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⑫覚醒(加納雄大):前編

玄関のドアを開けた途端に漂う血生臭さに、俺は眉をしかめた。  嫌な予感がした。靴を脱ぐのももどかしく、俺は寝室と居間の間の廊下に向かう。  駈の姿がなかった。駈を繋いでいた手錠が残されたフローリングの床には、どす黒い染みが見えている。鼻を刺す錆くさい匂い、血溜まり。その中央にあるものを認識した途端、俺の背中に悪寒が走った。  血溜まりの原因となるもの……恐らく、わざわざそこに置いたのだ。人の手首から先。握り締めた拳の形、見慣れた関節・骨・指の形状、爪の形や大きさ。……切断された、駈の手首から先。  なんて――惨い事を。俺はよろめいて、居間側のドアに背中をぶつけた。なんて事、を。人の手首を切断するなんて。いやそもそも、手首なんか切られて、駈は生きているのか!?  伊集院!! 俺は咄嗟に周囲を見回した。あいつしかいない。駈自身にこんな事が出来る筈はない! 凶器もなしに、自分の手首をこんなにも綺麗な真一文字に切れる訳がない。  いや、もしかして……。めまぐるしく、俺は考えを巡らせる。駈は、餓死又は衰弱死してしまったのだろうか。或いは、舌を噛むなどして自らの命を絶ったのだろうか。伊集院が助けに来た時には既に時遅く――そして、絶望の中伊集院は駈の亡骸を運び出し、俺への非難の意味で駈の手首を置いた。そういう事なのだろうか。  不意に感じた気配に、反射的に俺は振り向いた。正しくその男がそこに居た。 「……」  伊集院を強く睨み据えて、俺は野郎の出方を待ってみた。もしも全ての仮説とは異なる事実――手首を切断した後に運び出した後で、その出血が原因で駈が死んだとでも告げられようものなら……。俺はこいつを殴り殺す。そんな殺意を込めて。  伊集院は、いつも会社で見るスーツ姿ではなく、このマンション提携の出入り業者の作業着を着ていた。その胸元には、乾ききっていない血がベットリと付いている。何とも不吉な――駈の血。  睨む俺の威圧を受け止めて、野郎はいつになく真面目な顔をしていた。何の感情も載せない顔で、唯真っ直ぐに俺を見詰めている。――結構な長い間。  どうやら自分から喋る気はないらしいなと判断して、俺は隠さぬ殺気を載せた言葉を放った。 「駈をどこにやった」  俺を見返す野郎の瞳に、瞬間獰猛な光が灯った様に見えた。だがほんの僅かなそれは瞬きと共に瞬時に消え、野郎は先程迄と同様の感情の失せた表情で以て、またじっと俺を無機質に見返していた。  無言と無表情の意味する処が、不吉なものに思えた。野郎が目を伏せた。……だが、俺を動揺させる為のわざとらしい芝居だろう。俺には、まだそう見えていた。 「おい」  呼び掛けた声は自然と怒りを含んだものになった。ゆっくりと視線を戻して俺に据えた野郎の真剣さを、値踏みする目で俺は受け止めた。 「……僕がきたとき……」  それだけを口にすると、野郎はぎゅっと唇を引き結び、俺から顔を隠す様に思いっきり首を曲げて真下を向いた。その肩が、直ぐに細かに震え出した。泣いて、いる……?  まさか、既に亡くなっていた、とでも言うつもりか!? がしっと俺は野郎の両の肩を掴み、揺さぶった。 「おい……はっきり言え! 駈はどこに居る!?」  ぶんぶんと、野郎は首を左右に振りながらも顔を上げなかった。演技なのか、本気なのか。駈は無事なのか。明確に答えない野郎に苛立って、俺は声を荒げた。 「伊集院、貴様っ」 「あんたがっ!!」  怒声と共に、野郎が顔を上げた。俺を強く睨む目に、涙が貯まっている――それが、瞬く間に溢れこぼれた。 「あんたが、あのひとをほったらかしになんかするから! かわいそうに、一人でどんなに不安でさみしくてつらかったか……!!」  責める口調で、野郎は泣きながら俺を非難する態度で睨み続けていた。芝居、ではない、のか。愕然として、俺はゆっくりと野郎を掴んでいた手を離し、反論を閉じ込めて野郎を見詰め返していた。  途端に、今度は野郎が怒りのままに俺の両腕を掴んで揺さ振ってきた。 「みそこないましたよ加納センパイッ、監禁するくらいかけるセンパイをひとりじめしたいんだったら、なんで放っておいたんですか!? かわいそうに、かけるセンパイ……あんな、手錠なんかにつないだりして……右手首を骨折するなんて、どんだけ暴れて……どんだけぬけだそうと必死だったのか」  叫びは弱まり、涙で野郎の声には嗚咽が混じった。右手首を骨折、さらりと告げられた不穏な内容に俺は言葉を挟もうとしたが、野郎のなじる口調のきつさに阻まれた。 「おれがきたとき、骨折からの熱でしょうね、かけるセンパイ体が熱くて息も絶え絶えって感じで……。骨折ってね、こわいんですよ、放っとくと傷口からの感染でMRSAとかになって、切断を余儀なくさせられるんですよ!! そんな状態まであんた放ったらかしで、せめて、……せめてあんたが呼びかけにこたえてやってたら、あんなに衰弱することもなかっただろうに……かわいそう、に……」  野郎が、また俯いた。大きく肩を震わせ、掴んだ俺の腕にまるで縋る様に体を寄せ、体裁も何もなく泣きじゃくっている……。  駈は――死んだ、のか。伊集院の言葉は途切れ、もう続かなかった。駈は、死んでしまったのか。伊集院の見守る前で。  俺が、殺した。俺が駈を殺したのだ。見殺し、と言う手段でもって。  ……俺は、駈をもて余していた。どう扱えば良いのか判らなくなっていた。俺の愛が通じ、駈の愛が感じられ、お互いに最大限に大事な人と想い合い、これからの生涯を二人で上手く生きていけると思っていた。なのに、駈には俺だけではなかった。俺に隠れての伊集院との密会。  殴り倒しても、無駄だと判っていた。きっと恐らく今取り戻した処で、駈はまたいつか伊集院の元へ行ってしまうのだろう。何故だか、確信の様にそう思った。  俺には、駈しか居ないのに。駈しか要らないのに。俺の愛する相手はそうではないのだ。そうと判った時の絶望。恐怖。嫉妬。憤慨。それらが、俺を突き動かした。  駈を監禁する。まだ、駈の顔を見ると伊集院に走られた自分の不甲斐なさを感じて情けなくなるだけだったから、どんなに駈が俺を呼んでいようと、俺は駈の前に顔を出す事が出来なかった。かと言って、駈を自由にしておくと伊集院に奪われる。俺の領地からは死んでも出してやりたくない。だけど……顔は見せたくない。  捕まえ監禁したまま放置した理由、だ。たった三日かそこらで人が死ぬとは考えもしなかった。現に今朝、出勤前に覗いた時、駈は俺を認めて頭を上げた。――だが、それは言い訳にしかならない。水分一つ駈に与えてやらなかった。立派に、俺には見殺す気があったと言う事だ。 「……駈は……」  乾いた声で、無意識の言葉を俺は呟いていた。嗚咽の合間で、そんな小さな俺の声がよく聞こえたものだ。伊集院が、ゆっくりとした動きで顔を挙げた。 「あいつは……最期に何て言った?」  ダアン、と物凄い力で背中が壁に押し付けられた。伊集院の殺気に満ちた目が、憤怒に震える拳が俺の胸ぐらを掴み間近に迫っていた。 「おまえに、それを知る権利はない。愛するひとを見ごろしにしたおまえになど」  唸り上げた低い声。いつもの温厚さとはまるで真逆の、猛々しい伊集院の双眸が俺を射抜いていた。最初に一瞬見えた獰猛な光。見間違いではなかったのだ。

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