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 伊吹生の両親は「吸血種」で共に弁護士をしていた。  伊吹生が小学校低学年の頃に離婚し、一緒に暮らしていた母親は一人息子が高校生になると「普通種」の男と再婚した。彼には高校三年生になる娘がいた。それが(あやめ)だった。  新しい父親は洋食レストランを経営する自営業者で、多忙な母親と同じく家にいることが少なく、下校すれば大抵、伊吹生は自宅マンションで菖と二人きりになった。 『伊吹生って食べ物でアレルギーとかある?』  父親の店の手伝いをしていた菖の手料理は、どれも美味しかった。伊吹生の母親は店の常連で、お互い、再婚前から顔見知りだったという。  菖は突然できた二つ違いの「吸血種」の弟を自然に迎え入れてくれた。  彼女が大学進学のため家を出、二年後には伊吹生もまた地元を離れて私大の法律学科へ進んだ。  その年の夏だった。  八月の夏休み、実家へ帰省しようとしていた伊吹生は、地元に到着した矢先に事故現場に出くわした。まだ警察や消防が駆けつける前で、車の下敷きになった被害者を通行人が懸命に励ましていた。  アスファルトには血溜まりが広がりつつあった。  伊吹生は直ちにその場を離れた。片手で口と鼻を覆い、無心になって帰路を急いだ。春振りに再会する街が牙を剥いて襲いかかってくる錯覚に心拍数が跳ね上がっていた。  実際、牙を剥いたのは伊吹生自身だった。  血を望む本能に意識を乗っ取られ、一足先に帰省していた菖を玄関でがむしゃらに抱き寄せ、彼女の首筋に乱杭歯を。  二人きりの自宅、サイレンが近づいてくる八月の昼下がり、人ならざるものにも等しい吸血鬼へ……。 「……先生が受任通知を出したら、督促がやむんでしょうか?」 「……」 「あの、先生?」  伊吹生はハッとした。  打ち合わせ中、回想の波に意識を攫われていた司法書士は、真正面で怪訝そうにしている相談者に焦点を合わせた。 「本日中に受任通知を発送するので、各社の受け取りで多少のズレは生じますが……」  新規の委任契約を交わし、依頼人が帰った後、債務整理の手続きを始める。  電話が鳴れば中断し、消費者金融からの和解金交渉の場合はファックスで送るよう伝え、裁判所から民事訴訟の期日の連絡が入れば、スケジュールを確認して返答する。  慌ただしい数時間が過ぎて一息ついたのは夕方だった。  ビルの斜向かいにあるコインパーキング前の自販機で缶コーヒーを買い、気分転換もそこそこに事務所へ戻る。ストレッチ代わりに背伸びをすれば、あちこちの関節が鳴った。 (調査だけに留めているんだろうか、アイツは)  十九歳の夏、それ以降、実家からは足が遠退いていた。冠婚葬祭に顔を出す程度で長居はせず、菖のみならず両親に対しても余所余所しい態度をとっていた。  姉にちょっかいを出さないか。今の生活を脅かしはしないか。出会ったその日から要注意人物扱いとなった凌貴が、何かしらの問題を起こしそうで気がかりだった。 (心配性で悪かったな)  やり場のない焦燥を持て余す伊吹生は、缶コーヒーを一気に呑み干した。

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