42 / 96
四十二 再会
「研修――ですか」
課長の言葉に、オウム返しにそう返す。ミーティング室に呼び出されて、何事かと思えば、研修に言ってこいという命令だった。会社の金で勉強してこいと言うのだから、評価されているのだろう。
「そう。都内の研修センターでな。日帰りだが、昼食は弁当が出る」
「解りました。行ってきます」
大がかりな研修ではなく、小規模な研修という所か。関連会社の社員を集めた研修のようで、夕日コーポレーションの他事業所の人間も参加するようだ。
(まあ、たまには気分変えるのも良いよな……)
出張扱いなので遊んで帰れないのがもったいないところだが、気分転換にはなるだろう。
(あれから――だもんな……)
洗濯室でのキス未遂事件以来、吉永は露骨に俺を避けている。顔を見合わせても、わざとらしいくらい目を逸らして、隣に来ようとしない。さすがに蓮田たちから、「ケンカしたの?」と聴かれたくらいだ。
ケンカ――なのかというと、微妙なところだが。あながち、間違ってもいないのかもしれない。俺はまだ、吉永にかける言葉が見つからないし、吉永の方も気持ちの整理が出来ていないようだった。
出張命令書を作成するために席に戻り、ため息を吐く。
(吉永……)
スマートフォンを開いて、メッセージアプリを起動する。吉永とのやりとりは、しばらくしていない。話したい。そう送ろうかと思ったけれど、書いては消し、書いては消してを繰り返している。
考えすぎて、頭がパンクしそうだ。吉永とどうなりたいのか、だんだん解らなくなって来る。友人として傍に居たいだなんて、綺麗ごとだっただろうか。自分のことばっかり考えて、本当に嫌になる。吉永のこととなると、自分がいかに卑怯で、クズ野郎かが思い知らされる。
写真アプリを開き、吉永の撮った写真を見る。『死ね』と書かれた黄色い文字よりも、吉永の表情に心臓が抉られる。どうして吉永はこんな俺に、普通に接しようとしてくれるんだろうか。蹴り飛ばされて、ぶん殴られたって、文句なんか言えないのに。
(寮――出た方が良いのかもしれない……)
このまま一緒に居ても、苦しいだけだ。吉永を傷つけるだけだ。それならいっそ、今のまま――。
今のまま、離れた方が。傷は浅くて済むのかもしれない。
◆ ◆ ◆
研修の日まで、吉永とはろくに会話をしなかった。吉永が避けていたこともあるが、俺も吉永を目で追うのは辞めにした。大津は何度か俺たちに何があったのかを気にして問いかけてきたが、曖昧に返事をする俺に、次第に何も言わなくなった。
(夜までかかった……)
研修は思ったよりも一日中しっかりとやらされた。遊び半分の気分だった身としては、気が引き締まる思いだ。おかげで、研修中は何もそれだけに集中出来た。時刻は七時を少し過ぎたところで、門限を過ぎるが帰ることは出来る。今日は外出許可を出しているので、遅くなっても問題ない。
(飯、どうするかな……)
どこかに入っても良かったが、週末ということもあって、レストランはどこもいっぱいだった。並んでまで入る気になれず、ビルの一階にあったコンビニに入る。適当に何かを買って、済ませてしまおうと、おにぎりとお茶を手にレジへと向かった。
「――あれ、航平?」
と、レジの店員が呟いた声に、なんだ? と思って顔を上げる。どきり、心臓が跳ねた。
「え――」
「驚いた。久し振り……。元気か?」
「……兄貴」
コンビニ店員の制服を着て立っていたのは、実家を出てしばらく連絡を取っていない、兄だった。面影は変わらないが、少し痩せた気がする。
「航平のスーツ姿、初めてだな……。ちゃんと、働いてるんだな」
「あー……、夕日コーポレーションに入社したんだ。兄貴は……バイト?」
「すごいじゃん。俺は、見ての通り。コンビニと日雇いのバイトで食いつないでるよ」
そう言って笑う兄の様子に、俺は曖昧に笑って見せた。まさか、こんな場所で兄に会うとは思っても見なかった。
かつて――兄は、成績優秀でピアノが弾けて、いわゆる『神童』という人だった。父も母も、優秀な兄のことを信じていたし、疑いもしていなかった。俺自身は歳の差もあって、頼りになる、自慢の兄という以外の感情を持っていなかった。兄が当時、どんな気持ちだったのか、どんな思いで家族と過ごしていたのかは、今でも解らない。ただ、母の期待は、並々ならぬものがあったことは、間違いなかった。
その『優秀な兄』の幻想が崩れ去ったのは、兄の高校受験当日だった。
受験会場に、兄は現れなかった。突然、受験をボイコットしたのだ。どうしてだったのか、当時まだ小学生だった俺には解らなかった。ただ、兄がとんでもないことをしたということだけが解った。当然、大学受験は失敗し、家の中は阿鼻叫喚だった。母はヒステリーの末に倒れ、父の罵倒が延々と続いた。
兄は、ただ、耐えていた。
高校卒業と同時に、兄は家から出て、年に数回も帰ってこなくなった。その分の重圧は、俺へと向いた。
「……漫画、まだ描いてんの?」
俺の言葉に、兄は一瞬だけ目を丸くして、それから誰にも後ろめたいようすなどない顔で、笑いながら「うん」と頷いた。
兄を『神童』から引きずりおろしたのは、漫画だった。
後から聞けば、バカバカしく、酷く滑稽な話だった。
長男という期待を込めて、母の熱心な教育で育った兄は、娯楽というものから遠ざけられて育てられた。根が真面目な性格の兄は、俺のように友人の家で息抜きするようなことなく、本当に真面目に、真面目に、母の敷いたレールの上を歩いてきた。そんな兄は、当然のようにゲームや漫画から遠ざけられ、勉強ばかりの人生を歩んでいた。
あの受験の日、兄が出会ったのは、電車の荷棚に忘れ去られた、漫画雑誌だった。誰かが忘れたその雑誌を、吸い寄せられるように手に取った兄は、そのまま漫画をよみふけり、結局電車を乗り過ごした。そして、受験会場に行くことはなかった。
受験に失敗した兄は、これまでの青春を取り戻すように漫画に没頭し、勉強を投げ捨てた。兄にとって、漫画との出会いはそれだけ特別だったのだろう。それを知ったのは、三年ほど前、ふらりと実家に帰ってきた兄が「漫画家の先生に弟子入りした」と宣言した時だった。母と言い争い、追い出されるようにして家を出て以来、兄は実家に戻ってきていない。兄の話は、家では禁句となっていた。時折、「兄のようになるな」と呪いのように繰り返す言葉だけが、家族の話す兄の話題だった。
「一緒に漫画を描いてる仲間は、みんな俺よりずっと上手いんだ。俺はスタートが遅かったから……」
「そう」
だったら、こんな風にバイトをしてる場合じゃないんじゃないのか。そう嫌味の一つも言いたくなったが、それを言うほどの気力もなかった。現実問題として、働かなければ食っていけない。真面目な兄のことだから、少ない時間でも身を削って、漫画を描いているのだろう。
すこし、うらやましい。好きなことに没頭している兄が。俺には、そういうものはない。仕事は楽しいし、やりがいがあるけれど、それが『夢』なのかと言われたら、そうではない。俺は『夢』のない子供だったし、大人になってから見つけられるとも思えなかった。
「……嫌になんないの? 自分より若い子が、どんどんデビューするだろ?」
嫌なことを言ってしまったのは、そんな悔しさがあったからかもしれない。ビジネス街にあるコンビニは、利用客が少なく他に客はいなかった。立ち去る口実も、思いつかない。
「才能がないのかな、とは思うけどね」
「……」
じゃあ、辞めれば良いのに。今なら取り返しがつくかもしれない。いい歳こいてコンビニのバイトなんて、みっともないことをしなくて済むかもしれないじゃないか。そんな風に、頭に過る。
「でも、諦める理由もないし」
「――え」
「俺の人生だからね。誰に言われる理由もないし、誰かに決めてもらう必要もないじゃない」
「――」
「まあ、この業界、若いうちにデビューする子が多いけどさ。別に年齢制限があるわけじゃないし、才能がないなら努力すれば良いし」
前向きな兄の言葉に、唇を結ぶ。否定する言葉が見つからず、悔しさに顔を歪めた。歳を取って、諦める理由を探す人間は多い。俺もそうだ。そんな人間の一人だ。そうやって時を重ねて、「あの頃は良かった」なんて大人になったふりをしていれば、それで許されるような気がしていた。
俺は、理由を探していなかっただろうか。諦めても良い理由を探して、言い訳をしていなかっただろうか。本当に欲しいものから、そうやって目を背けた結果が、これだ。
(俺、最低……)
自分にない眩しさを失っていない兄に、嫉妬に似た感情が湧くのを、苦い気持ちでかみしめる。手放したのは自分の癖に。
「航平」
兄が、不意に声音を変えて問いかける。どこか、懐かしい顔をしていた。
「お前が、俺のせいで苦労してるのは知ってる」
「は? 何が……」
「お前の人生は、お前のもんだ。母さんのものじゃない。――お前は、自由なんだよ」
「……っ」
その言葉に、やり場のない感情が沸き上がる。発作的に怒鳴りそうになって、兄を睨みつけようと顔を上げた。
『航平、大丈夫か? ほら、おぶってやるから』
不意に、兄の声と共に、記憶がフラッシュバックする。
歳の離れた兄に、背負われた記憶。面倒見が良くて、優しい兄だった。その兄と、今の兄は、何が違うだろうか。目の前にいる男は、あの頃と同じ表情をしていた。
変わったのは、俺か。兄はなにも変わってはいない。
(俺も)
俺も、まだ踏みとどまれるだろうか。まだ、足掻いても良いのだろうか。
「――俺の、好きに生きて、良いのかな」
ポツリ、呟く。兄はニッコリと笑って見せた。
「当たり前だ。何をしたって良いんだ。何になったって良いんだよ。後悔だけは、するな。航平」
「好きに――か」
そんなこと、考えたことなかった。母の気に入る学校に入って、父が喜ぶ大学に行った。地元の大企業に入社したのも、それが理由だった。寮に入ったことだけが、ささやかな反抗だった。
このまま何の問題も犯さず、品の良いお嬢さんをお嫁さんにして、子供にも恵まれて、穏やかな人生を過ごすことが、最高の幸せだと、そう教えられて生きて来た。そこに異物はいらないのだと、ずっとずっと、良い聞かされて来た。
「――俺が勘当されても、兄貴は俺の味方してくれる?」
母の描く家族の肖像に、兄はいない。兄は異物として、家族からはじき出されてしまった。俺のことも、母は許さないだろう。その枠組みから、きっと追い出される。俺は、そんなことが怖かったのだろうか。
俺の言葉に、兄は目を瞬かせ、ニッと笑う。
「当たり前だ。俺のたった一人の弟なんだから。俺は、お前の味方だよ。航平」
その言葉に、俺は幼い子供みたいに、くしゃっと笑った。
「……そろそろ、行くわ。身体、気を付けて」
「ああ。航平も」
「――兄貴」
入り口で一度立ち止まり、レジの方を振り返る。
「デビューして、親父たちの鼻を明かしてくれよ」
「――。ああ、もちろん」
それだけ言って、コンビニを出る。足取りは、軽かった。
ともだちにシェアしよう!