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①傷心の親友の慰め方

 酔った加納雄大(かのうゆうだい)なんて、滅多に見られるもんじゃない。ましてや自宅じゃなく、こんな通い慣れた居酒屋で。  突っ伏してしまったテーブルの上の、彼の周囲の料理の皿やコップを奥の方にどかしながら、貴崎駈(きざきかける)は今の処まだ語られていない相手の本心について考えてみる。  会社での失敗。大した事じゃない、雄大自身が直接したミスじゃない。雄大の抱えるプロジェクトチームの一員が、漏らしてはいけない情報を家族に漏らしてしまった。  それが、すかさず悪用された。『雄大の出世を恨む社内の誰か』によって。  部下の失敗からのプロジェクトチームの解散が、雄大を痛めつけたんじゃなかった。今迄知らずにいた『自分を恨む誰かの存在』に気付いて、そこに彼は落ち込んでしまったらしかった。  かけるも詳しくは余り良く知らない、同じ職場でも違うチームに属していると、幾ら大学時代からの仲良しだろうと、いや却って職場でも仲が良いだけに、かけるの耳に入れない様にそういう噂や裏情報は走るらしいから。  情報通の後輩の伊集院にしつこく粘って、ようやく僅かに聞き出した。元気のない雄大に連日断られ続け、やっと今日、飲みに行く約束を取りつけたのだ。勝手知った、昔はよく二人で通った近くの居酒屋に。  ぱーっと飲もうぜ、とだけ明るく言った自分の慰めの意図に、雄大は気付いているだろう。彼がこうして、何も語らず呑み潰れる事を選択するのなら、自分は余計な詮索も口出しもすべきじゃない。  ……だけど、こんな時になんだけどいい事が一つあった、とかけるは思う。かける、と雄大は俺を呼んだ。  学生から社会人になる時に「貴崎」と言う名字での呼び方に切り替えて、それからは会社外でも一切そうは呼ばなかったのに。変わらず雄大、と呼ぶ自分に釣られる事もなく。  どこか線を引かれた様な寂しさをいつも感じていたかけるにとって、それは予想外に嬉しい出来事なのだった。  それに今、テーブルに突っ伏す程に自分を保てていない雄大からはいつもの気を張った硬さがなくなっていて、久々に見る親友の無防備な感じに、名を呼ばれた懐かしさとも相まって、かけるはつい微笑んでしまっていた。手を伸ばして、手触りの柔らかい相手の髪を撫でていたのも、殆ど無意識の仕草だった。  雄大が、ゆっくり頭を挙げた。目が合って、何の気なしにかけるはにこりと笑い掛ける。弾かれた様に、雄大は身を起こした。 「トイレ」  唐突に朴柮な言い方で、すっくと立ち上がり足を踏み出そうとする。けれど雄大のアルコールの回った足はふらついて、釣られてかけるも席を立ち、その体を支えようと咄嗟に彼の肩を掴んでいた。  支えはもうひとつ役に立たず、雄大の体が傾いだ。もたれてくる勢いの自分より頑強な体を受け止める自信はなくて、かけるは慌てる。 「ちょっ、雄大!!」 「……だ」 「え?」  上半身で受け止めた雄大の、耳元近くで聞こえた声は、角度もあり小さ過ぎて聞き取れなかった。なに、と問い返そうとしたかけるからゆらりと身を起こして離れて、トイレ 、と雄大が背を向ける。大丈夫かな、とよろめく背中をかけるは不安な思いで見送るのだ。  そうして、案じたとおりに。雄大は、なかなか帰って来ないのだ。  携帯を手に持っていた様子もない。久々に見た酔った姿、気分でも悪くなって吐いたりしているんだろうか。考えると心配で、かけるは席を立ち、トイレに向かった。  中に入る。個室のドアが僅かに開いていて、それが投げ出された、見慣れた綺麗な靴を履いた足が挟まったせいなのに、悪い予感にどきりとした。 「……雄大……?」  呼び掛けながらそうっと手を伸ばし、ドアを開けてみる。俯いて、雄大は蓋を閉めたままの便座の上に腰掛けていた。  ぐおーっ、と盛大な鼾が聞こえて――安堵に肩を落とす反面、心配させやがって、と腹が立った。乱暴な手付きなのは分かっていたが、しっかり覚醒させる為に、かけるは親友の肩を掴み強く揺さ振った。 「おい、起きろよ!! どこで寝てんだよ」  ぐらついた頭が後ろに仰け反り、戻ってくると同時に雄大の目が開いた。ついと顔が上がり、見下ろすかけると目が合う。にこっと、普段どころか今迄に見た事がない様な無邪気な笑顔が、その顔には浮かんでいて。 「理想形、だ……目覚めた時に、お前がすぐそこに居る」  真っ直ぐ前に伸ばされた腕が、かけるの腰に回る。立った状態のかけるに座ったままの雄大が抱き付く形に、雄大はかけるの腹辺りに顔を押し付けて、前後の脈絡のない台詞は続いた。 「お前だけが、居ればいい。お前しか、要らない……」  ……誰かに恨まれると言う事が、雄大をそんなに弱気にさせてしまったのだろうか。成績優秀で、誰にも一目置かれてて、いつでも堂々としてて「何にも動じません」と言わんばかりの威厳を表に出していた、この強い人が。変わらず接する友人であるかけるに、そんな泣き言じみた本音みたいな弱さを晒すなんて。  そんな解釈に、じーんと目頭が熱くなる。……けれども状況を冷静に見渡してみよう、ここは皆の共同の居酒屋のトイレなのだ。今にも誰かがやって来てもおかしくない、こんな一見アヤシイ場面を人に見られでもしたら……。  そんな極当たり前の思考が飛んでしまっているらしい雄大に、言い聞かせる様にかけるは声を掛けた。 「分かってる、話ちゃんと聞くから。今ここではお前も話しにくいだろ? お前んち、行こっか?」  やんわり押したかけるの力に従う様に、雄大の顔が離れ、回されていた腕が解けた。見上げてきた顔の中、真っ直ぐな眼差しが何だかそこだけ酔いを感じさせない強さを放った様で。  けれども、一つの瞬きの後に見た雄大は完全に力の入らない酔っ払いで、彼を立たせて支えて歩かせて席に戻って鞄を手にし、会計を済ませて外に出る迄の一連の大イベントをこなすかけるに、そんな些細な違和感を気に留める余裕などなかった。  酒やつまみを買いにコンビニに寄る、なんて呑気な事は出来なかった。ほぼ全体重を載せてくる雄大をまともに歩かせるだけで、かけるには手一杯なのだった。  何が楽しいのか、かけるに抱きつく様にもたれて、大迷惑な酔っ払いは何故だか笑っている。こらてめえ、と凄もうがいい加減にしろと低く唸る様に諫めようが、何の発言もせずに、ただ笑う息をかけるの耳にこぼすのだ。  着いたら玄関先にこいつを放り投げて転がして、そのまま帰ってやる。そう決めたかけるは、居酒屋からすぐの筈の親友のマンション迄の、今夜に限って体感的にやたら長い距離を、耐えに耐えるのだった。  鍵を見付けるのに四苦八苦したお陰で、雄大は大分まともになってくれた。一人で立てる様になった、もう馬鹿みたいに笑う事を収めた親友がオートロックを解除するのを見て、部屋迄はついて行こうかとの当初の考えを捨てて、かけるはじゃあな、ときびすを返そうとする。  待てよ、としっかりした声を張って、雄大がかけるの二の腕を掴んでそれを止めた。 「話をちゃんと聞くと言ったのはお前だろう? 帰るなんて、無責任だぞ」  いきなり論理的に諭す相手に、かけるは開いた口から呆れを言葉に変換させようとして――留めた。件の言葉はトイレでのやり取りで、あの時寝起きの筈だった相手がその台詞を覚えていたと言う事の意味を考えると、本当は相当口に出したかった悩みを、居酒屋だからと思って控えていただけだったのかも知れない。  ここで聞いてやらなきゃ親友の名が廃る、とかけるは思った。いつもどちらかの部屋で飲んだくれて笑い合っていた学生時代からの絆は、伊達じゃないのだ。  結論が出たところで、でも真剣になるのは誤魔化したくて、かけるはにっと笑って告げた。 「お前がちゃんと理路整然とした話し方が出来るんなら、聞いてやってもいいぜ。ただし、部屋に酒がないなら、お前が幾らまともでも俺は今すぐここで別れる」  どうだ? と顎で尋ねてやる。強気なかけるの態度にふっと破顔して、雄大は返した。 「……焼酎を切らした事がないのが、俺の自慢だ」 「決まりな。俺は約束は破らない男だからな」  さっさと歩いてエレべーターに向かうかけるを追って歩く親友には、もう酔いの欠片もないのだった。

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