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1-1-エンカウント

 上りきった丘の上で「ノスフェラトゥ」は宵闇に光り瞬く夜景を見下ろしていた。  ゴシック調の外観が印象的な洋館。かつてリゾートホテルであったのを大々的にリフォームした、宿泊できるVIPルームも備えた巨大なナイトクラブ。  辺鄙な場所にありながらも収容人数、スケール、音響設備など他を抜きん出ており、不定期で開催される異例のイベント「カーニバル・デイ」が不動の人気を定着させていた。  正面には鮮やかなネオンカラーでライトアップされた屋外プールがある。矢鱈と大きな浮き輪を利用して泳いでいたり、大音量の音楽が流れるプールサイドで酒を飲み交わしていたりと、多くの若い男女で賑わっていた。  甫伊吹生(うらいぶき)は、仰々しいアーチ付きの門扉を潜り、初めて訪れる「ノスフェラトゥ」と対峙した。 (まだ八時、目玉イベントを始めるには早過ぎる)  金曜日の夜だった。  履き慣らした黒の革靴で石畳の上を進もうとした伊吹生は、はたと足を止める。  視線を感じた。  頭上を仰ぎ、二階のバルコニーに目を留める。騒々しい音楽に合わせて踊るグループ、密着する恋人同士、露骨にはしゃぐ「吸血種」の中に彼はいた。  欄干に腕を乗せて両手を組んでいる。暗闇に溶け落ちそうな黒ずくめのコーディネートに深黒(しんこく)の髪。顔はわからない。  ただ見られているのは嫌でもわかった。 「甫先生?」  プールサイドで背後から名を呼ばれ、伊吹生はハッとした――。  この世界には「吸血種」と「普通種」が存在している。 「吸血種」は他者の血を飲んで効率的に豊潤なエネルギーを得ることができる。 「普通種」と比べて「吸血種」の人口比率は低く、しかしながら多方面において優れた才能を生まれ持つ彼等は社会階層の上位に自然と据えられる。向上心が強い者は指導者として「普通種」を魅了し、確たる足取りで追随者を先導し、経済と文明の発展を率先して担ってきた。  理想的なリーダーもいれば驕り高ぶる君主もいる。生まれながらに非凡で特別な自分達には一生劣ると「普通種」を下僕扱いする圧制者だ。  悪しき存在もいる。  吸血本能、血への渇望に逆らえずに理性を手放して「普通種」を襲ってしまう者。  彼等は「吸血鬼」と呼ばれ、捕食対象となる人々から恐れられていた。 「甫センセェのおかげで人生を立て直すことができました」  華々しい成功を収めるパターンとは対象的に、至って慎ましく地道に暮らす「吸血種」もいる。 「最初は吸血種の司法書士さんっていうから、ちょっとビビッたんです」  市街地の裏通りに建つ五階建てのテナントビル。エレベーターはない。三階まで階段を上ってすぐの突き当たりに、その個人事務所はあった。 「でもセンセェに頼んでマジよかったです」  適度な広さのフロアはパーテーションで仕切られていた。片側は雑然とした執務スペース。もう片側の応接スペースの中央には、木目調の天板にスチール脚のミーティングテーブルが置かれている。 「愛想はないけど、取り繕ってる感じがしなくて、逆に好感度高めというか」 「それはどうも」  この「甫伊吹生司法書士事務所」を伊吹生は一人で切り盛りしていた。  白目と黒目のコントラストがはっきりしたシャープな瞳は、確かに愛想のない乾いた眼差しを紡いでいる。  整髪料と手櫛でざっと撫でつけられた黒髪。日焼けに疎い色白の皮膚は、三十路寸前という年齢にしては肌艶に富んでいて若々しい。  しなやかに引き締まった体つきで、身長は百七十八センチ。白いワイシャツは腕捲りしている。第一ボタンは外され、ダークカラーの無地のネクタイは緩みがちだった。  書類を受け取った依頼人が事務所を去ると、伊吹生はフロアの明かりを消した。四脚ある回転イスの位置を正し、窓辺に立つ。ブラインドに覆われた窓ガラスの向こうには七月の宵闇が迫っていた。  予期せぬタイミングで人ならざるものに遭遇しそうな夏が、伊吹生は嫌いだった。

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