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十七 先輩らしい一面

(よし。あとは承認を貰うだけだな)  書類を纏め、ホッと息を吐く。午後イチでまとめ上げた書類のチェックを終え、あとは課長の承認を得るだけとなった状態だ。問題がなければ今日は定時で帰れそうだ。  入社してまる二年。仕事も覚えたし、なんとなく要領も良くなってきたと思う。まだ完全に一人で仕事が出来るかと言えば怪しいところだけれど、仕事の楽しさも解ってきたところだ。三年目となればもうベテランになるだろうし、自信もついてきた。  トントンと書類をそろえてクリップで止め、パソコンに向かう課長に声を掛ける。 「課長、ちょっと良いでしょうか?」 「あ? なんだ、久我」  顔を上げた課長は、少し不機嫌そうだ。なんとなく臆したが、気を取り直して書類を手にする。と、課長は苛立ったように顔を顰めて、スマートフォンと手帳を片手に席を立つ。 「ああ、済まんが後にしてくれ。今から会議だ」 「あ。っと、はい。解りました……」  会議だったとは気が付かなかった。くそ。  がっくりと肩を落とし、席に戻る。メールをチェックして、書類のファイルを再度開いた。もう一度見直そうと思ったが、出鼻をくじかれて気乗りしない。 (はぁ……)  承認を貰わないことには、他の仕事をしようがない。会議から出るのを待つしかないかと、溜め息を吐いた。  結局、一時間の予定だった会議は三時間まで延び、俺は定時では帰れなかった。   ◆   ◆   ◆ (凄い、疲れた……)  大したことをしていないのに、疲れてしまった。気疲れしたという奴だろう。結局定時を過ぎて、戻ってきた課長が書類を確認するのを待って、承認を貰うまでに時間を要してしまった。承認自体は五分で済んだと言うのに、無駄な時間を過ごした気がする。 (効率化、効率化っていうわりに、こういうことってまだあるよなぁ……)  業務を効率化しろだとか、見直せだとか、そういうことを言う割に、未だに変わらないことも多い気がする。俺だったらもっと良い感じにするのに。まあ、具体的には思い浮かばないけど。とにかく、承認なんかちゃっちゃとやって欲しいもんだ。今さら案件の中身説明させられたしさ。 「はぁ……」  溜め息を吐いて、玄関へ向かう。残業にはなったが、門限までは余裕がある。だが、晩飯は残り少ないかもしれない。夕暮れ寮の食堂は、人気があり、寮生はほとんどが利用している。街のレストランほどメニューの数は多くないが、肉か魚か、麺、丼とこの辺りのメニューは大体揃っている。遅くなるほど人気のメニューは無くなって、最後には米しか残らない。その米も、最後の最後には一粒も残らないのだ。  今の時間なら、まだ晩飯が残っているだろう。足早にエントランスを通り抜け、食堂に向かう途中で、だしの良い匂いが共有スペースから漂って来た。共有スペースには共同の冷蔵庫やキッチンがある。そこから漂ってくるようだ。 「?」  何の匂いだ? と、共有スペースを覗き込む。 「あれ、航平。今帰り?」 「おう。って、何事?」  部屋の中にいたのは、大津、蓮田、それから吉永の三人だ。何故か吉永はそばを啜っている。 「そば処・蓮大へようこそ~」 「そば屋かよ。バーはどうした」 「廃業した」  どうやら本当にそば作りをしていたらしい。予想通りといえば予想通りだ。吉永の隣に座り、ざるそばを注文する。 「で、吉永は客?」 「飯行こうとしたら呼び込みされた」 「なるほど」  食堂に行く客を狙って出店したのか。部屋の設備だとそばを茹でるのが厳しいからという理由もあるようだが。横目に吉永のそばをみれば、なかなか美味そうである。本当に器用な奴らだ。その才能を別なことに生かせないものだろうか。 「残業?」 「あー……」  そばが茹るのを眺めながら、注文もしていないのに出て来たビールを啜る。 「課長が承認してくれれば……」 「なにそれ」  思わず、愚痴ってしまう。自分の仕事のせいで残業になったわけじゃないと思うと、なんだかモヤモヤする。翌日に回せる仕事ならそうしたが、今日中にやらなければ行けなかったし。 「ポンとハンコさえ押してくれりゃ良いのにさあ」  ハァと溜め息を吐く俺に、大津が「あるある」と笑う。吉永はお茶を啜って「んー」と唸った。 「航平はさ、課長がお前が今どんな仕事してるか、解ってると思う?」 「解ってるでしょ? うちの仕事だよ?」 「まさか。全体は見えてても、細かいところは解らないでしょ。今何してて、どういう部分をやってるとか、超人じゃないんだから見えないって」 「……見える化とか」 「それ、お前は出来てんの?」 「……」  俺が出来ているか? どうなんだろう。ああ、少なくとも、課長が会議に入るとは解らなかったな。なんの会議なのかもよく解らなかったし。スケジュール見たときは北陸案件と書いてあったから、そっちなんだろうけど、俺とは関係がないしよくわからなかった。 「どうすりゃ良いわけ?」  吉永は漬物を摘まみながら唸る。 「まあ、コミュニケーションだよな。一番は。雑談で良いから、今はどんなことやってるとか、あれそれがこうなんですよー、とか。あとはハンコ貰うだけなら、最初に『なになにの件で、承認良いですか?』って言えば、課長の方も航平の話が長くなるのか、短くなるのか判断出来るだろ」 (確かに)  課長は会議前に呼び止めた内容が、長くなる相談なのか、短い話なのか、それが解らなかったから「後で」って言ったのか。それはそうかも。 「なるほど」 「お前だって、部内の他の人がなにやってるかとか、全員は見えないだろ? そんなもんだよ。やり取り無いヤツが何やってるかなんか、解んないって」 「そうかー……」  上の人って、下のことが解ってるのかと思ってた。そうじゃないのか。 「そうそう。だから、アピールが上手いヤツには負けちゃうよ? そういう奴横目に、『俺のことは解ってくれない~』なんて言うようじゃまだまだだね」 「う……」  思い当たる節があり、ぐっと言葉を詰まらせる。吉永はカラカラと笑った。吉永は、そういうの上手そうだな。上にも可愛がられるし、下からも慕われる。ふざけたところも多いけど、まともなことも言うし。案外、頼りになるし。 (ベッドん中じゃ、ダメダメなのにさ)  俺にしがみ付いて、とろとろになってんのに。 「お待ちー」  思い出してしまった思考を遮って、そばが出て来る。つやつやしていて、美味そうだ。 「美味そうじゃん。いただきます」  一口啜る。だしの味と、そばの風味が良く出ている。老舗のそば屋かよ。 「うま」 「だよなー。会社辞めてそば屋やれ、そば屋」  吉永も笑っている。吉永はそば湯を貰ったようだ。 「しかし、課長と会話って、どうすりゃ良いんだろ。話題とかねえよ」 「おれはタバコ行くけど、お前行かないもんな。まあ、無難に目についたもん話題にして話しかけてくのが良いんじゃねえの? おれだったら持ち物見て『それって何ですか?』とか『それ流行ってますよね』とか、そんな感じに会話振るけど」 「あー。課長、ガジェットとか好きかも」 「ああ、良いね。それ話せば良いじゃん」 「……そうしてみる」  なんとなく言った愚痴だったが、言って良かったかもしれない。吉永はなんだかんだ言って、ちゃんと『先輩』なんだな。ちょっと、悔しいけど。  まだまだ、追いつけない。そんなことを自覚しながら、そばを啜った。

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