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第1話

 講義終了のチャイムが鳴る。待っていましたとばかりに、周りの学生たちが教科書やノートを閉じ始める。教授が講義室を出ていくのを待って、怜(れい)は机の上のものをバッグにしまった。  二年生の授業が始まって間もなく二週間。新年度特有のざわざわした空気は幾分落ち着きつつあるが、金曜の最終講義ということもあり、室内の空気はいつもより心持ち軽い気がする。  講義室を出たところで「怜!」と呼ばれた。振り返ると同じクラスの諒太(りょうた)が駆け寄ってくるところだった。 「急なんだけどさ、今夜合コンに出てくんないかな」 「合コン……」  呼ばれた時からそんな気がしていた。諒太の合コン好きはクラスでも有名だ。 「優介(ゆうすけ)が急にバイトが入ったらしくて、来られなくなっちゃったんだ。怜、ピンチヒッター頼む、お願い」  諒太は額の前で手を合わせた。 「大丈夫。ノンアル系も充実してる店だから」  二浪している諒太は、すでに成人済みだ。 「ごめん、おれ――」 「怜が合コン苦手なのはわかってる。でも相手はS女子大なんだ。あの清楚系ぞろいの」  S女子大にも清楚系にも興味のない怜は、喉まで出かかった「知らんがな」をぐっと呑み込む。 「半年粘ってようやくセッティングしたんだぜ。人数揃わないとかさすがにカッコつかないんだよ。他のやつらにも悪いし。なあ頼む、この通り」  諒太の説得にだんだん泣きが入ってくる。数少ない友人の頼みだ。できることなら力になってやりたい気持ちはあるが、あいにく今日は夕方から予定が入っている。 「悪い。今日はどうしても無理なんだ。先週までバイトしてたカフェが急に閉店しちゃってさ。これから新しいところの面接」  自宅生の諒太と違い、怜の生活はアルバイトなしには成り立たない。バイト代が入らなくなった瞬間、生活全般が破綻する。家賃が払えなくなったり食料品の調達が滞ったりするだけでなく、大学の学費も払えなくなるのだ。  そのあたりの事情を知っている諒太は、それ以上無理に誘ってはこなかった。 「バイトの面接じゃ仕方ないか。わかった。他のやつ当たってみるわ」 「ホント、ごめんな」  諒太は気分を害した様子もなく「次は頼むぜ」と笑顔で手を振り去っていった。  ――面接、今日にしておいてよかった。  どの道誘いを断るにしても、友人にうそをつくのは心苦しい。怜は小さく嘆息しながらまだ賑わいの残る講義棟を後にした。  陽の傾きかかったキャンパスの小路を裏門に向かって歩く。繁華街や最寄り駅に向かうには正門を出る方が圧倒的に近いので、裏門を使用する学生はあまりいない。この時間も薄暗い小道を歩くのは、怜ひとりだけだった。 「合コンか……」  春とは名ばかりの風の冷たさに首を竦めながら、怜は小さく呟いた。初めましての女の子たちと酒を酌み交わし雑談をするそのイベントをこよなく愛している学生は、諒太だけではない。怜もしばしば誘われるのだが、断る理由を考えるのに毎度苦慮している。  透き通るような肌に艶のある栗色の髪。きれいなアーモンド形の瞳は漆黒で、ぽってりした唇は春夏秋冬乾燥知らずのぷるんぷるんだ。決して女性っぽい顔立ちではないが、幼い頃から『男の子にしておくのはもったいない』と評されるくらい、怜の外見は人目を惹くらしい。  諒太の熱意に負けて一度だけ合コンに参加したことがある。去年の夏のことだ。やたらとハイテンションな子、終始上目遣いの子、『未成年だから』と断ってもしつこく酒を勧めてくる子。いろいろなタイプの女の子に囲まれて心底疲れてしまった。 『怜って冷めてるよな』  高校生の時、クラスメイトにそんなことを言われた。確かに恋愛に対して冷めている自覚は早い時点からあった。中学生の頃から誰がフッたとか誰がフラれたとかいう恋バナには、まったく興味がなかった。気心の知れた男友達と集まってバカ話をする方が、よほど気楽で楽しいと思ってしまう。  女の子との会話が苦手――というよりも「私の恋人として相応しい相手なのか」と品定めされるような場面が苦痛なのかもしれない。  怜は高校卒業まで都内のとある児童養護施設で育った。推定二歳の頃、路上に遺棄されていたところを保護されたのだ。ふた親の顔は知らないし、遺棄されるまでの記憶もまったくない。何を尋ねても『わかんない』と泣くばかりだったという。  年端もいかない怜が辛うじて覚えていたのは『レイ』という名前だけだった。『怜』という漢字をあてがってくれたのは養護施設の施設長夫妻だ。  事実上の育ての親となってくれた夫妻は、どちらも穏やかで温かい人柄だった。世間的にはかなりシビアな出自を抱えた怜が、曲がりなりにもすくすくと素直に成長することができたのは、間違いなく夫妻のおかげだと思っている。  曲がりなりにも――。  そう、万事が順調だったわけではない。  中学二年生の時だった。怜は同じクラスの女子生徒から『付き合ってほしい』と告白をされた。晩生だった怜は、異性と付き合うということの意味を具体的に想像できず、流されるように『別にいいけど』と答えた。翌日学校へ行くと、ふたりがカップルになったことをクラス全員が知っていた。  ところがその俄かカップルは一週間足らずで終焉を迎えた。彼女の両親が怜との交際に猛反対をしたのだ。理由は怜が児童養護施設の子だから。ただそれだけだった。 『ごめんね』と彼女は謝ったが、怜の心は波ひとつ立たなかった。  あ、そういうことね。そんな感じ。  この世のすべての女子が彼女と同じではないことはわかっている。この世のすべての親が彼女の親と同じでないことも。けれど自分の特殊な出自が、こと恋愛といった場面において少なくともプラスに働くことはないのだという認識は、残念ながら年を追うごとに確実なものになっていった。  面倒くさい。それが今の怜が恋愛に対して抱いている率直でただひとつの感想だ。性的なことには元々淡泊だし、時給のいいアルバイト先と気のいい数名の友人がいれば、キャンパスライフはそこそこ楽しめる。  出自を知った途端に態度を変えたりする相手とは、こちらからさくっと縁を切る。ほっそりとした体躯と愛らしい風貌からは想像できないほど、怜は強く逞しい。  ――ちょっと急いだ方がいいかな。  面接の時間までにはまだ余裕があるが、怜は足を速めた。電車が遅れることもある。誰かに道を訊かれたりするかもしれない。些細なアクシデントが原因で面接に落ちたりしないように、いつも少し早めに現地付近に到着するように心がけているのだ。  特に今度の面接先は賄いつきの洋食店だ。夕食代を浮かせるために、何がなんでも採用を勝ち取らなくてはならない。  ぐっと腹に力を入れた時だ。視界の隅で何か白いものがもそりと動いた。  ――ん? なんだ?  思わず足を止めた。小路の脇に植えられた低木の茂みの中で、白い何かががさごそと動いている。不審者かと一瞬身構えたが、大きさから判断するに人間ではなさそうだ。おそるおそる近づいてみると、茂みがガサッとひと際大きく動いた。  ぎょっと身を竦めた怜の目に飛び込んできたのは……。 「……猫?」  現れたのは丸々と太った白猫だった。不機嫌そうにじっとこちらを見上げる様は、お世辞にも可愛いとは思えなかった。

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