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第2話

 一体どこから入ってきたのだろう。大学のキャンパスは都心部にほど近く、野良猫が生息するには少々厳しい環境だ。とするとどこかの家の飼い猫か……などと考えていると、白猫がふんっと顎を振った。と思ったら顎で指した方に向かってのっしのっしと歩き出した。もしかして『ついてこい』という意味だろうか。 「や、まさかね」  意思表示とかありえないでしょと苦笑していると、白猫が足を止めた。そしてもう一度、さっきより明確に顎を振った。まるで『ついてこいと言っているだろ』とでも言いたげに。 「えっ……と」  顎の先にはキャンパス内で一番古い講義棟がある。五階建てのそれは近々取り壊される予定らしく、昨年度の終わりから使用されていない。  巨漢の白猫はその古い講義棟に向かってのっしのっしと歩いていく。怜がついてきていないと気づくと、今度は大きな口を開けて「ぶなお~ん」とひと声、可愛げの欠片もない声で鳴いた。  ――なんか、めっちゃ感じ悪いんだけど……。  怜は仕方なく白猫の後をついていくことにした。ペットの類を飼った経験のない怜に、初対面の猫の気持ちなどわかるはずもないのだが、不思議なことにひどく急かされていることだけはびんびんと伝わってくる。  ――なんだろう、この感じ。  テレパシーなどというものがあるのだとしたら、こんな感覚になるのだろうか。白猫は講義棟の裏にある外階段を大儀そうに登っていく。怜はまるで誘われるように階段に足をかけた。  ――見た目は猫だけど実は狸で、おれを化かそうとしているとか……?  屋上へ続く扉には、なんと鍵がかかっていなかった。安全上問題なんじゃないだろうかと眉をひそめた時だった。ひと足先に屋上へ到着していた猫の身体が、突然ぼうっと淡い光を発した。 「……え」  見間違いかと何度も瞬きをしたが、やはり光っている。青白い、美しい光だ。  一瞬、脳の一番深い場所にある記憶の引き出しが、カタッと小さな音を立てた。  ――お前、一体……。  カタッ、カタッと次第に大きくなっていく引き出しの音に耳を傾けていると、突如猫がドドドッと屋上の縁に向かって駆け出した。 「お、おい、待てっ」  怜は慌てた。なぜなら屋上の縁には柵が設置されていないのだ。まさか隣の棟に飛び移るつもりなのだろうか。 「無理だって!」  叫びながら、怜は猫を追った。隣の棟まではゆうに十メートルはある。猫が稀に見るデブでなくても飛び移ることなど不可能だ。 「おい、待てって!」  怜は無我夢中で手を伸ばし、ふさふさと左右に揺れる尻尾を掴んだ。ところが猫は勢いを止めない。それどころか信じられないバカ力で怜の身体を引き摺りながら、ついに屋上の縁に辿り着いてしまった。 「おい、止まれ! 止まれって――」  ぶみゃっと叫びながら猫がジャンプする。縁に引っかかったシャツのボタンがひとつ弾けて飛んだ。 「っ!」  次の瞬間、怜の身体は猫の尻尾を掴んだまま、地面に向かって恐ろしい勢いで落下を始めた。  ――そうだ、あれは確か……。  五階程度の高さなのに、地面到達までの時間がやけに長い。死の瞬間、それまでの人生が走馬灯のように浮かぶという話は、どうやら都市伝説ではなかったらしい。  ――小学校に上がったばかりの春だ。  満開の桜の木の下だった。  真っ白で、丸々と太っていて、可愛げの欠片もないふてぶてしい態度の。  ――お前、あの時の……。  地面に叩きつけられる衝撃が訪れる前に、怜はふわりと意識を手放した。 『なぜ約束の時間に遅れたのか、理由を教えてください』 『はい。猫に……太った白い猫に「ついてこい」と言われまして』 『猫がしゃべったと?』 『いえ、しゃべったわけではなく、テレパシー……的な?』 『テレパシー……』  面接官が眉根を寄せた。 『本当なんです。その猫が五階建ての講義棟の屋上から落ちそうになりまして、それを助けようとして僕も一緒に落ちてしまったんです』 『五階建ての建物の屋上から落ちたんですか?』 『はい』  面接官の眉間の皺が深くなる。 『きみね、うそをつくならもう少しもっともらしいうそを考えたら――』 『うそじゃありません!』  怜は焦った。 『本当に落っこちたんです。猫の尻尾を、こう、掴んだまま』  ふさふさの毛の感触がまだ手のひらに残っている。しかし面接官は首を横に振った。 『残念ですが、今回はご縁がなかったということで』 『そんなっ』 『どうぞお引き取りください』  無表情で告げると、面接官はあろうことかお菓子の袋を取り出し、むしゃむしゃと音を立てて食べ始めた。 『ちょ、ちょっと待ってください。僕はうそなんか』 『次の方どーぞー』 『話を聞いてください! バイトが決まらないと家賃も学費も払えないんです!』 『おい、誰かこいつを摘まみ出せ』  いつの間にか控えていた屈強そうな男に腕を掴まれ、部屋の外へと引き摺り出されてしまった。バタンと乾いた音を立てて閉まったドアに、怜は縋りつく。 『お願いします! 採用してくださいっ! 賄いつきで~~っ!』  叫びながら崩れ落ちたところで目が覚めた。  ――夢だったのか。  しかしなぜかむしゃむしゃという咀嚼音だけは続いている。怜はゆっくりと目を開いた。  大理石だろうか、ひんやりとした床が頬に当たる。どうやらここはキャンパスの地面の上ではないらしい。  ぼんやりとした視界の隅で何か白いものがもぞもぞと動いている。猛烈なデジャヴに目を凝らすと、さっきの白猫が床に置かれた皿に顔を突っ込んで、むしゃむしゃと餌を貪っているのが見えた。青白い光は消えている。  手足は問題なく動く。怪我もしていない。とりあえず命が助かったとわかり安堵したが、建物の屋上から真っ逆さまに落ちたというのに、かすり傷ひとつないなんてことがあるのだろうか。  怜はゆっくりと上半身を起こした。救急車で病院に運ばれたのかと思ったが、すぐにそうではないとわかった。視界に入ってくるすべてのものが、一般的な日本の病院のそれとはかけ離れていたからだ。

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