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4-1-過去

 市街地に立地している九鳥居大学は別の場所に小学部・中学部・高等部を擁する私立学校だった。  コンパクトで真新しい都市型キャンパス。多彩な設備に近代的な建築デザインが目を引く。夏期休暇でも学生が行き交い、舗装されたプロムナードを囲む講義棟や研究棟も人の出入りが程々にあった。  華やぐ空間の中心で伊吹生はぐるりと周囲を見回した。 (自分からアイツに会いにきたのは不本意だが)  今日は土曜日だった。事務所は土日祝日、基本休みにしている。  先日の凌貴の言動がどうにも気にかかって、居ても立ってもいられず、伊吹生は彼が通う大学までやってきた。  夏期休暇に実施される集中講義が土曜日まである。凌貴の何気ない言葉を鵜呑みにして来てはみたが、こうも人出があるとは。見つけ出すのは一苦労だろう。 (二度と菖に関わるな。そう釘を刺しておかなければ)  守衛に呼び止められた際、司法書士の会員証を見せて「大学の図書館を利用しにきました」と、伊吹生はしれっと本来の目的を誤魔化していた。 (それにしても、噂では聞いていたが)  九鳥居学園は高額な学費から富裕層の家庭が多く、生まれながらにして才能に恵まれた「吸血種」の割合が圧倒的に高いと言われている。確かに伊吹生の視界に入る大学生の殆どが同種で「普通種」はちらほらいる程度だった。 「お兄さん、外部の講師とかですか?」  プロムナードに設けられたベンチに座っていたら、学生の一人に声をかけられた。積極的な相手にしばしば話しかけられる傾向にある伊吹生は、特に動揺もせずに対応する。 「いいや、違う。図書館に来ただけだ……」 (聞いてみるか、凌貴のこと) 「忽那ホテル&リゾート」についてはネットでざっと調べた。「ノスフェラトゥ」では拓斗の安否が気になって聞き流していたが、名前だけは伊吹生も知っている大手のホテルグループだった。  格式高い高級志向に重きをおき、リゾート地や主要都市にブランド展開し、東南アジアに海外進出もしている。実業家だった凌貴の祖父が創業者であり、現在は父親が総支配人に就任していた。 (海外進出のニュースなら数ヶ月前に俺も見た)  凌貴自身についてはSNSもヒットせず、結局のところ、何もわからずじまいだった。 「聞きたいことがあるんだが……」  伊吹生は自分に関心を示している女子学生に、凌貴について尋ねようとした。  不意に周囲の空気がざわりと波打った。  それまでの賑やかさがボリュームを落とし、開放的だった雰囲気が些細な緊張感を孕んだものになった。 「忽那凌貴だ」  近くのベンチに座る学生の言葉を伊吹生は聞き逃さなかった。  今一度、周りを見渡せば彼がいた。  相も変わらず黒服を纏った凌貴はプロムナードを闊歩していた。両脇には数人の男女が付き従うように集まっている。  居合せた「吸血種」は、見目麗しいグループの中でも一際目立つ凌貴を口々に褒め称えた。 「普通種」は顔を伏せ、深黒の風が通り過ぎていくのを頑なに待っているかのようだった。 「あの話、本当かな、ずっと前に学校で普通種を襲ったって」  伊吹生は振り返る。オレンジ髪の学生が、そばにいた連れに必死の形相で「しー!」と注意されているところだった。 「――伊吹生さん」  駆け足になるでもなく、落ち着き払った足取りは崩さずに、凌貴は伊吹生の元へやってきた。 「僕に会いにきてくれたんですか?」  彼に声をかけられると、伊吹生の近くにいた女子学生は罰が悪そうに足早に離れていった。同じ「吸血種」であった彼女をチラリと見、凌貴は微苦笑する。 「ナンパされていたんですか」 「お前が来なきゃ、されたかもな」  レザーバッグを片手に持ち、薄手のブルゾンを羽織った凌貴は、背後にいた同種の男女に「ランチに行っておいで。僕はこの人と話があるから」と穏やかに命じた。 「仕事をさぼって大学まで来たんですか?」  取り巻きと思しき男女を追い払い、隣に腰かけ、顔を覗き込んできた凌貴から伊吹生は視線を外す。 「今日は休みだ」 「休みの日なのに、その格好ですか」 「これは仕事着兼普段着だ」  白いワイシャツを腕捲りし、ネクタイを緩めた、オンの日と代わり映えしない格好に凌貴は愉しげに笑う。 「まさか眠るときは違うでしょう? ひょっとして裸ですか?」 「セクハラで訴えるぞ」  普通の大学生みたいに笑う彼に伊吹生はまごついた。それにしても、周りの視線が鬱陶しい。これでは本題に入りづらい……。 「なぁ、どこか静かな場所はないか。晒し者にされている気分だ」 「僕と二人きりになりたいんですか?」 「いや、やっぱり、ここでいい。お前と会うのは今日で最後だから、よく聞いてくれ。俺の家族には金輪際関わるな。母と父、姉の今の生活を邪魔するな。もし邪魔したら――」  伊吹生は言葉を切った。  唐突に凌貴にキスされて台詞が飛んだ。  しかも唇だった。 「邪魔したら何ですか?」  顔を離した凌貴に淡々と問われる。周囲の動揺が嫌でも伝わってきて、伊吹生は俯いた。 「勘弁してくれ」 「僕の講義が終わるまで待っていてくださいね」 「お前な」 「終わったら一緒に夕食に行きましょう」 「人をおちょくるのも大概にしろ」 「一緒に食事をしてくれるのなら、伊吹生さんの家族には二度と関わりません」  伊吹生は顔を上げた。気に喰わない青年の申し出を受けて立つか、別の道を模索するか、迷った。 「五時過ぎには終わりますから。ここで待っていてください」  また凌貴に先手を取られた。一方的に食事の約束を取り付けた彼は、返事も待たないで伊吹生の視界から颯爽と消えていった。 (何が悲しくて公衆の面前で)  一人残された伊吹生は、一瞬のキスシーンを目撃した学生達があることないことを言い合っているのを耳にして、溜息を押し殺す。 (いや、待て、さっきの話は何だ?)  凌貴が「普通種」を襲ったと話していた学生の姿はすでになかった。心臓が粟立つ不快な感覚に、つい、伊吹生は溜息をついた。

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