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四十 偽りの心

 吉永を見るたびに疼いていた気持ちは、ゆっくりとなだらかになっていった。あの甘酸っぱくて苦い感情を、忘れることはないだろう。けど、ゆっくりとだが確実に、激しい衝動は薄れている気がする。  そのせいか、蓮田や大津からは「なんか老けた」と言われているが、落ち着いたと言って欲しいもんだ。火遊びをやめて大人になったのだから、当然の結果だろう。  吉永は――吉永に新しい男が出来たのかは、解らない。最初はムカついたけど、仕方がない。やめたのは俺なんだし、俺にそれを言う権利はないから。  そう思ってからは、何もかも無心でいられる気がした。最近は「落ち着いてきたな」と課長にもいわれるし、仕事は順調だ。プライベートだって――。 「結構、混んでたね。早く来たのに」 「だね。でもすぐ入れて良かった」  テーブルについて、ほぅと息を吐く河井さんを見る。河井さんとのデートはこれで三回目。順調に進んでいると思う。ただ、今のところ、『男友達』の範疇。手も握っていないし、キスもまだだ。そろそろ、『付き合ってる』の段階に進んでもいい気がする。 (多分、河井さんもOKだと思うし)  河井さんから感じていた、微かな警戒心は、今は感じない。最初のデートは、探られている感じがした。今思えば、合コンも友人を誘ったのは、俺のことを品定めしたのだと思う。その後、デートにこぎつけられたということは、多分友人たちからも『合格』を貰ったということなんだろう。  河井さんに対して、激しい感情を抱いたことはない。でも、多分それが『普通』の恋愛なんだと思う。そのうち、自然と一緒にいるのが当たり前になれば、「この人と一緒になるんだろうな」と、漠然と思うようになるのだろう。そうやって、穏やかな感情を抱いていられる相手と一緒になった方が、幸せなはずだ。  誰にも後ろ指さされることなく、誰にも咎められることなく。皆に祝福される、当たり前の人生。模範解答みたいな、絵に描いたような『幸せな』光景。  河井さんが来たかったという、フルーツサンドが美味しいらしい喫茶店は、女性客が多かった。見た目が綺麗なサンドイッチの写真を見ながら、メニューを選んでいると、テーブルの端に置いたスマートフォンがブルルと震えた。 「ん?」  手にとって確認すると、メッセージが入っていた。吉永からスタンプ付きで、『冷蔵庫のプリン貰ったー』と送られていた。 (あの野郎……)  本当に、元に戻ったと思う。元に、戻ってしまった。少し寂しくはあるが、それだけだ。少し大人になった俺は、プリンくらいじゃ怒らなくなった。以前ならば、けんか腰のメッセージを返したと思う。今は、吉永が欲しいなら、プリンくらいあげてもいい気がする。 (まあ、でもそう返事するのはしゃくだし) 『買って返せ』と返信し、スマートフォンを置く。河井さんが「どうしたの?」という顔で、俺をみていた。 「あー……。先輩。冷蔵庫に入れてたプリン、勝手に食べたって」 「あは。事後報告なんだ」 「こんなんばっかりだよ」 「仲良い証拠だね」 「――うん。仲良い、先輩」  なんとなく沈黙してしまい、慌ててメニューを捲る。 「っと、何にするか決めた?」 「うーん。季節限定も良いんだけど、定番も良いよね。迷っちゃう」 「なら、それ頼んで、半分ずつにしよう」 「うん。ありがとう」  河井さんの笑顔に、胸がざわめく。なんとなく、落ち着かない。  注文をして、待っている間は、他愛のない話をした。趣味がないという河井さんに、俺も同意する。バスケもやめて、海外ドラマも視なくなって久しい。今はなにもしていない。登山も、まだ趣味になっていない。でも、みんなそんなもんじゃないだろうか。それが普通じゃないか。 「好奇心がなくなっちゃうの、良くないよねえ。あ、来たみたい」  河井さんの言葉に、つられるようにサンドイッチを載せた皿を運ぶ店員をみた。目の前に、美しいフルーツサンドが並べられる。こういうのが好きなのか。河井さんがそうなのか、女の子が一般的にそうなのか、いまいちわからない。俺は本音では、飯なのかデザートなのか曖昧な料理は好きじゃなかった。 「わああ。すっごいキレー。写真撮っちゃうから、待ってね」 「うん。河井さん、必ず写真撮るよね」  過去三回のデートでは、河井さんは食事のたびに食べ物の写真を撮していた。SNSかなにかをやっているのかと思えば、『自分用』らしい。 「そうなの。あとで見返したとき、ここ美味しかったなーとか、誰といったんだなーとか、思い出をまるごと保存できちゃう感じ。久我くんは、写真は撮らないひと?」 「あー……。最後に撮ったのいつだろ。俺写真はメモにしか使ってなくて」  河井さんの写真にする感じは、正直良く解らない。思い出が食べ物に紐ついているのは、河井さんが食べるのが好きだからだろう。山でくらい、写真を撮れば良かっただろうか。周囲は本格的なカメラを持っていたから、思いつかなかった。  最後に撮影したのがなんだったのか。スマートフォンを操作して、写真アプリを起動させる。 「―――」  瞬間。  表示された写真に、息を呑んだ。 (え、なんで)  動揺して、スマートフォンが手から滑り落ちそうになるのを、ぐっと握り締めて阻止する。  ドクドクと、心臓が鳴る。ディスプレイを、もう一度見る。  撮影した記憶のない、一枚の写真。薄暗い部屋は、寮の吉永の部屋だろう。ベッドの上に寝転がった俺と、その横でカメラを構える吉永の写真。吉永はカメラ向かって中指を立てて、舌を出していた。後から文字を入れたらしく、写真の上に黄色い文字で『死ね』と書かれている。 (これ――あの日、か)  最後に吉永を抱いた夜。俺が寝落ちしたあと、撮ったのか。 (目、真っ赤じゃん……)  ずくん、心臓が疼く。  あの夜、一人で泣いていたのか。一晩中、俺の寝顔を見ていたのだろうか。  胸が、痛い。  写真の、『死ね』と書かれた文字を指先でなぞる。  思えば、吉永は一言の文句も言わなかった。ただ、俺の拒絶を受け入れて――笑っていた。笑った、ふりをした。  なんで、忘れていたんだろうか。  あの時、傷ついた顔をみたはずなのに。  いつの間にか、吉永は平気なんじゃないかと。吉永にとっては、俺なんてその程度なんだと。  勝手に、決めつけた。  決めつけて、見ないふりをした。 「久我くん?」  河井さんが、急に黙り込んだ俺に首をかしげる。  俺はなんで、今、ここにいて、河井さんと一緒に居るんだろう。  どうして、吉永を傷つけてまで、ここに居るんだろうか。 「――っ……」  唇が震える。押さえつけていた感情が、込み上げる。  どうして、手離してしまったんだろう。本当は、手離したくなかった。未来が怖くなって、何かを言われるんじゃないかと怖くて。  手を、離した。  怖かった。怖かったんだ。 (吉永に、のめり込んでる自分が怖かった)  自分の中の何かが変わってしまいそうで、怖かった。  俺は。  俺は――。 (吉永が、好きだった)

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