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8-2
冷房が効いていて肌寒い部屋。拓斗が言っていた通り、生活感に欠ける殺風景な住まいだった。
「お前のことは信用していないから断る」
伊吹生はきっぱりと言い切った。
「僕のこと、悪魔だとでも思っています?」
「半分くらい思ってる」
「どうして会いにいったんですか」
片腕をとられ、抗う暇もなく、黒一色のソファへ。
若く美しい深黒の獣に押し倒された。
「伊吹生さん、家庭を持つ菖さんに未練があるんでしょう」
「……まだ、そんなこと言ってるのか」
「菖さんが貴方に好意を寄せていたのは間違いありません」
菖と直に接触したことのない凌貴に断言されて、伊吹生の脳裏に浮かび上がったのは、数時間前に見た彼女の笑顔だった。
『咬みついてもよかったのに』
十年前、十九歳の、あの夏の日。吸血鬼になりかけた伊吹生に菖は「どうして」と問いかけてきた。
血を奪われそうになって恐怖し、怯え、裏切られたショックで出た「糾弾の言葉」だと伊吹生はこれまで思っていた。
(一歩間違えば、俺も化け物になっていた)
凌貴と同じ道を辿っていたかもしれない可能性に身震いした。
(菖と話をしよう)
罪悪感や自己嫌悪から距離をおく日々を重ねてきたが、いい加減、疎んじていた過去と向き合わなければ。恐らく死ぬまで克服できない、どうしようもない弱さを家族に明かそうと思い立った。
『どうして奪ってくれなかったの?』
菖に「嘆きの言葉」を吐かれたとき、伊吹生は当時の彼女の気持ちを知った。
(過去の感情だ)
菖は、いつまでも伊吹生とは家族同士だと伝えてきた。今の彼女にとって、もう、過ぎ去った思い出の一つだろう――。
「貴方はどうですか。菖さんのことを、昔も今も愛しているんじゃないですか?」
伊吹生は真上に迫る爛々とした目を見据える。菖への余計な詮索が的を射ていた彼への腹いせに、黙秘を選んだ。
凌貴は……微笑した。
冷たい五指を伊吹生の凹凸豊かな喉にそっと絡めた。
「貴方のこと、殺すみたいに抱いてしまいたい」
伊吹生はヒヤリとする。
優しく首を絞められた。
ひたすら甘やかな眼差しで狂気を振舞う凌貴に心身が痺れた。
(やっぱり悪魔だ、コイツは)
下手に抵抗して加虐心を刺激しないよう、じっとしていたら、両手に力が加わった。
掌による抱擁が徐々に過激になっていく。
(どうする、いい加減、堪忍袋の緒を切ってもいい頃か?)
息苦しさが加速する。伊吹生は拳を握った。惜しみない狂気を振り翳す凌貴に、渾身の一撃を見舞う覚悟を決める。
これがノーダメージに終わったら、その先に待っているのは――。
……カリカリカリカリ……
階段で丸まっていたはずの黒猫がフロアへ降り立ち、玄関ドアを引っ掻き始めた。
凌貴は耳ざとく聞きつけた。今の今まで夢中になっていた伊吹生の喉から両手を遠ざけ、立ち上がり、玄関へ向かう。
「食事に行くんだね。気をつけて」
一声鳴いた黒猫に微笑みかけ、ドアを開く前に振り返り、ソファで咳き込んでいる伊吹生に問う。
「伊吹生さんも一緒に出ていきますか?」
口元を拭った伊吹生は起き上がる。落ちていたトートバッグを拾い上げ、玄関前に立つ凌貴を乱暴に押し退け、黒猫と共に外へ出ようとした。
「名前はイブキにしましょうか」
伊吹生の足元に纏わりつく柔らかで温かな愛玩動物を見、凌貴はクスリと笑う。
「でも、そんな名前をつけたら、ずっと閉じ込めたくなってしまって駄目ですね」
伊吹生は何も言わずに部屋を出た。黒猫とは、瞬く間にはぐれた。夕闇が蔓延る街の中を一人で突っ切った。
まだ凌貴に囚われているような気がした。
不快な息苦しさが喉元にこびりつき、数回咳をして、じわりとかいた汗を大雑把に拭う。
猫に助けられた。不甲斐ないが、心から感謝した。
渾身の一撃で凌貴を仕留める自信はゼロだった。
「情けない」
独り言がポツリと零れる。
(まさか痕なんてついていないだろうな?)
大股で先を急ぎながら頸部に手をやれば、酷薄な掌の抱擁がまざまざと蘇って、伊吹生は眉根を寄せた。
そのときだった。
「伊吹生さん」
すぐ耳元で名前を呼ばれたかと思えば、後ろから抱きしめられた。
突然の力強い抱擁に息が止まりそうになり、立ち竦む伊吹生に、追いかけてきた凌貴は謝罪する。
「ごめんなさい」
明かりを宿す街灯の下、西日の余熱が居座る路上で。周囲にいる通行人も目に入っていないのか、凌貴は伊吹生に哀願した。
「僕を嫌わないで」
伊吹生はただただ途方に暮れた。
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