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担々麺とエビチャーハンをかっ込む傍ら、伊吹生は向かい側に座る凌貴への警戒を片時も怠らなかった。
(何が目的なんだ?)
事務所の住所はネットで簡単にわかる。拓斗が「マツモリ食堂」の息子で、店の位置まで把握していたのは「ノスフェラトゥ」のスタッフにでも聞いたのか。
「今日、こちらに伺ったのは相談があったからなんです。最近、どうもストーカーにつけ回されているみたいで」
(白々しい奴。どうせ嘘に決まってる)
「警察に相談しろ」
素っ気ないアドバイスに凌貴はわざとらしく肩を竦めてみせる。赤銅色ではない、余裕に満ちた彼の目にムシャクシャする余り、伊吹生はあっという間に昼食を食べ終えた。
「血の一滴で賄えるのに。多忙の身なら尚更、食事に時間を割くのは惜しいでしょう」
「俺はコッチの方が性に合ってるんだ」
「確かに見ていて引き込まれる食べっぷりではありました。伊吹生さんはお酒も飲まれますか? ワインは不慣れなようでしたが」
「伊吹生さんとかやめろ、馴れ馴れしい」
いつもなら食器を洗いに奥の給湯室へ向かう。ほんの数秒でも凌貴から目を離すのは賢明でないと判断し、伊吹生は席を立たずにいた。
「拓斗。もう戻ったらどうだ」
凌貴を追い払うのは諦め、拓斗を遠ざけることにした。
彼の隣に座った拓斗は、賄いの五目焼きそばを食べるペースが極端に遅く、初対面となる「吸血種」に完全に萎縮しているようだった。
「まだ食べ終わっていないのに。可哀想に」
そこはかとない嗜虐性が滲む、威圧的ですらある美貌に畏怖の念を抱かれるのは日常茶飯事なのか。凌貴は気にする素振りもなく、始終にこやかな物腰でいた。
「お前は口を挟むな。店の手伝いもあるし、夏休みの宿題も溜まってるだろ。残りは戻ってから食べたらいい」
「まるで保護者ですね。ノスフェラトゥまで迎えにくるくらいですから、余程大切にしている普通種なのでしょうね」
それまで黙り込んでいた拓斗は、恐る恐る隣の凌貴を、向かい側の伊吹生を交互に見やった。
「この人、吸血種だよね? 俺が生き餌バイトに手を出しかけたこと、知ってるの?」
伊吹生が答える前に「知っていますよ」と、またしても凌貴は速やかに先制した。
「拓斗君は伊吹生さんにとても大事にされていますね」
「えっと……」
「伊吹生さんは君のために僕と取引したんです」
「拓斗、聞かなくていい、早く帰るんだ――」
「君を生き餌バイトから外してもらう代わりに、長い間我慢していた血を喰らった。反応ですぐにわかりました。面白いくらい、効いていましたからね」
拓斗は目を見張らせた。
今まで飲血に関して伊吹生に尋ねてきたことはなかった。ずっと断 っていたことも、あの夜に血を飲んだということも初めて知って、動揺を隠せないようだった。
「どうして我慢していたか、わかりますか?」
伊吹生は立ち上がった。拓斗の前だというのも忘れ、殺気立った目で凌貴を見下ろす。
テーブルの上で両手を組んだ彼は、目許にかかる前髪越しに伊吹生を見つめ返した。
「昔々、誰よりも大切だった人を襲い、その血を飲んでしまった。こんな夏の日に」
『……どうして、伊吹生……』
鮮やかな血の味がする唇。
外では蝉が鳴いていた。
興奮で加速する鼓動が体中に鳴り響く中、彼女の声をかろうじて耳にした伊吹生の意識は、深い暗闇の底に沈んでいく――。
「それ以来、自分を責めて血を我慢していたんでしょう。でも、拓斗君を助けるために伊吹生さんは飲血に至りました」
ひどく優しげな声色で凌貴は話す。隣で硬直していた拓斗は、首の据わらない赤ん坊のように頭を傾げ、伊吹生に問いかけてきた。
「俺のせい?」
「そうですよ」
凌貴が即答する。
テーブルを迂回した伊吹生は、招かれざる客人の隣に立ち、断言した。
「拓斗のせいじゃない。俺が血を飲んだのは、乾杯を命じてきたコイツのせいだ」
「でも……俺がノスフェラトゥに行かなかったら」
「拓斗。今日はもう帰ってくれるか。頼む」
伊吹生に再三帰るように言われ、拓斗はやっと席を立つ。たどたどしい手つきで食器をオカモチに仕舞い、事務所を出ていこうとした。
「また今度、拓斗君」
凌貴に声をかけられると、背中をビクリと痙攣させ、振り返らずに早足で退出していった。
「俺の身辺調査をしたければ勝手にやれ」
込み上げてくる怒りを抑え、押し殺した声で伊吹生は呟く。
「でも過去を掘り起こすな。拓斗を巻き込むな」
「隣に来たとき、殴られるかと思いました」
これ以上、構っていられない。伊吹生は平気で居座る客人から離れようとした。
「菖さんは、なかなか綺麗な方ですね」
彼女の名前を口にした凌貴に、すかさず言い放つ。
「本当に殴られたいのか」
「貴方になら喜んで両方の頬を差し出しますよ」
立ち上がった凌貴がまた無駄に距離を詰めてくる。後方への退路はパーテーションに阻まれ、伊吹生は挟まれる格好になった。
「拓斗君といい、菖さんといい、心配性の伊吹生さんは普通種たらし、とでも呼ぶのでしょうか」
「いい加減、俺の前から消えてくれないか」
「十年前の、こんな夏の日」
「……」
「菖さんはマンションの隣室まで聞こえる声で、やめてと叫んでいたそうですね。嫌がる彼女の血を無理やり奪った罪悪感から、あの夜までずっと血を断っていたんでしょう? 随分と思い入れのある女性なんですね?」
伊吹生は真正面から凌貴を睨みつけた。
「菖は姉だ。それ以外でも何でもない」
「姉と言っても、母親の再婚相手の連れ子で、普通種。血の繋がりはありませんね」
少しだけ間隔を空けると、凌貴は、緩んでいた伊吹生のネクタイをきちんと締め直した。
「先月のあの夜、クラブのスタッフに暴力を振るったでしょう。その件で話をつけたのも僕ですから。一応、伝えておきますね」
視界に尾を引く嗜虐的な微笑を残して凌貴は去っていった。
「暴力を振るわれたのは俺の方だ」
たちが悪い同種と関わってしまった。伊吹生は締め直されたばかりのネクタイを歯痒そうに緩めるのだった。
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