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三十九 『普通』の日常
登山は、悪くなかった。久し振りに身体を動かせた感じがあるし、なにより達成感がある。長い山道を登っている間は、余計な雑念ばかりが頭の中を纏わりついたが、頂上からの景色を見た時には、気分が大分良くなった。
(こうやって、リセットして、少しずつ『普通』に戻って行こう)
課長たちとは、今度は別の山に登る約束をした。折角装備も買ったのだし、何回かは一緒に登ってみるつもりだ。
(まあ、余計な情報も聞いたけどな……)
知り合いの話を他人から聞くのは、変な感じだ。それが吉永となれば、余計だ。俺の知らない顔を、他人から知らされるのは気分が悪い。
「登山って良いの?」
買って来た土産のまんじゅうに手を伸ばしながら、蓮田が言う。イツメンの同期たちにも、土産を買って来た。定番土産らしい茶色いまんじゅうだ。
「良し悪しが解るほど登っていないけどな。まあ、良いんじゃない? 雪山とかに登りたいとかは全然思わないけどさ。登山なら、歳食ってもやれる趣味だろうし」
「ああ、それは言えてる」
「オレは登山は面倒だな~。ケーブルカーなら良いけど」
「それでも良いんじゃね? 気分は味わえるだろ」
ケーブルカーで行ったって、山頂までは歩きだろうし。
(吉永にも渡したかったんだけど……)
吉永は残念ながら不在だ。まんじゅうの日付もあるので、早いところ渡したかったのだが。
(――バスケ部のこととか、ちょっと聞きたかったんだけど)
昔話なんて、録に聞いたことがない。吉永はあまり自分のことを話さないし、俺も聞かなかった。
バスケの話が出来れば、少し自然に話せるかと思ったのに。打算的な考えだが、『普通』に戻るには、そういう積み重ねをするしかないと思う。
「部屋のドアにでも、引っ掻けるか……」
残念だと思うと同時に少しだけ、気まずさを感じなくて済むと思っている自分がいた。
◆ ◆ ◆
「チョコバナナ屋の寿命は短かったな」
「まあ、屋台飯なんか、毎日食いたかないしな」
「確かに」
言いながら自販機で購入した水を、吉永にも手渡す。吉永は「ども」と言って受け取ると、ポケットから電子タバコを取り出した。
「んじゃ、タバコ吸ってくるわ」
「おー……」
土産を部屋のドアに引っ掻けた翌日から、吉永に何の心境の変化があったのか知らないが、以前のような態度に戻っていた。つまりは、俺とセックスする前のような感じだ。最も、まだ前みたいに、映画でも観ようと部屋に誘われたりはしない。
(結局、バスケ部の話すら、出来てない……)
簡単な話なのに、なんでもない話なのに。吉永が普通すぎて、話を切り出せなかった。
吉永はもう、俺のことを切なげな表情で見ない。緊張して指を震わせることもない。まるで、俺への関心がなくなったみたいに見えた。
(望んでいたことなのに)
胸が、チクリと痛む。
(いや、『普通』に戻りたかったんだから――。いや、待て。……まさか)
新しい男が出来たんじゃないだろうな。と思って、思わず立ち去る吉永の背を睨み付ける。
吉永は喫煙スペースに入ると、先に入っていた寮生と親しげに笑い出す。俺ばかりと親しいわけじゃない。吉永は皆と仲が良い。
(……まさかな。いや、でも)
俺と寝たきっかけだって、『ホンモノを突っ込んでみたい』っていう話であって、俺とヤりたかったわけじゃない。俺じゃなくても、良かったはずだ。
(なんか距離、近くないか……? いや、あんなもんか……?)
煙を吐き出す唇を、喫煙スペースのガラス越しに見る。何の話をしてるのか解らない。けど、楽しそうだ。本当に、吹っ切れたのか。
(俺は、まだ引きずってんのに……)
あのガラス壁は、俺と吉永の心の距離みたいだ。見えているようで、触れられない。俺はタバコを吸わないし、あの中には入らない。
「チッ……」
思わず舌打ちして、ペットボトルの水を開けると、一気に飲み干した。唇からこぼれる水を拭って、当て付けのようにゴミ箱に投げ捨てる。
(面白くない)
全然、面白くない。
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