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9-1-禁忌

 今にも雨が降り出しそうな曇天の夜だった。 「ヒダカさん、委任状の名前なんですが、住民票の通りに書いていただけますか。ヒダカさんのダカは、はしごだか、ですよね。そちらを書いてほしいんです」  厳しい残暑がしぶとく続く八月下旬。  一ヶ所だけ蛍光灯をつけた薄明るい事務所で、伊吹生は事務処理に励んでいた。途中、食事に出、また戻ってデスクワークに集中し、時刻は午後九時になろうとしていた。  タイミングのいいところで切り上げ、ブラインド越しに外を覗いてみれば、雨が降り出していた。事務所の傘立てからビニール傘を一本取り出し、家路につく。まだ明かりが点いている「マツモリ食堂」の前を通過し、人気が疎らな裏通りを進んだ。  車一台が通れるマンション裏の薄暗い道で、少女は伊吹生の帰りを待っていた。 「心春」  傘を差さずにフードを被る、雨に濡れた心春と伊吹生は向かい合う。  少女の片手には小型ナイフが握られていた。  ポケットからとうとう出されてしまった凶器を見、傘を携えた伊吹生はゆっくりと瞬きする。 「アイツに復讐したい」  人通りの少ない場所を狙い、事務所ではなく自宅周辺を選んだと思われる心春は、胸の前でナイフを構えた。 「あの吸血鬼から大切な人を奪ってやる」  びしょ濡れになった肩が大きく上下している。パーカーはか細い肢体に張りついて、重たそうだった。 「君と話がしたかった」  こちらは凶器を持っているのに、一体、何を言い出すのか。心春は面食らった顔で伊吹生を凝視してきた。 「姉の今日花さんや、お母さんとお父さん、君自身のこと。色々、聞いてみたかった」 「アンタに話すことなんか何もない」 「それから殺されるのは御免だ」 「ッ……全部、アイツのせいだから。凌貴がお姉ちゃんにひどいことしたから」  伊吹生は少女にさらに近づいた。 「人殺しと吸血鬼、何が違う? 君は堕ちてくるな、心春」  強くなった雨。  これ以上、心春が濡れないよう、伊吹生はナイフを構える彼女の方へ傘を傾けた。 「お姉さんに似て、君も家族思いなんだな」  フードの下に覗く心春の瞳が大きく見開かれた。 「な……にも、知らないくせに、私のことなんか」 「君と同じくらいの年齢の子を知っている。その子も家族のことを大事にしてるんだ、とても」 「そんな話、どうでもいい……!」  すぐそこにいる伊吹生にナイフを突きつけようとし、大袈裟なまでに両手が震え、心春の顔はくしゃくしゃに歪んだ。 「怖いだろ」  自分の殺害を目論む少女を射程圏内に自ら招いた伊吹生は、尋ねる。 「今、君は俺以上に怖い思いをしていないか。いや、ずっと怖かったんじゃないのか?」 「アンタなんか怖くない……」 「俺は、この乱杭歯で誰かを傷つけることが何よりも怖い」 「嘘ばっかり……吸血種のくせに」 「君はその手で誰かを傷つけることが怖くないか?」  伊吹生は濡れ渡るフード越しに小さな頭を撫でた。 「もう無理しなくていい、心春」  心春は口ごもった。  大粒の涙が湧き上がって、瑞々しい頬へ、次から次に落ちていった。 「お姉ちゃん……お姉ちゃんが……」  心春は両手で顔を覆う。伊吹生が差す傘の下、心の拠り所にしていた殺意の象徴であるナイフを手放して、泣きじゃくった。 「また……笑わなくなった……ずっと、ベッドで泣いてる……」 (妹の心春も同じくらい傷ついている)  彼女が心に負うダメージを家族は把握しているのだろうか。  後で家に連絡をとらせることにして、一先ず、伊吹生はずぶ濡れの心春をマンションのエントランスへ誘導した。 (待て、ナイフはどうした?)  扉の前まで来て、ナイフが地面に落ちたままになっているのに気づく。  振り返れば、水溜まりの中の凶器を拾おうとしていた人物に視線がぶつかった。  傘を差して屈んでいた相手は、伊吹生と目が合うと、問いかけてきた。 「忽那君と繋がっているんですか?」  伊吹生は、このとき、その存在を目視で初めて確認した。心春に意識が集中し、周りへの注意力が疎かになっていたため、感知すらできずにいたのだ。 「どうして心春まで泣かせるんですか?」  鎖骨を越す長い髪。ほっそりした首を覆うシンプルなチョーカー。 「……お姉ちゃん……?」  高岡今日花だった。

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