26 / 40

8-2

 冷房が効いていて肌寒い部屋。拓斗が言っていた通り、生活感に欠ける殺風景な住まいだった。 「お前のことは信用していないから断る」  伊吹生はきっぱりと言い切った。 「僕のこと、悪魔だとでも思っています?」 「半分くらい思ってる」 「どうして会いにいったんですか」  片腕をとられ、抗う暇もなく、黒一色のソファへ。  若く美しい深黒の獣に押し倒された。 「伊吹生さん、家庭を持つ菖さんに未練があるんでしょう」 「……まだ、そんなこと言ってるのか」 「菖さんが貴方に好意を寄せていたのは間違いありません」  菖と直に接触したことのない凌貴に断言されて、伊吹生の脳裏に浮かび上がったのは、数時間前に見た彼女の笑顔だった。 『咬みついてもよかったのに』  十年前、十九歳の、あの夏の日。吸血鬼になりかけた伊吹生に菖は「どうして」と問いかけてきた。  血を奪われそうになって恐怖し、怯え、裏切られたショックで出た「糾弾の言葉」だと伊吹生はこれまで思っていた。 (一歩間違えば、俺も化け物になっていた)  凌貴と同じ道を辿っていたかもしれない可能性に身震いした。 (菖と話をしよう)  罪悪感や自己嫌悪から距離をおく日々を重ねてきたが、いい加減、疎んじていた過去と向き合わなければ。恐らく死ぬまで克服できない、どうしようもない弱さを家族に明かそうと思い立った。 『どうして奪ってくれなかったの?』  菖に「嘆きの言葉」を吐かれたとき、伊吹生は当時の彼女の気持ちを知った。 (過去の感情だ)  菖は、いつまでも伊吹生とは家族同士だと伝えてきた。今の彼女にとって、もう、過ぎ去った思い出の一つだろう――。 「貴方はどうですか。菖さんのことを、昔も今も愛しているんじゃないですか?」  伊吹生は真上に迫る爛々とした目を見据える。菖への余計な詮索が的を射ていた彼への腹いせに、黙秘を選んだ。  凌貴は……微笑した。  冷たい五指を伊吹生の凹凸豊かな喉にそっと絡めた。 「貴方のこと、殺すみたいに抱いてしまいたい」  伊吹生はヒヤリとする。  優しく首を絞められた。  ひたすら甘やかな眼差しで狂気を振舞う凌貴に心身が痺れた。 (やっぱり悪魔だ、コイツは)  下手に抵抗して加虐心を刺激しないよう、じっとしていたら、両手に力が加わった。  掌による抱擁が徐々に過激になっていく。 (どうする、いい加減、堪忍袋の緒を切ってもいい頃か?)  息苦しさが加速する。伊吹生は拳を握った。惜しみない狂気を振り翳す凌貴に、渾身の一撃を見舞う覚悟を決める。  これがノーダメージに終わったら、その先に待っているのは――。  ……カリカリカリカリ……  階段で丸まっていたはずの黒猫がフロアへ降り立ち、玄関ドアを引っ掻き始めた。  凌貴は耳ざとく聞きつけた。今の今まで夢中になっていた伊吹生の喉から両手を遠ざけ、立ち上がり、玄関へ向かう。 「食事に行くんだね。気をつけて」  一声鳴いた黒猫に微笑みかけ、ドアを開く前に振り返り、ソファで咳き込んでいる伊吹生に問う。 「伊吹生さんも一緒に出ていきますか?」  口元を拭った伊吹生は起き上がる。落ちていたトートバッグを拾い上げ、玄関前に立つ凌貴を乱暴に押し退け、黒猫と共に外へ出ようとした。 「名前はイブキにしましょうか」  伊吹生の足元に纏わりつく柔らかで温かな愛玩動物を見、凌貴はクスリと笑う。 「でも、そんな名前をつけたら、ずっと閉じ込めたくなってしまって駄目ですね」  伊吹生は何も言わずに部屋を出た。黒猫とは、瞬く間にはぐれた。夕闇が蔓延る街の中を一人で突っ切った。  まだ凌貴に囚われているような気がした。  不快な息苦しさが喉元にこびりつき、数回咳をして、じわりとかいた汗を大雑把に拭う。  猫に助けられた。不甲斐ないが、心から感謝した。  渾身の一撃で凌貴を仕留める自信はゼロだった。 「情けない」  独り言がポツリと零れる。 (まさか痕なんてついていないだろうな?)  大股で先を急ぎながら頸部に手をやれば、酷薄な掌の抱擁がまざまざと蘇って、伊吹生は眉根を寄せた。  そのときだった。 「伊吹生さん」  すぐ耳元で名前を呼ばれたかと思えば、後ろから抱きしめられた。  突然の力強い抱擁に息が止まりそうになり、立ち竦む伊吹生に、追いかけてきた凌貴は謝罪する。 「ごめんなさい」  明かりを宿す街灯の下、西日の余熱が居座る路上で。周囲にいる通行人も目に入っていないのか、凌貴は伊吹生に哀願した。 「僕を嫌わないで」  伊吹生はただただ途方に暮れた。

ともだちにシェアしよう!