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10-逢瀬

 目覚めれば病室のベッドの上だった。 「甫司法書士、よかった、起きましたか」  伊吹生は何度も瞬きする。  そこは総合病院の個室だった。服は知らぬ間に患者衣に変わっていて、腕には点滴の跡があった。  凌貴が牙を立てた左腕には包帯が巻かれていた。 「弟を救ってくれて、どうもありがとうございます」  病室の中には凌貴の兄の時成と、他にも数名、伊吹生には見覚えのない「吸血種」がいた。 「そして、とんでもないことをしてくれましたね」  時成は細部まで完成された苦笑いを浮かべる。倦怠感と強い眠気があるものの、伊吹生は食い入るように彼を凝視した。 「凌貴は……無事なのか?」 「手術はもう終わりました。貴方の信じ難い応急処置のおかげで無事です。今はまだ眠っています」  喉の渇きを覚えて伊吹生が咳き込めば、時成はミネラルウォーターのペットボトルを差し出してきた。 「すまない」  一気に半分近く呑み干し、人心地つく前に、見知らぬ人物の一人にピシャリと物申されて伊吹生は現実に引き戻される羽目に。 「甫司法書士。そちらは忽那家に対して大変深刻で重大な問題を齎しました」  忽那家お抱えの顧問弁護士だった……。  慌ただしかった八月が過ぎ去り、九月も半ばに差し掛かっていた。 「示談金が一万円?」  伊吹生は聞き間違いかと思った。 「被害届も出さない。私を守るための行為で直接的な殺意があったわけじゃないから、あっちはお姉ちゃんの処罰を一切求めないって」  ミーティングテーブルについた心春から事の顛末を聞かされて、伊吹生は驚きを隠せずにいた。  八月下旬、今日花は現場に駆けつけた警察官に殺人未遂の疑いで現行犯逮捕された。  しかし、早期に示談をしたとして凌貴側から被害届は出されなかった。代わりに刑事処罰を望まない嘆願書が提出され、殺人未遂から傷害罪に切り替わり、不起訴処分となって釈放されていた。 「今日花さんは、今、どうしてる?」 「今は一時的に入院してる……精神科の開放病棟に」  今日花は猛省しているという。  伊吹生を刺そうとしたこと。庇った凌貴を刺してしまったこと。かつて彼を化け物と呼んだことまで……ひたすら悔やんでいるそうだ。 「君はどうしているんだ?」  警察の取り調べに対し、伊吹生は包み隠さず供述した。心春に関しても、犯行に及ぼうとして自ら凶器を手放したと見たままの事実を述べていた。 「私は……お母さんの手伝いをしたり、お父さんと色々話したり……」  実年齢よりも幼く見える高校一年生の心春は、放課後になって学校から事務所へ直行したため、制服を着ていた。ショートヘアで、頭を覆い隠すフードがない今、現実と精一杯対峙している瞳が曝け出されていた。 「甫先生の方は、どう……?」  昔から最大のタブーとされてきた「吸血種」同士の共食い。  同種に咬みつかれて、貧血症状が出た以外、伊吹生の身体に何ら異常は起こらなかった。  ただし厳重注意(イエローカード)を喰らった。  跡取り候補を危険な目に遭わせ、その上、緊急事態だったとはいえ「吸血種」の暗黙の掟まで破らせた。忽那サイドの大多数がおかんむりらしく、次に何かあったら接近禁止命令の誓約書にサインしてもらうと、彼等は弁護士を通して伊吹生を牽制してきた……。 (願ったり叶ったりだ) 「ごめんなさい」  何度目かもわからない謝罪の言葉を心春が口にし、伊吹生は首を横に振った。 「私もお姉ちゃんも、先生のこと、刺そうとした。先生は何も悪くないのに。私達、ちゃんと……償いたい」 「それなら家に帰って宿題とお母さんの手伝い、お父さんと話をしてくれ」 「そんなの……」 「今、きっと一番大切なことだ」  心春は桜色の唇をきゅっと結んだ。席を立ち、イスの位置を正すと、事務所の出入り口まで付き添った伊吹生の顔を見ずに呟いた。 「やっぱり、恋人同士みたいだった、先生と凌貴」  伊吹生が念入りな訂正を入れる前に、心春は事務所を去っていった。 「――マツモリ食堂でーす!」  心春と入れ替わるようにして、いつにもましてテンションの高い拓斗が出前を運んできた。 「甫先生、さっきのコ、ここのお客さん? めちゃくちゃ可愛かったね!」  拓斗は知らない。高岡心春が「ノスフェラトゥ」でほんの一時だけ自分と共にいたことを。 「そういえばさ、忽那さん弟、もう退院したんだってね」  早めの夕食となる出前の代金を支払おうとしていた伊吹生は、ピタリと手を止めた。 「拓斗、それは……兄の方から聞いたのか?」 「うん。ウチの店に来たんだ、あの人。大食い選手かっていうくらい食べてったよ」 「へぇ……」 (それにしても示談金が一万か)  安過ぎる。何か裏でもあるのか。それとも、凌貴が今日花に犯した過去の一件を踏まえた上での温情か……。 (いや、俺にはもう関係のない話だ)  夏は終わった。  人ならざるものに遭遇する危険は、もう、ない。

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