 「……あら? あらあら」  日頃からあまり動揺を見せないヒナタだったが、今回ばかりはさすがに動揺した。  しかし孫の前では表には出さず、静かな声で話を進める。一度ティーカップに口をつけ、またソラと視線を合わせるが、その顔は真剣なものに変わっていた。 「……それは、無理やりされたの?」 「無理やり……では無かったと思います。私も拒もうと思えば拒めたのですから」 「なぜ拒まなかったのかしら?」 「……思いつきもしませんでした」 「ふんふん……」  話を聞いている内に動揺していた心は鎮まる。ソラは戸惑っているが、相手を恐れているようには見えなかったからだ。  可愛いかわいい孫息子。大切な子供の忘れ形見。  どうか平穏無事に、そして幸せになってほしいと毎日のように願うヒナタは、ソラに無理にでも迫ろうとする人物を許せるはずもない。  しかしどうにも話を聞くと、ソラの悩みのタネになってはいるものの、相手を嫌悪してはいないようだ。  その様子にヒナタは肩を撫で下ろすが、ここで困った案件が出てきた。それは── 「──困ったわねぇ。私も男女の恋愛しか分からないもの。ソラさんが悩むのも無理はないわねぇ」 「そうですか」  恋愛をして、結婚をして、子供を育てる。そんな固定観念があった自分では、孫の相談にのる相手としてどうやらふさわしくないようだ。  けれど可愛い孫の為になんとかしてあげたい。  きっとソラ自身も、己と同じ固定観念があったから戸惑っているのだろう。そんな育て方をした自分のせいでもある。  ヒナタは考えた。考えて考えて、ようやっと閃いた。 「そういえば、マリアさんがそんな話をしていた気がするわねぇ」 「パン屋の奥さんですね」 「そうそう、お話好きでパンを買いに行ったらずーっとお話しちゃうの。面白い方よ。今度お会いした時にお聞きしてみようかしら」 「ぜひよろしくお願いします」  こうしてソラの恋愛模様は、お喋り好きなパン屋のマダム、マリアさんに託されたのだった。  

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