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8-1-殺意か愛か

 木製の扉を開けば、頭上で小気味よく鳴った、昔懐かしいベルの音色。 「すみません、今、準備中なんです」  前掛けのエプロンを身につけ、テーブルを拭いていた女性が声をかけてくる。  扉にぶら下がっていた「準備中」というプレートを無視し、入店した伊吹生と目が合うと、彼女は微かに息を呑んだ。 「伊吹生……君?」  久し振りに会う義姉の菖に伊吹生は小さく笑いかけた。 「あのとき、私に咬みついてもよかったのに」  煉瓦造り風の外壁。入り口には店名の入った看板が掲げられている。こぎれいな店内の内装はレトロ感があって、居心地のいい雰囲気だった。 「どうして奪ってくれなかったの?」  四人掛けのテーブル席についていた伊吹生は、向かい側に座る菖を再度見やった。 「あのとき、私、突き放されて何もできなかった。伊吹生君が血を流すのを見ていることしかできなかった」 「姉さん……」  日曜日の昼下がりだった。  店主は買い出しに出かけていて、二人きりの店内にしばし静寂が流れた。 「……ふ」  余所余所しくすらあった束の間の静けさは、思わず吹き出した二人の笑い声によって破られた。 「伊吹生君、だって。いい年した弟に」 「俺も、姉さんなんて初めて呼んだ」 「法事のときだって素っ気なく帰っちゃうし、あんまりにも久々だから。どんな風に話していたか、お互い、忘れてたみたいね」  伊吹生より二つ年上の菖は、ブラウン系のカラーに染めた髪を一つに括り、五指の爪を短く整えていた。 「もっと気軽に帰ってきたらいいのに」  左の薬指には淡い光を纏うプラチナリングがはめられていた。 「私は伊吹生の姉。伊吹生は私の弟」  大学時代の同郷の恋人と結ばれ、今は実家の近くに住んでいる菖は、さっぱりとした笑顔で続ける。 「今までもこれからも、ずっと、私達は大切な家族同士なんだから」  ――それから伊吹生は姉と他愛ない話をした。戻ってくるなり仰天した義理の父親に手土産を渡せば、気を遣わなくていいのにと、分厚い手で何回も背中を叩かれた。  久々に訪ねた地元への感慨もそこそこに、伊吹生は新幹線で日帰りの帰路についた。  最寄りの駅に到着すると、自宅、事務所とは違う方向のバスに乗車し、あまり馴染みのない市街地へと向かった。  見通しのいい整然とした景観。近辺にキャンパスを構える九鳥居大学の学生らしき若者と何回か擦れ違う。  暮れゆく街中、交通量の多い表通り沿いを進んでいた伊吹生は、新築のデザイナーズマンションの前で足を止めた。 「僕の家に用ですか」  伊吹生は特に驚くでもなく振り返る。 「お前の方こそストーカーみたいだな」  行きの新幹線に乗る前から、一定の距離をおいて追跡してくる凌貴には気づいていた。 「これ以上、俺をつけ回すのも大変だろうと思って、お前の家まで送り届けてやった」  嫌味のつもりで言ってやれば、黒いキャップを被った凌貴は表情一つ変えずに「家がどこにあるか、拓斗君から聞いたんですね」と然して興味もなさそうに口にした。  念入りに神経を巡らせ、心春の尾行がないことを確認し、伊吹生は菖の元を訪れていた。ただ、凌貴に関しては放置した。すでに調査員から情報を得ているのだから、彼を警戒するのは今更なような気がしたのだ。 「どうぞ。せっかくなので、寄っていってください」  路上に面した、植栽の陰になっている一階の玄関ドアを解錠して、凌貴は伊吹生を部屋へ招く。  気乗りしないお招きに伊吹生は仕方なく乗じた。 「お邪魔します」  開放感ある吹き抜けの空間に出迎えられた。  光沢を放つフローリング。高い天井。一人暮らしには持て余しそうなL字型のレザーソファがリビングを陣取っている。照明は天井のシーリングライトのみで、テレビもパソコンもテーブルも見当たらない。  スケルトン階段が壁に沿ってメゾネットの上階へと続いており、その途中で猫が寝そべっていた。 「お前が拓斗に咬みついた猫か」  肩からトートバッグを提げた伊吹生は、目を瞑った黒猫に文句をぶつける。 「ひどい奴だな。飼い主に似たのか」 「僕は飼い主じゃありません」 「野良猫まで拉致っているのか?」 「いちいちひどい言い方をしますね。餌は余所でもらっているようです。ここには休みにくるだけ。だから名前もつけていません」  キャップを外した凌貴は、前屈みになって黒猫を覗き込んでいる伊吹生に寄り添う。ネクタイを緩めてワイシャツを腕捲りした、いつもと同じスタイルの司法書士に取引を持ちかけた。 「貴方が僕に抱かれてくれるのなら、高岡心春さんを攻撃しないであげてもいいですよ」

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