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九十五 さよなら夕暮れ寮

「吉永に続いて、まさか航平まで寮を出るなんてな」  宮脇のセリフに、俺は感慨深い想いで寮を見上げる。長く住んだ気がするけど、振り返ってみればそうでもない気がする。  今日は、俺が夕暮れ寮を出る日だ。手に持っているスポーツバッグ以外の荷物は運んだし、掃除も済んだ。あとは挨拶をして、寮を出るばかりだ。  吉永は先月、一足先に寮を出た。カモフラージュもあったけれど、俺のアパートは清掃とリフォームが入ったから、一ヶ月遅れたのだ。一月間だけ別居生活みたいな感じだったが、それはそれで、楽しい部分もあった。けど、今日からやっと、一緒に暮らせる。 「ったく。結局、恋人も紹介してくれないしさ」 「まあ、そっちはそのうちな」 「イチャイチャするんだろーっ」 「お前らも、馬鹿ばっかやってないで、落ち着けよ」 「おれと蓮田は大丈夫。そのうち脱サラして蕎麦屋やるから」  大津は真面目腐った顔で、そんなふざけたことを言った。蓮田が「あのなあ」と呆れながら大津の脇腹を叩く。こんなやり取りを見るのも、そんなになくなるんだと思うと、ちょっと寂しい。この三人は、一番一緒に飯を食った仲間だ。  少ししんみりしてしまった俺に、蓮田が何かプレゼントらしい包みを渡してきた。持ってみると、ずしりと重みがあった。 「なにこれ?」 「賭け、お前の独り勝ちだったから。餞別ってことで」 「お前はずっと、寮にいると思ったのにさ」 「自炊するんだろ? 包丁セット。結構良いヤツ」 「マジか。すげえ、ありがとう」  まだ律とこうなる前、寮を出ると息巻いて賭けをしたんだっけ。あの時はこいつらも、俺が寮を出ると思っていなかっただろうけど、俺自身も思っていなかった。本当に、人生ってどうなるか解らないものだ。  雑貨などは殆ど、律が用意しているので必要ないのだが、これは使わせて貰おう。 「本当に手伝わなくて良いの?」 「ああ。もうほとんど済んでんだ。律も手伝ってくれてたし」  律の引っ越しと俺の引っ越しは、殆どの家具が新調だったこともあり、大した手間がなかった。寮生活だと、私物もそれほど無いし。まあ、捨てたものは多かったが。 「そっか。じゃあ、落ち着いたら遊びに行くからな」 「おう」 「自炊して腹下すなよ~」 「変なフラグ立てんな」  門から、道路に一歩踏み出す。もう一度、夕暮れ寮を振り返った。  騒がしくも、愛おしい。もう一つの家。ここに住む仲間たちは、俺たちにとって、もう一つの家族だった。 「じゃあ、行ってくるわ」 「おう」  寂しくなるな。  そんな言葉を呑み込んで、俺は夕暮れ寮に別れを告げた。    ◆   ◆   ◆  寮からまっすぐ伸びる道を行くと、しばらくして車のクラクションが鳴らされた。クリーム色をしたボックスカーが、道の端に停められている。俺は助手席側にまわって、車に乗り込んだ。 「どうも」 「早かったんじゃないの?」 「そんなもんだろ」  もう少し時間がかかると思っていたのか、律は「そう?」と首をかしげた。自分だって、退寮はあっさりしたものだったろうに。 「じゃあ、行きますか?」 「うん」  律はそう言うと、車道に出た。  通勤は徒歩圏内ではあるものの、買い物やレジャーには車が必要で、今は車を所有している。どこから持ってきたのかと思ったら、実家に置いてあったらしい。これまでは妹が使っていたそうだ。年式は多少古いが、まだまだ走る。 「俺も車買おうかな」 「良いんじゃない? アパートに置けるし」  ハンドルを握りながら、律が頷く。今までは寮だったから不要だったものが、必要になってくる。食料品に日用品、生活雑貨。大抵は律と一緒だろうが、来客時はそうもいかないし、俺の車は遠出用にしても良い。また旅行に行きたいし。 「なんか荷物増えてない? まだそんなにあった?」 「蓮田たちから餞別だって。あと、荷物丁度届いてて」 「荷物?」 「帰ったら」 「うん?」  律は解っていないようだったが、運転に集中しているのか、それ以上は聞かなかった。 「そう言えば、お兄さんのマンガ、来週からだって?」 「ああ。月二回更新だって言ってた」  兄貴のマンガも、正式に連載が決定した。忙しくなったようだが、引っ越し祝いに一度遊びに来ると言っていた。やっと、律を紹介できそうだ。 「うちの家族も、そのうち紹介するから」 「うわ、緊張する。それ」  にまりと笑う律に、胃の辺りを擦る。律のほうはそれとなく匂わせているらしいが、本当だろうか。いずれにしても、その時は来るのだ。今からしっかりしておかなければ。  マンションに到着すると、不思議な感覚がした。今日から、ここで暮らすのだ。二人で。今日からこの家は、誰かの家じゃなくて自分の家で。その家に、律も居る。 「すごい、変な感じ」 「だよな。おれも、最初にここに住み始めた時は、スゲー変な感じした」  でも。そう言って、律が俺の肩に腕を伸ばす。 「今日から、一人で広いベッドに寝ないで済むな」 「なんだよ。寂しかったの?」 「そりゃそう」  顔を擦り寄せる律に、唇を合わせる。ここでのキスは初めてじゃないのに、新鮮な気分がした。甘えるように啄むキスを繰り返す律の腰を撫で、ちゅ、ちゅくと舌を弄ぶ。 「ん、ぁ……」 「律……」  今日から毎日、律と過ごせるなんて、夢みたいだ。こんな日が来るなんて、想像もしていなかった。今日も明日も、明後日も、その先も。ずっと、ずっと、律が居る。  唇を離し、フッと律が笑う。 「これからは、誰かが急に来る心配、ないな……」  熱を帯びた瞳をして、律が俺を見つめる。俺も答えるように頬を撫でた。まだ日は高いが、二人とも気分が乗ってしまった。 「ベッドの使い心地、確かめる? それとも――テーブルの強度、確かめようか」  言いながら、ダイニングテーブルに律を押し付ける。律が小さく声を漏らす。 「ん、ぁ……ここでしたら、思い出しちゃわない?」  クスクス笑いながら背に腕を回す律の、首筋に吸い付く。寮にいたころとは、違う匂いがする。もっと甘くて、いつまでも嗅いでいたい匂いだ。 「じゃあ、全部の部屋でしないと」 「んっ……、ばか……」  キスをしながらカットソーを胸までたくし上げ、ジーンズに手をかける。すっかり下を脱がせて靴下だけの姿にしてしまう。その姿を、じっくりと見下ろす俺に、律が恥ずかしそうに顔を赤くする。 「おい、またお前、変なコト考えてるんだろ」 「いやまあ、律の靴下姿は最高だからさ」  しかも俺が好きなの解ってるからか、可愛い靴下ばっかり穿いてるし。今日の靴下は黄色い靴下で、つま先だけが白い色をしていた。ワンポイントにレモンの刺繍がついている。  左足の靴下を脱がせて、踝にキスをする。律の身体がピクンと跳ねた。 「律」  俺は足元に置いていたスポーツバッグから、箱を取り出した。律が目を瞬かせる。箱から銀色の鎖を取り出し、律の左足首にそれを着ける。 「あ……」  それがなんなのか解って、律が惚けた顔をした。ドクドクと、心臓が鳴る。つま先にキスをして、律を見た。律は、真っ赤だった。 「ずっと、一緒に居てください」 「――っ……、はいっ…」  プロポーズみたいなやり取りに、律が眦に涙を浮かべた。  プロポーズみたいな――…いや、プロポーズだ。俺にとって、俺たちにとって、多分、これはプロポーズだった。  律に箱を手渡し、俺も足首を差し出す。律は震える手で、ゆっくりと俺の足首に鎖を巻き付けた。銀色のお揃いのアンクレットが、リビングに挿し込む光に照らされて鈍く輝いた。 「律、好きだよ。律を好きになって良かった」 「おれもっ……、航平が、好き……」  額を擦り合わせ、指を絡める。誓いのキスみたいに触れるだけのキスをして、見つめ合って笑い合う。 「これから、よろしく」  二人の声が、重なりあった。  ◆   ◆   ◆ 「うわー、美味しそうじゃん」  テーブルに並ぶ食事に、律が感嘆の声をあげる。少し大袈裟な気もしたが、悪い気はしない。俺も気合いは入れたつもりだし。  今日の晩飯は、俺が担当だ。律と生活するに当たって、家事は当番制にした。二人とも寮生活のお陰で、初めてばっかりだけど、手探りでやるのは悪くない。  テーブルに並ぶのは山盛りの唐揚げだ。揚げ物にチャレンジはハードルが高い気もしたが、それを言うなら何をやってもハードルは高い。ボリュームがあって、手順がシンプルなほうが良いだろうという、選択である。他にはサラダと味噌汁。味噌汁は律が作ってくれた。当番制といっても、互いに手伝える時は手伝う感じ、良いと思う。 「ちょっと揚げすぎたかも」 「生より良いって」  笑いながら、律が箸をのばす。俺は添えてあったレモンを指差した。 「? かけないの?」 「最初の一口は何もかけずに行きたいじゃん?」 「――」  思いがけない返事に、目を丸くする。思わず口端に笑みを浮かべ、俺も箸を伸ばした。 「硬てえ」 「ぶはは。やっぱ揚げすぎか」  揚げすぎてカチカチだ。食えなくはないけど。律は笑いながら、レモンをかけている。 「でも、美味しいよ」 「精進します……」  またリベンジしないと。蓮田にコツでも聞いてみようか。見るとやるでは大違いだ。作るのは大変だけど、片付けも大変だし。生活するのって、大変だ。  そう想いながら、ビールを啜る。向かいでは律が、こんなガリガリの唐揚げを、美味しそうに頬張っている。その姿を見るだけで、幸せで、優しい気持ちが湧いてきた。 「ん? どうかした?」 「んー。これが、幸せってことかと、噛み締めてた」 「なにそれ」  律照れたらしく、頬を染めて笑い出す。つられるように、俺も笑った。  リビングにはいつまでも、明るい笑い声が響いていた。 完

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