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29 昔の男 2
「――広海」
服部がくゆらせた紫煙が、空調に乗って広海の鼻先を掠めた。
嗅ぎ慣れたその香りが、広海に軽い頭痛を起こさせる。
「私の妻に子供ができてね」
脈絡のない服部の呟きが、広海の耳から蔦のように侵入し、脳裏に絡み付いた。
無意識に見開いた広海の瞳に、ゆったりと微笑む服部の顔が映り込む。
「今年の春先だ。遅くに生まれた子供だから、あちらのお義父様とお義母様が、それはそれは喜んでおられた。宮参りにパーティーまで開いてくださったほどだ」
学会の有力者の義父母は、さぞや大々的なパーティーを催したのだろう。
服部と不倫をしていたことを、妻にあたる人に詫びたいと思ったことは何度もあった。
その気持ちとは反対に、彼を奪いたいと思ったことは一度もない。
広海は罪悪感と背徳感の狭間で、五年間も服部へのどうしようもない恋情を募らせていたのだ。
「子供の顔を見るかい? 女の子でね。僕よりも妻に似ている」
すい、と煙草の先が、壁際のキャビネットを指した。
「パーティーの時に撮った写真だ。君にとって懐かしい面々も写っているよ」
言われるまま、広海は服部が示す方へと視線を向けた。
キャビネットの扉の向こう、フォトフレームの中で母親に抱かれた子供が笑っている。
その隣に服部が、そして彼の後ろに母校の教授たちが並んでいた。
「――雨宮先生…ですね」
「ふふ、懐かしいだろう。君に雨宮教授の講義の履修を勧めたこともあったね」
海生哺乳類、特にジュゴンの研究で名高い南洋大学の教授。
雨宮教授は人柄のいい人物で、広海をはじめ、多くの学生に慕われていた。
今、雨宮教授のもとで学んでいる尚樹のことを思い浮かべて、不意に胸の奥が熱くなる。
「広海。僕は夫として、義理の息子として、大きな役目を果たし終えた。……お義父様が、近いうちに僕を学会の常任役員に推薦してくださるそうだ」
「役員――」
「君も祝福しておくれ。僕の前に、海礁学会総代の椅子が見えてきたよ」
理事長という研究所のトップから、学会のトップへ、服部は照準を移していた。
階段を貪欲に上る男の、欲望を隠さない野心的な眼差しが、広海は恐ろしかった。
「しかしね、その椅子に座るには有能な部下が必要だ。広海。君を元のポストに戻そうと思う。主幹研究員として、ここで存分に手腕を振るいなさい」
どくん、と心臓に楔を打たれた気がした。
「何を、おっしゃっているんですか」
見えない糸が、広海の自由を奪おうとしている。
「私の退職願は、たった今あなたに受理されました」
「広海。二年前に言ったはずだよ。ほとぼりが冷めたら、君をここへ呼び戻すと。理事長の僕に逆らえる者はいない。君は復権するんだ」
「……そしてまた、都合が悪くなれば左遷するんですか。私を便利なコマにするんですか」
「過去の僕の行いを咎めているのかい? すまなかったね、君を一人にして。もう寂しい思いはさせないよ」
「心にもない謝罪はやめてください。人を弄んでまで地位を求めることに、何の意味があるんです」
「……おかしいな。君は僕に意見するような人ではなかったのに」
愁いを帯びたような溜息をついて、服部は煙草を灰皿に押し付けた。
彼の言葉も仕草も、全てが嘘で、作り物の演技に見える。
飾ることを知らない尚樹とは正反対だ。
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