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第1話

「ギ、……ギルバート・グランヴェル。き、君との婚約を、は、破棄……したい」 「……は?」  思ったより気弱な声が出てしまった。しかも相手の反応が心の底から怪訝そうで、余計に気持ちが落ち着かなくなってしまう。  もっと毅然とした態度で、キッパリと言いたかったのに。  しかも……『したい』ってなんだ。気合いが足りない。今から言い直した方が良いだろうか。いやでも話を早く前に進めるのも大事だ。目の前のギルバートも、黒い瞳を瞬かせてこちらの言葉の続きを待っているように見える。  パーティー会場から続くテラスは、今は私達以外の生徒がおらず、賑やかに談笑する声が開け放されたガラス戸の向こうから聞こえている。  世界から切り離されたかのように、この場所には静寂が降りていた。 「……もっと君にふさわしい子がいるだろう。だから私との婚約は、なかったことに……しよう?」  またやんわりとした口調になってしまった。向き合った相手の眉間にビシリと深い皺が刻まれたのが見える。ギルバートは黒髪に黒い瞳で、それなりに上背のある私よりも目線が一段高い。もともとの顔が整っているからか彼がそんな顔をすると、とても迫力があった。密かに令嬢達に人気の高い彼は、もう少し愛想があれば引く手あまただろうに。勿体ない。 「何を言ってるんだハロルド。俺達の婚約は王家も認めた正式なものだろう」  底光りするような黒い瞳が私を映したまま僅かに眇められた。  ゾワリと寒気のようなものが走り抜けて、思わず肩が震えてしまう。これは、別に彼が怖いとかじゃない。私の後ろめたさが起こした恐怖だと思う。うん、きっとそうだ。 「も、もう父上には話してあるんだ。……好きなように、しなさいって。だからギルバートも……」  あ、ダメだ。言う言葉はちゃんと準備してきたのに、いざ口にするとなると上手く出て来ない。鼻の奥がツンとして声が震えそうになってしまう。  だって私はこんな事、本当は言いたくない。言いたくないけれど、どうしても言わなければならないんだ。  自分にそう言い聞かせ、勇気を奮い立たせて言葉を続けた。 「……君も、自由になっていいんだよ。さようなら、ギルバート」  堪えきれず彼に背を向けてから吐き出した声は、何とか取り繕えていたと思う。震えずに、穏やかな声音で告げると、私はその場から全力で逃げだした。  今日は、貴族や王家の子供達が揃って入学する王立学園の卒業式だった。  皆、十四歳になると家庭教師の手を離れ、小さな社交界であるこの学園に通い、三年間の寄宿生活を送る。  既に各家で行われる茶会やパーティーで顔を合わせている者達もいるが、ここでの生活は成人してからの強力なコネ作りになる。王家の一員である私はもっぱら繋ぎを求められる側で、正直に言うと入学の時は気が重かった。公務なら拘束時間が決まっているが、学園生活となれば四六時中で気が休まらない。笑顔が引き攣って見えてないといいなと思いながら、三年を過ごした。  勿論、王族である私は身の回りの世話のために侍従達を連れてきている。今日は卒業式の為に仕立てられた服を着て、髪を整え、華美にならない程度の宝飾品を身につけていた。オフホワイトでまとめられた礼服には金糸で刺繍が施され、私の金髪にとても合っていると言われた。付ける装飾具は私の瞳の色に合わせた淡いブルーで、耳飾りとブローチ、それに髪留めが揃いのデザインだ。伸ばすように言われた私の金髪はそろそろ背の真ん中を越えるくらいで、緩く編まれて片側で留めていた。  これが貴族の『武装』なのだと、入学式の時に母から教えられた。私達は剣を持って前線で戦う事はほとんどないけれど、ナメられないことが一番重要だと言われたのだ。  母は十六歳で我がクレアーズ王家に輿入れした、隣国アディーリアの第三王女だった。政略結婚のわりには父とは始めから仲睦まじいらしいが、若い頃は色々あったんだろう。  午前中に式は終わり、午後は交流会を兼ねたパーティーが始まっていた。  その中で、本当なら私は、皆の前で宣言するように婚約破棄を口にするつもりだった。でもようやく言えたのはギルバートを連れ出したテラスで、二人きりになってからだ。  それに破棄の理由も『君は私に相応しくない!!』と傲慢に言い捨てるはずだった。彼には徹底的に嫌われようと思っていたからだ。……そんなこと、嘘でも言えなかったけど。    ――ふさわしくないのは、私のほうだ。    足元に肉体強化の魔術をかけなくとも、私の走る速度は風のようだと言われている。誰の目にも止まらず、私はパーティー会場を抜け出していた。並の衛兵や、ましてや貴族令息などでは目にも留まるまい。  私の魔力は国内でも多い方と言われているが、それだけではなかった。幼い頃から鍛錬を欠かさず、現役の騎士団長を師と仰ぎ鍛え抜いた身体はかなりのものだ。腕を曲げて力を込めればカチカチの上腕二頭筋が盛り上げるし、僧帽筋が逞しいおかげで首も太め。極めつけは発達した大胸筋で、この胸の厚みが邪魔するせいで服や鎧などは頻繁に調整を必要とする。 『どうか重要な式典やパーティーの前は鍛錬をお控え下さいハロルド様』  困り顔の執事にそう窘められた事も何度かある。ボタンがぱつぱつのシャツなんかで王族を式典に出させるわけにはいかないのだろう。いつも苦労かけて申し訳ない。  それでも、貴族令嬢や夫人達、他国の王女達にはこの容姿をやけに褒めそやされる。  "クレアーズ王家の掌中の珠、白百合の如く美しき第三王子ハロルド"  ……それが社交界で広がった私の呼び名だ。白百合なんて、何を見てそんなことを言うのだろう。不思議だ。  肌はまあ、母譲りで白めだとは思う。日に焼けにくいのだから仕方ない。これでも幼い頃は線が細く華奢で、金髪に青空のような明るい瞳が天使のように可愛らしいと言われていた。そう、その頃ならまだしも、今のこの逞しい筋肉と近衛騎士かと見紛う体格を見て、『白百合』はないだろう。聞いた者から詐欺だと言われかねない。  しかし他国の式典に招かれたり、貴族の茶会に招待されると、だいたい女性達は私の容姿を褒めてくれる。お世辞かもしれないけれど、たまに熱烈な求婚を受けてしまって困る。女性には、そんなに良く見えるんだろうか、この筋肉が。  ――でも、私の欲しい美しさはこれじゃないんだ。  この国は同性婚が認められている。周辺諸国では禁止のところもあるらしいが、うちは法律で結婚の自由が定められていた。たまに他国から移住して国籍を取得し、結婚する同性の夫婦もいるくらいだ。この国は、良い意味でも悪い意味でも制約が緩い。平和な国だと喜んで移住する者もいるらしいけれど。  そんな同性婚の多いこの国でも、その夫婦というのはある程度『雰囲気』というのがある。男同士の結婚で言うなら、夫となる男は逞しく強く、妻となる男はたおやかで美しい。どちらかと言えばそう、というだけの事ではあるが、下世話なことを言うとおそらく夜の生活も多少体格で決まるんではないだろうか。……いや、一般的な話だ。一般的な夫婦の話だよ。  ――つまり私は、ギルバートより体格は少し劣るが、妻としては相応しくない身体をしている。  筋骨隆々としたこの身体を前にして、ギルバートは夫婦の営みを無事に出来るだろうか?  もっと華奢で可愛らしい妻を娶ったほうが家庭も円満なのではないか?  そもそも私が彼と婚約したのは幼少の『天使』だった頃だ。今の体格は詐欺ではないのか?  実はギルバートも婚約破棄したいと思っているのに相手が王家だから口にできないのでは? 「……はぁ」  考えれば考えるほど、思考は後ろ向きになっていって、ため息が出てしまう。  後ろからギルバートが追いかけてきていないのを確認してから、私は学園の敷地内の寄宿舎へ向かった。  王族の私が入る寄宿舎は、一般生徒とは棟が違っている。  広い一般用の通学路とは違う道を、一人で進んでいく。立場上、侍従を連れて歩かなければいけないが、普段から私はよくフラフラと一人で出歩いていた。  生半可な賊なら私一人でどうとでも対処できるからだ。剣を腰に佩いていない時でも、体術だけで四人の誘拐犯を蹴散らした事がある。あれは私が十歳の頃だった。  あれから――父は私に『好きにしなさい』と言うことが多くなったように思う。 「お帰りなさいませ、ハロルド様」 「ただいま」    部屋に戻ると、待機していた侍従が服を着替えさせてくれる。私の部屋は二階の角部屋だ。階下には私専用の食堂や厨房があり、二階は私の部屋の他に風呂や侍従の控え室などがある。 「湯を用意しましょうか」 「いや……今日は、いい」  いつにも増して堅苦しく感じた服を脱ぐと、ドッと疲れた気分になった私は、茶を用意させて皆を下がらせた。ひと息ついてから温かいお茶をひと口含む。茶葉の良い香りが広がり、少しささくれ立っていた気持ちが落ち着いてくる。相変わらず、私の侍従のいれるお茶は美味しい。卒業式の後、今夜がここで過ごす最後の日だ。ゆっくりお茶を味わおう。  王家からこの寄宿舎に遣わされている者は三名。此処で私の住む環境を整えてくれていて、寄宿生活と言うにはいささか『王宮と同じ』過ぎる生活を送れるようになっていた。中でも一名は料理人で、毎日きちんと王族に相応しいという食事を用意してくれた。  王家は、少し私に甘すぎではないだろうか?  私は第三王子で、年の離れた兄が二人いる。私達は母を同じくした兄弟で、これは他国から見るとかなり珍しい事らしい。母の違う王子達は普通、いがみ合って蹴落とし合うのだとか。私は一番最後にできた末っ子だからか、家族全員に可愛がられている感じがある。 『身体は鍛えていても食事に麻痺毒などを混ぜられたら簡単に誘拐できてしまうかも知れない』  そう言ったのは長男で王太子でもあるリチャード兄上だ。次男のユージーン兄上もまた、入学当初、一人くらい近衛騎士を連れて行くべきでは?としつこく言っていた。  この二人は思考がよく似ていて、容姿も双子のようだが、歳は一つ違う。私とリチャード兄上は七つ違うので、物心ついた時から父が三人いるかのように感じていた。  過保護が過ぎる兄たちをいさめてくれたのは母で、厳選した三名を送るから後は自由にしなさいと言ってくれた。 「……自由。自由とは、なんでしょうか母上……」  哲学のような事を呟いて、ため息をつく。  疲れを癒すには湯を使うのが良かったのかも知れないが、気持ちが疲れ切っていて風呂に入る気力はなかった。身体は拭いて貰ったのでこのままベッドに入ってしまってもいい気がする。  それくらい、今日のことは私の精神を疲弊させていたのだ。  だって私の初恋が終わった日だ。自分から終わらせて、ギルバートに別れを告げた日。  私とギルバートが出会ったのは、三歳の頃だった。彼は私の師である騎士団長の息子で、歳が近いからと学友候補として鍛錬の最初の日から王宮へ来ていた。  鍛錬の後は一緒に湯を使ったし、その後は軽食を共にしたり同じベッドで昼寝をしたり、とてもたくさんの時間を共に過ごした。  ……告白をしてきたのは、ギルバートからだった。  あの頃私の容姿は女の子のように可愛かったそうなので、周囲は微笑ましく私達を見ていたという。相手の身分についても、性別についても、私は第三王子なのでそこまで厳しい査定はされない。それに騎士団長は元は王家の血を引く伯爵家から別れ、武勲で爵位を賜った家だ。問題はないだろうということで、私達は幼いながら婚約を交わした。  ギルバートは利発な子供で勉強も出来たし運動も得意だった。しかしあまり表情がなく、多くは喋らない大人しい子供だった。無口という程ではないが、私が話すのを頷きながら聞いてくれた。ギルバートが話さない分を埋めるように、私は様々な事を話して笑い、時には泣き、怒ったり拗ねたりと子供らしい幼少期を送った。  それは近くでギルバートが見守っていてくれたからだと今では思う。どんな時でも側にいてくれて、彼は私の最も大事な存在だった。  周囲も私達の様子を見て、いずれは結婚するのだから、そんな距離でも問題ないだろうと思っていた。しかし、大人びた雰囲気のあるギルバートを、私は一番近い兄のように感じていたのだ。そこに特別な感情はなかった。  それが変化したのは、私達が十歳になった頃だ。  切磋琢磨し共に鍛えてきた私達はぐんぐん背が伸び、二人とも同世代からは頭ひとつ出るような体格になっていた。  鍛錬の後、いつものように湯を使っていた時、私は振り返って見たギルバートの背に少しの間見惚れた。均整の取れた筋肉の盛り上がりを、湯の粒が流れ落ちていく。ただそれだけの光景なのに、私は動きを止めてしまって、ギルバートに『どうした?』と声をかけられた。  慌てた私は、自分の腕を彼に近付けて『なんだか色が随分違うなと思ってね』と笑った。ギルバートの肌は日に焼けて少し浅黒く、私はどうも日焼けしにくいらしく真っ白だった。肌を寄せてみるとその色の違いは明白で、確かに改めて見ると笑ってしまうほどだった。  ――しかしその時、ギルバートの目は笑っていなかった。  凝視するように私の腕を見て、そこから辿るように肩、首、胸と漆黒の視線が移動していく。その瞳は夜闇の色に混じって、濃紺に星を溶かしたような熱を帯びていた。  その瞬間、私は急に顔が熱くなって逃げるように風呂を出てしまった。ギルバートの視線がまるで愛撫のように私の肌を辿ってきたような気がして、恥ずかしくなったのだ。  もし実際にギルバートの手が私の腕に触れ、肩に、鎖骨に……と触れてきたら私はどうするだろう。何だかとっても恥ずかしくて、いけない事を考えている気持ちになった。  でも、心のどこかで、触れて欲しかったという気持ちも間違いなくあった。私はギルバートに何を期待しているのだろうか。  その後は、追いかけてきたギルバートに非礼を詫びて共に食事を取り、彼は特に何も言わずいつも通りに帰っていった。  その夜、私は初めて夢精した。  寝る前に思い浮かべていたのはギルバートの逞しい背中だった。目に焼き付いて離れなくなっていたのだ。さらに夢の中では彼の視線に晒されて身悶えたり、日に焼けた大きな手で身体に触れられて恥ずかしくて泣いたりした。胸が苦しくて切なくて、もっと触って欲しくて声を上げそうになった時、目が覚めた。  起きたら下着が濡れていて、真っ青になって側仕えを呼んだら、温かい目で諭された。これは大人になった証なのだと。初めての精通が夢精なのはよくあることで、これからは閨の訓練もしましょう、と。  十歳になったばかりの私は急に全てのことが恐ろしくなって泣き出した。侍従が宥めても、乳母だった侍女長がやってきても泣き止まず、ついには部屋にギルバートが呼ばれてしまった。何しろ私が一番懐いていて信用していたのが彼だったから。しかも内容が内容で、婚約者なのだから彼に任せるべきだと皆が思ったのだろう。  私は、ベッドの上で座り込んだままギルバートを見上げた。天蓋の布をめくって中に入ってきたギルバートは、朝からの騒ぎの内容を聞いていたのか少し気まずそうだった。確かに、いきなり婚約者の精通の話など聞かされても困るだろう。 『ギルバート、私は変になってしまったんだ』 『変ではない。それは普通の事だ。俺でもなる』 『ギルバートも?』 『ああ。俺の場合は自分で擦って出した』 『……え?』 『これからは定期的に抜かないと、溜まってまた夢精することになる』 『ええぇ……』  絶望に満ちた私の声を聞いて、ギルバートは唇の端を少しだけ上げて笑った。  それから彼は閨教育係のように自慰の仕方を説明して、私が目を白黒させているのを楽しんでいたようだった。同じようにできるだろうかと不安になる私に、ギルバートは一瞬考え込んでからベッドに上がってきた。座っている私を後ろから抱き締め、未だに下を脱いだまま下着もつけていない私の下半身に手を伸ばす。 『呼べばいつでも俺が手伝う』 『あ、あの、……ギ、ギルバート?』 『こうして……ゆっくり擦り上げればいいだけだ』 『ひっ、……ぁ、……ギ、……ルッ……ぁ、あっ』  ぎゅうっと身体を丸めてしまう私を、ギルバートはそっと抱き締めてきた。落ち着かせるように、耳元で名前を呼んでくる。ハル、と呼ばれると腹の奥に熱が凝るような気がした。  少し乾いた手に擦られていた性器は、先端からとろとろと透明な液体を零し、ギルバートはそれをゆっくりと全体に塗り広げた。恥ずかしくて顔を上げられない私はずっと俯いていて、肩に触れるくらいの金髪がカーテンのように視界を覆っている。そのうち、急にフッとうなじに温かい息が掛って、そこに濡れたモノが触れた。ぴちゃり、と濡れた何かがそこを撫で、柔らかな膨らみが触れてちゅうっと強く吸われる。ビク、ビク、と身体が無意識に跳ねるのを感じた。 『ギ、ギルッ……なに、してるのっ』 『ハルのうなじがあまりに白いから……美味しそうで食いたくなった』 『へ?……あっ、……ぁ、や、めっ、ぁっ……たべちゃ、だめぇッ……』  性器の先端をぐりぐりと親指で強めに押さえられた。ビクンと大きく震え逃げようとする身体を、強く抱かれて後ろに引っ張られる。ギルバートの逞しい胸に寄りかかりその腕に包まれたら、今朝夢に見た光景が重なった。ひゅ、と小さく息を飲んで、私はギルバートの腕を掴んだ。身体の奥底に熱源があって、それが暴れ出すと共にビクビクと腰が震える。  いっぱいまで引かれた弓にでもなったような、どうしようもない衝動で思考が焼かれる。 『ぁ、ふ……あ、あっ……ぁ、ん――ッ』  ビュク、ビュク、と何か溢れるような音がして、次の瞬間私の身体はぐったりと弛緩した。ギルバートが手を拭いているのをぼんやりと眺め、下半身を濡れた布で拭かれても動けなかった。ギルバートが手ぐしで私の金髪を整え始めてようやく、私はもたれ掛かって椅子にしてしまっている相手を見上げた。 『ギルバート』 『うん? 手は洗ったから大丈夫だ』 『違う。……違う、いまの……いまのは』  湯の入った桶と柔らかい布が、天蓋の向こうにさっと持ち去られていく。そうかアレで手を洗ったんだな、と思ったが持って行った人物は?とようやく思考が巡り始めた。ベッドの上は周囲を布に覆われて暗くなっているが、今は真っ昼間だし、天蓋の布の外には恐らく側仕え達がいる。  そ、そんな状況で? 私達は今、何をしていた? 『ハロルド。……ハル。大丈夫だ。婚約者ならこれくらいする』 『そ、……そうなの、か?』 『そうだ。だから気にしなくていい』  そうなのか、とその時知識のない私は納得してしまった。  恐らくその後も疑問にも思わなかった。私は全幅の信頼をギルバートに傾けていたし、別の知識を仕入れようもなかったのだ。  閨教育については婚約者のギルバートが自ら手ほどきをするからと断ってしまったし、年の近い友人はいない。兄達は年上過ぎて、こんなこと相談出来ないと感じていた。  だから――私は精通した十歳からつい最近まで、定期的にギルバートに自慰の世話をされていた。  一週間に一回が、何故か三日に一回になって、『そんな頻度でするものだろうか?』と疑問に思う隙すらなくギルバートの手に翻弄される。  だって、それはとても気持ちいいことだった。抱き締めてくれるギルバートの腕は心地良いし、身体を寄せていると彼の筋肉の盛り上がりがしっかりと感じられる。目で見るよりも明らかに、それを感じることが出来た。私はいつしか、彼の身体に欲情するようになっていたのだ。  ギルバートと逢えない日は、その感触を思い出して自分で慰めることもあった。ギルバートの声を思い出し、その手の感触と、抱き締めてくる腕を想像して、恥ずかしくて真っ赤になりながら自慰をする。  ……すごく、気持ちが良かった。いけないことだと判っているけれど、それが背徳感というスパイスになって興奮が増していく。  ある時、自慰をしてしまった次の日にギルバートに射精を促されて、とても薄い精液しか出なかった事があった。  ギルバートは一瞬沈黙してから、『どうした?』と真剣な顔で聞いてきた。私はしどろもどろになりながら、真顔で問い詰めてくるギルバートに負けて全てを告白してしまった。  ギルバートにされるのがとても気持ち良くて、一人の時も自慰をしている事。  自分でする時もギルバートの手や声を思い出している事。  堪えきれないなんて恥ずかしくて、消え入りたいほど羞恥を感じるけれど、心地良くて止められなかった事。    ……何より、ギルバートにもっと触れられたくて堪らない、こんな自分が恥ずかしいと。  するとギルバートは一瞬動きを止めて表情を凍らせた。  私は急に不安になって、彼の顔を覗き込む。もしかして、あまりにも私がはしたなくて、呆れてしまったのだろうか。  おずおずと声をかけた私に、ギルバートは勢い良く抱きついてきた。息も出来ないほど強く抱き締められて、ベッドの上に倒される。頭の後ろに手を差し入れられて、呼びかけようと開いていた唇が塞がれた。  濡れた温かいものが、ぬるりと唇に触れる。触れているのはギルバートの舌で、これは――キスだ。そう思ったのは、散々貪られて息も出来なくて、ぐったりとシーツに倒れてからだった。酸欠になってはふはふと荒い息をする私の唇を、ギルバートの薄めの唇が何度も啄んでくる。私の唇はもともと少し肉厚でぽってりとしているが、激しく貪られ吸われ過ぎたのか、より腫れたようになっていた。けれど、さっきまでは荒々しかったギルバートの口付けはだいぶ落ち着いたようだ。 『俺も同じだ。もっと触れたい』 『ギルバート……』 『……ただ、陛下からは学園を卒業するまでは許可できないと言われている』 『許可?』 『そうだ。だからそれ以外の事を、先に慣らしていこう』 『……?』  ふ、と一瞬優しく解れたその時のギルバートの表情に、私は見惚れてしまった。  それから彼の口で散々口淫をされたり、風呂場で亀頭だけを執拗に弄られて泣かされたり、精液でも粗相でもないものをそこから吹き出すまで弄られたりと、ギルバートが行う『自慰の世話』は数年続いた。学園に入ってからは毎日のように部屋に来て、触れられていたと思う。  卒業するまで、と言われていた期間は着々と近づいていた。  ――そして卒業を間近に控えた数週間前、初めて私からギルバートの手を断った。  その頃耳にしたのは、学園での令息達の下世話な内緒話だった。卒業はもう目の前で、彼らも浮き足だっていたのだと思う。教室の片隅で寄り集まり、ずいぶんと赤裸々な閨の話もしていた。その中で、私の耳に入り込んできた話題だ。  貴族は、幼い頃からの婚約者であろうと、結婚式まで顔を合わせない時もあるらしい。ましてや、好き合って結婚する事なんてほとんどない。ほとんど政略結婚で、愛のない夫婦生活が普通なのだと。それにしても閨教育は年上の女性が一番良い。手取り足取り導いてくれて、天国が見られるぞ。どうせ愛のない夫婦生活を送るのだから、結婚するまでに色々つまみ食いして遊んでおけ……と。  婚約者だから、ギルバートは私に触れたはずだ。でも、世の中の貴族の『婚約者』はそんなことはしないという。普通なら大人の女性から閨教育を受けて……それで?  私はその時、不意にゾッと背が寒くなるのを感じた。  この時既に私の身体は母を軽く追い越し、兄上達に迫っていた。日々の鍛錬も休むことなくこなし、気がつけば身体は筋骨隆々としていて、騎士団で手合わせを行えば勝率は七割を超える。父の体格が良く、兄は二人ともそれを受け継いで立派な身体をしている。私は幼少の頃は母に似て華奢だと言われていたが、やはり父上の子だと言われるほど体格が似てきていた。  ……だから、思ったのだ。  私とは違い閨教育を女性から受けたであろうギルバートは、本当は柔らかくて華奢な身体を好むのでは?  そもそも女の子のような容姿の頃の私に惚れたと言っていたのだから、女性かたおやかな男性を相手にしたいのでは?  意に添わないとしても、貴族の結婚は政略結婚だ。王家との繋がりを考えたら、義務感で婚約を続けているのか?  では、もしかして、彼は愛のない夫婦生活を送るつもりで、私と結婚するのだろうか……?  その日学園から寄宿舎の部屋へ帰り、来ていたギルバートの手を拒んでから、私は朝まで泣きながらベッドで過ごした。  ギルバートは優しい。私が来ないでくれと言えば、絶対に意に添わない事はしない。無理矢理に寝室に押し入ってくることもしない。私は籠城を決め込み、初恋が砕ける音を聞きながら泣いた。  そして、決めたのだ。王立学園の卒業式のパーティーで、彼との婚約を破棄しようと。  思い立ってすぐに私は父の元へ向かった。私の泣きはらした目元に動揺した父は、謁見の時間調整を側近に命じてから、私の手を取って部屋に連れて行ってくれた。  そこで私は、胸につかえていた全てを吐き出し、泣きながらギルバートとの婚約を破棄したいと言った。  彼の事は好きで、気が狂うくらい焦がれているから、愛のない政略結婚と思われていたらきっと耐えられない。  彼にはもっと華奢で可愛らしい女性か、少なくともこんなに体格の良い男でない者が寄り添うのが良い。  でも婚約破棄後も彼の家との関係はどうか悪くならないように、全面的に私の咎だからという話にして欲しい。  王ではなく父親の顔をした父上は、私の手をぽんぽんと叩きながら微笑んだ。 『お前の思う通り、好きにしなさい。ただ、結論を急いではいけないよ。お前はお前で、ギルバートはギルバートだ』    その時の私には、父がどういう意味でその言葉を言ったのか、理解出来ていなかった。  コンコン、と軽いノックが響いて顔を上げた。  飲んでいた茶はすっかりカップの中で冷め切っている。ずいぶん長い時間、昔の事を思い出して考え込んでいたらしい。   「ハロルド様。ギルバード様がお見えです」 「……」 「ハロルド様?」 「ごめん、寝ていたんだ。少し待って」  寝起きのようなゆったりとした口調でそう声をかけると、返事があった。そのまま私は窓に向かい、大きくガラス戸を開いた。二階にあるこの部屋の窓はバルコニーなどはなく、そのまま裏の庭園に続いている。薄いカーテンをめくり上げると、私はそこから飛び降りた。

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