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6-2
膝頭で尻たぶの狭間をなぞられる。洗剤で両手を泡塗れにした伊吹生は怯んだものの、気取られないよう、ジロリと背後を睨めあげた。
「僕は若気の至りで普通種を襲ったことがあります」
突然の告白に伊吹生は思わず硬直する。
「伊吹生さんが大学に来てくれたとき、鼻にピアスをしたオレンジ髪の学生が話していたでしょう?」
伊吹生の平らな腹に凌貴はするりと両手を回した。
「小学六年生の頃です」
「お前、それは……」
「相手は一つ年上、中学部から入ってきた外部生でした。図書委員で、図書館にいるのを定期的に見かけていましたが、ある日、吸血種にいじめられているところに出くわしたんです」
一般的な食事では、どれだけ食べても満たされない腹を撫でていた手が、ワイシャツに深い皺を刻んで胸元へと上っていく。
「頭から花瓶の水をかけられた彼女を見、僕はその場で同種に注意しました」
「……」
「僕のことだから普通種いじめに加わると思った?」
「……ああ」
「昔の僕はね。か弱い普通種を憐れんで、丁寧に優しく扱っていたんです。今の貴方がするみたいに」
凌貴の五指が意味深に蠢く。服越しに官能的に胸板を揉み立てられ、伊吹生は泡だらけの手でシンクの縁を掴んだ。
「彼女の名前は高岡今日花 。学園で数少ない普通種の中でも成績優秀で、歩く度に靡く髪、何気ない所作が綺麗な子でした。僕はずっと彼女と話がしてみたかった。彼女が当番の日に図書館に入り浸っては、返却された本を棚に戻す華奢な後ろ姿を眺めていました」
肘鉄で突っ返そうとしても、凌貴は頑として離れない。伊吹生を愛撫しながら話を続けた。
「普通種いじめを止めた日を境にして、昼休みや放課後に話をするようになった。家族思いで、年の離れた妹の話をよくしてくれた。彼女といると世界が明るく色づいて見えるようでした」
伊吹生は胸元を這い回る真珠色の手を荒々しく引き剥がし、闇夜色の双眸に向かって問いかけた。
「それなら、どうして襲ったんだ」
「伊吹生さんなら尚更、わかるでしょう? 大切な大切な菖さんの血を奪おうとしたじゃないですか」
「お前は……奪ったのか?」
「奪いました」
「ッ……凌貴、お前は」
「最初は彼女も大人しく首筋を差し出してくれましたが、痛みと恐怖で耐えられなくなった。最終的には僕を拒んだ」
「当たり前だ、どれだけ怖かったか……」
凌貴は手の甲につけられたばかりの爪痕にわかりやすく相好を崩す。
迷わず「普通種」の肩を持った伊吹生の耳元に、すっと唇を寄せ、囁いた。
「僕の血だらけの口に彼女は怯え、僕のことを化け物呼ばわりした。彼女との関係はそこで儚く終わりを迎えた」
凌貴がやっと離れていく。
流し台を背にした伊吹生は、悠然と微笑む彼と向かい合った。
「僕は人ならざる吸血鬼で、普通種は餌に過ぎない。所詮、相容れない関係だと達観しました」
「……凌貴。彼女は生きているのか」
「そんな。いくら何でも致死量となるまでの血液は奪っていません。当時も貧血を起こした程度で、無事ですよ」
「それでもショックは相当大きかったはずだ」
「もちろん、そこは見舞金というかたちでしっかりと償いました。当時は父と兄にこっぴどく叱られたものです。ああ、言っておきますが、咬みついて血を得たのはその一度きりですから。もう特に突き動かされなくなったし、生き餌に興味もありません。物言わぬ安心安全な血液パックで十分です」
伊吹生は押し黙る。
「ノスフェラトゥ」で凌貴に突きつけられた言葉がまたしても脳裏に蘇った。
「所詮、ただの吸血種か」
凌貴は鼻先で笑った。リビングに接している土間に降り立つと「ビール、ごちそうさまでした」とご丁寧に礼を述べる。
玄関ドアの向こう側へ消える寸前、振り返った彼は、流し台の前で投げ遣りに見送っていた伊吹生に言い残していった。
「僕をつけ回すストーカー。勘のいい伊吹生さんなら、もう、正体がわかりましたよね?」
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