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⑪暴虐の向かう先

新しいプロジェクトで現地調査とか言って、雄大に泊まりの出張が増えた。そこに付け入ってきた伊集院を俺は責められない、とかけるは思う。それを拒まなかったのは、他ならぬ自分自身なのだから。  雄大が出張で留守にする日の夜、最近では毎回の様にかけるの部屋に伊集院がやって来る。伊集院は雄大の部屋を使いたがるが……そんな無駄な罪悪感は、出来れば背負いたくはない。  今日も、雄大は昼から名古屋に出掛けてしまった。定時に帰って来た自分の部屋で、かけるは早くも先にビールを開けている。それこそが、忘れ追いやろうとする背徳心の現れなのだろうけど。  ピンポーン、とインターホンが鳴る。来ると分かっているから鍵もかけていない、いつもならかけるの返事も待たずに入って来る伊集院が、今日はまだ入って来ない。  何とはなしに感じる嫌な予感に、かけるはその場で立ち上がったまま動けずにいた。ガチャッ、とドアが開いた。  ドサッ、と何かが倒れた。何か――そこに立っている雄大に、雄大に床に倒された伊集院に、かけるは、ああ、と目を閉じた。  全てを悟ったのだろう、雄大は伊集院を何度も何度も殴りつけて、とうの昔に気を失っている伊集院を無言で殴り続けて、やがて手を止め顔を上げてかけるを見て、ゆらりと立ち上がりかけるの方へやって来て、  ……雄大に殴られるままに任せながら、済まない雄大、とかけるは心の中で謝り続けていた。ただそれしか出来ない贖罪を。  じゃらん、と鎖が音を立てる。同一姿勢に疲れたかけるが体の向きを変えたのに合わせて、鳴ったものだ。  雄大は、現れてから一言も言葉を発しなかった。殴られて直ぐに意識を失って、次に目覚めた時、かけるは裸で廊下に転がされていた。  自由はきっちりと奪われていた。両手首に掛けられた手錠。おもちゃ仕様らしいそれの真ん中、連結部からは、驚く程太く屈強な鎖が――まるで猛獣を括る為の様な頑丈な鎖が繋がって、それはドアノブにぐるぐるに巻き付けてあった。  見慣れた雄大の家の中、どうやら寝室と居間の間の狭い廊下に、かけるは放り出されていたのだ。監禁する様に、鎖に繋がれて。  両手首を括る手錠を、引っ張ってみた。無理に外そうと挑むと直ぐに、金属が肌に食い込み摩擦で赤くなった。ちゃちな作りなだけに、安全面の配慮もないのだろう。  手錠のお粗末さに比べて、鎖の頑丈さは脅威的に本格的なものだった。一体どんな怪力を以て、こんなにも太い金属を巻き付ける事が出来たのか。びくとも緩まないそれを外す事など、はなから考えも起きなかった。  体が、寒さに震えた。冷たいフローリングの床だ。見渡すと、足元の少し離れた場所に、ゴミ箱に新聞紙と小さなタオルが掛けられ置かれていた。  鎖の長さの許容範囲にあるそれに近付き、タオルを手に取り広げる。バスタオルにしては小さく、ハンドタオルにしては大きい。体を覆うにも中途半端だが、ないよりはましだ。  たたみ直して、新聞紙の上にそのタオルを置いて、尻に敷いた。本当は、体全部を覆うものが欲しかった。寒さが、体のあちこち……殴られた直接の痛みと、倒れてぶつけたりした二次的な痛みとに響くのだ。  まあ、自業自得の事態に文句なんて言える訳もないからな。溜め息で諦めて、体操座りにした膝に顔を埋めて、かけるはなかなか過ぎない時間を自覚しない様に努力するしかないのだ。  こんな時にも、当然の様に生理現象は訪れる。徐々に高まってきていた尿意。膀胱容量は、先程からもう限界を知らせている。  ……トイレに、行かせて貰わないと。幾ら鎖が長くても、トイレは隣の隣だ。この手錠を外して貰わない事には、向かえない。  雄大は、呼んだら聞こえる場所に居るのだろうか。 「雄大……」  立ち上がりながら、かけるは躊躇いがちに声を張ってみた。雄大は俺の顔も見たくないかも知れないけど、そこは我慢して来て貰って。自分で行けないのだから、仕方がない。  試しに、ドアに近付きぐるぐるにされた塊の鎖をどうにかしてみようとガチャガチャ揺らしてみながら、かけるはまた大声を出してみた。 「雄大!」  鎖はびくとも動かない。余り体に力が入れられない、尿意は限界間近だし、冷えきった体が痛むせいだ。鎖を諦め、かけるはドンドンとドアを叩いてみた。 「雄大! 居ないのか、雄大!?」  耳を澄ませて向こうの気配を探るが、シーンとしたままだ。それでも、かけるは雄大を呼び続けた。  どんなに呼んでも、雄大がやって来る気配はなかった。留守にしているのか……いや、違うだろう。居るけど、もう俺に関わりたくはないんだろう。だからと言って手放して伊集院の元に行かせるのは許せない、雄大がこうして監禁・放置を選ぶのは当然の策だと思えた。  かけるの切り替えは早かった。どうやったって尿意が治まる事はない、ならば……。  置いてあったゴミ箱の中で、放尿する。わざわざ用意してくれていた、と考えられなくもない――防臭の意味で被せた新聞紙でぎゅっと蓋をする様にゴミ箱の縁で押さえ付け、それを出来るだけ遠くに追いやり、かけるは冷たい床の腰元辺りにたたんだタオルを敷いてごろりと身を横たえた。  みじめさなどを感じたりはしない。これしきの事で。自分が雄大にした裏切りを考えるなら、こんなの罰にもなりはしないのだ。  ……時間の経過が分からない。喉だけがやたらと乾いている。  雄大は一度も現れない。全くの放置。  一度も捨てられる事なくゴミ箱に溜まっていく尿は、目に突き刺さる刺激臭を空間中に撒き散らしていた。蓋代わりにしていた新聞紙は大を包むのに使ってしまった。臭いのがそれら排泄物なのか自分自身なのか、かけるにはそれすら分からなくなっている。  飲まず食わずで生きていられるのって、何日位なんだっけ。ぼんやりした頭で考える事なんて、もうそれしかなかった。  雄大は俺が餓死するのを待ってる。望んでる、と言うべきか。  じゃなかったら、一度位は顔を覗かせるだろう。飲み物も食べ物も与えず、排泄物の始末をする事もなく、こんな冷えきった場所に拘束した状態で放ったらかしにはしないだろう。  ……喉が乾く。何かを食べたい欲求はない、だけどひりひりする喉を潤してくれるものがあるならば、泥水でも構わないから欲しいと切にかけるは思っていた。  罰だから。そう自分に言い聞かせるには、やりきれなさが強過ぎた。せめて雄大に逢いたい。謝りたい……それを雄大が許さないとしても。このまま弱らされ死んでいくのなら。  雄大に、逢いたい……。  ゆうだい、呟いた筈の唇から、声が出る事はなかった。渇ききった喉に、声帯を震わす力がある筈がなかった。  だけど、音は伴わずとも唇は動かせるのだ。雄大、かけるはただ一つ、その名前だけを口にし続けた。  ここから出たい。これ以上ここに居たら、確実に気が狂うとかけるには分かっていた。  ――雄大は、いくら呼んでも来ない。いくら俺が願っても。……俺が望む限り。  希望に縋りたい気は、現実に打ちのめされた諦めに変わっていた。雄大は俺を捨てた。完全に。なら、こんな所からは逃げ出さなければ。  深刻な喉の渇き……それにも、もう限界が迫っていた。あの悪臭を放つゴミ箱の中の汚液、喉を癒してくれるのなら、もうあれを飲むしか――考えは、そこ迄追い詰められていた。  狂いそうだ。ここを出なきゃ。逃げなきゃ。かけるは、自由を奪う手錠から手首を抜き出そうと、必死で挑んでいた。  手錠が肌を傷付ける。抜け出さないと。こんな地獄から。その為になら突っ掛かる親指位折ってしまおうか、それとも手首の骨位砕いてしまおうか――  早く逃げるんだ、早く……ガチャガチャと、相当に鎖を引っ張ってでもいたのだろう。それ迄動きもしなかったドアが突然動いて、少し前迄は逢いたくて堪らなかった人物が顔を覗かせた。  漂う臭いにだろうか、雄大は瞬時に顔をしかめた……途端に、やっぱり俺はもう用済みなんだ、とかけるは悟って――  ――哀しいやら  ――切ないやら  ――情けないやら  ――いたたまれないやら  ――泣きたいやら  ――喚きたいやら  そんな色々な感情が入り乱れて爆発しそうに昂ぶって、かけるは、  ……ああ、最後の希望が。  僅かな望みが。  ゆうだい、と動いたかけるの口の動きを見た筈の雄大は。  確かに見ていた筈なのに。  ふい、と無表情のまま背を向けてしまった。  一瞬で。  躊躇いもなく。  そうして、閉まるドア。  雄大は、去って行ってしまった。  永遠に。  永劫に。  ああ、そうか……。  雄大にとって、  もう俺は、  『貴崎駈』なんて人間じゃないんだ。  そうか俺はもう、  生きる価値なんてない人間で、  このまま生きてたって雄大に許される事はないんだ。  死なないと。  死んでやらないと。  ――雄大の為に。  そう思うと、  かけるはごとりと床に頭を落とした。  体温。  感触。  感じた暖かい柔らかさは、死んだ体を抱き上げる天使のそれなのか。  ふっ、とかけるは自嘲をこぼす。……天使、だと。自分が天国に行ける身分だとでも思ってんのか、俺は。  おこがましい。  ――頬に、何かが触れる。触れている。  ぼうっとした感覚は鈍麻で、随分と経ってから、頬を撫でられている、とかけるは薄ぼんやりと思った。  目は開かない。開けたくない。自分を連れて行こうとする死神の顔なんて見たくない。  俺は死んだんだ。今正に、死神がお迎えにやって来たんだ。一瞬でも天使だと勘違いした間抜けな俺を笑う死神の顔なんて、目に入れたくなんかない。  頬を優しく撫でる手は、誘う死神の罠。だから、極上に優しく暖かい。 「……可哀想に……」  落とされた囁きは、どこか伊集院の声に似ている――死神は、どこ迄も束の間の安心感を俺に与えたいらしい。地獄に落とす前にわざとぬか喜びさせて、その後の絶望をより強固なものにする為に。  ああ、ご苦労なこって。かけるの歪んだ笑みは深まる。  俺、もう死んでんだろ。さっさと運べよ。言ってやりたかった。からからに渇きつくした喉が、唇が開くものなら。  そんな考えを読んだ様なタイミングで、唇に柔らかな感触が押し当てられた。勘弁してくれよ、顔を逃がそうとして鉛を乗せられた様に重く感じる体をもて余して、かけるは思う――どこもかしこも伊集院に擬態してやがんのか。頬をなぞる手も口付けた唇も、俺の頭を抱えて乗せてる膝も、今では手錠に拘束された手首を丁寧にさする手も。  体の感覚も思考も、膜を張った様にまだぼんやりと遠い……離れていった唇が、伊集院の声をかたどって、そこはきっぱりと告げた。 「加納先輩に、お仕置きしてやらなくちゃね」

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