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 驚いている心春の様子からして、妹の後をこっそりついてきていたらしい姉の今日花は、ナイフの柄を握る。 「私の妹を傷つけないでください」  思わぬ不覚だった。  いざというとき、華奢な少女の力なら受け流せる。伊吹生はそう考えていた。だが、妹を守ろうとする姉の力は想定外で、未知数であった。  放り投げられた花柄の傘。  両手でナイフを握り締め、迷いなく向かってくる今日花の真っ直ぐな瞳を、伊吹生はただ見ていることしかできなかった。  次の瞬間、無慈悲な刃先が肌身にめり込んだ。  無惨に皮膚を裂き、容赦なく穿つ。  冷ややかに残酷に血肉を虐げた。 「く……」  伊吹生は呆然としていた。  突如として自分の前に躍り出、正面からその身にナイフを受け止めて崩れ落ちていった凌貴に、言葉を失った。  後ろで心春が小さな悲鳴を上げ、我に返る。  荷物を放り出し、アスファルトに横たわる凌貴の傍らに跪いた。 「……お姉ちゃん……」  震える声で心春に呼ばれた今日花は、血塗れのナイフを取り落とした。妹をそばにして得られた安心感から、もしくは、かつての想い人を刺した行為に恐れ戦いたのか。彼女はその場で虚脱した。 「心春、救急車を」  真珠色だった凌貴の頬が見る間に蝋色と化していく。  刺された腹の辺りの黒シャツが、雨ではない、彼自身の出血で色濃く濡れ出していた。 「今、携帯、持ってない」  意識を失った今日花にしがみつく心春に、自分のバッグの中にある携帯で救急車を呼ぶよう頼み、伊吹生は凌貴の頭を慎重に起こした。 「まさかこんな、ベッドで寝てたはずなのに、お姉ちゃんが、まさか凌貴を刺すなんて――」 「心春」  気が動転していた心春は、伊吹生の力強い呼びかけに俄かに瞠目した。 「1、1、9だ。繋がったら俺が説明するから、携帯をこっちに近づけてくれるか」  心春は放られていたバッグから急いで携帯を取り出す。ショックを隠せない様子ながらも「私が話す、ここの住所もわかる」と言い、伊吹生は彼女に通報を任せることにした。 「凌貴、聞こえるか。俺がわかるか?」  路上に落ちたナイフ。  べったりと付着する血が雨に洗い流されていく。 「……本当、生粋の普通種たらし、ですね……」  瞼を閉ざしていた凌貴はうっすらと目を開ける。  初めて見せる苦悶の表情で伊吹生を力なく仰いだ。 「いえ、単なる女たらし、ですかね……」  伊吹生は心の底から苦笑した。仰臥する凌貴に添い寝するように密着し、頭の下に片腕を差し込んで楽な姿勢にさせる。 「何か傷口を押さえるものがあればいいんだが」 「これは、なかなか深いですから、どうでしょう」 「どうって、お前」 (お前なら、未然に回避できたんじゃないのか?)  アスファルトに流れ出した凌貴の血。  降り頻る雨に血臭は薄れ、十年前のように伊吹生の吸血本能が顕著に刺激されることはなかった……。 「あの、これ」  心春がマウンテンパーカーを差し出してきた。受け取った服で傷口を圧迫し、止血を試みれば、どこか劣情を煽るように凌貴は身悶えた。 「もうすぐ救急車が来る、それまで……」  胸に頬擦りしてきた彼に、伊吹生は、言葉を切った。 「あの脅しは、殊の外、効いたんです。貴方に嫌われたくなかった。だから、攻撃じゃなく、守りに回りました」  腹部に押し当てたパーカーにみるみる鮮血が滲んでいく。 (俺が凌貴をこんな目に遭わせたのか)  凌貴は再び目を閉じた。そのまま永遠の眠りについてしまうのではないかと、伊吹生は焦った。 「嫌われるようなことばかりしてきたくせに、今更、そんな殊勝になられても困る」 「……」 「凌貴、眠るな。俺の声を聞くんだ、返事をしろ」  騒々しい雨音で掻き消されているのか、喧嘩だと思われているのか。周囲の住人が外の様子を見にくることはなかった。 「言ったでしょう、他の誰かが伊吹生さんに痕を残すのは許さないって」  アスファルトの上で伊吹生の腕枕に身を委ねた凌貴は、目を閉じたまま呟いた。  サイレンはまだ聞こえてこない。  深い傷口から無情にも少しずつ命が失われていく。 「なぁ、凌貴」  伊吹生は決断を下す。  ワイシャツを腕捲りした片腕を凌貴の口元へ運び、顔に顔を寄せ、笑いかけた。 「俺の血を飲め」  共食いはご法度。  守るべき掟。 「吸血種」に根強くすり込まれている最大のタブーであった。 「応急処置として特別に許す、だから……お前の痕を俺に残せ」  凌貴は……目を開けた。  深く息をつき、満遍なく濡れた長い睫毛を痙攣させて、呼吸が途切れがちだった口を開く。  「ッ……く……」  力任せに乱杭歯を突き立てられて伊吹生は呻吟した。  猛烈な痛みが骨身をも蝕む。  雨曝しの視界がぐにゃりと歪んだ。  ただ、今にも安らかな眠りにつきそうだった凌貴が、腕にしがみつき、血を啜るのに夢中になっている姿は、何よりも鮮明に見えた。 「はぁ……ッ」  時に洩れる獣めいた唸り声。赤銅色と化した双眸が不敵に煌めく。鋭い乱杭歯を血肉に深々と埋め、刺された痛みも忘れ、捕食の悦びに恍惚となっているようだった。 「凌、貴……ッ」  本能に忠実な美しい獣に囚われて、一瞬、突き放したい衝動に駆られた。  だが、伊吹生は耐えた。  新鮮な血の一滴さえあれば十分なエネルギーが摂取できる。  最大のタブーを破ってでも、瀕死の彼を助けなければと思った。 (その前に俺が事切れそうだ)  マンションの裏手にまで漸く届いたサイレンの響き。  無心になって我が血を喰らう凌貴を抱くようにして、伊吹生は、気を失った。

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