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第3話

 恐ろしく広い回廊のような空間だった。アーチ型を描く天井は呆気にとられるほど高く、回廊の片側には数えきれないほどの大きな鏡がはめ込まれている。反対側には多くの窓が並び、外部から光が差し込んでいた。  天井から垂れ下がったクリスタルのシャンデリア、回廊の左右に並ぶ巨大な燭台。どれをとっても荘厳できらびやかで、まるで中世ヨーロッパの宮殿のような空間だ。  ――一体ここは……。  まだ夢の中にいるのだろうか。それとも映画のセットか何かだろうか。  ――いや、セットにしてはリアリティーがありすぎる。  漂う空気まで、さっきまでのいた大学キャンパスのそれとはまったく違っている。  キツネにつままれたような気分でいると、背後から突然声がした。 「目が覚めたようだな」  後ろを振り返った瞬間、怜は目を大きく見開いて固まった。  数メートル先にふたりの男が立っていた。金色の髪をした長身の青年と、中年の男性だ。青年が醸し出す気品と美しさから察するに、かなり位の高い人物のようだ。脇に控えている中年男性は、おそらく彼の側近か何かだろう。赤い羽根のついたつばの広い帽子を被り、自身の背丈より長い槍を持っている。  青年の方は腰に剣を携えていた。たくさんの刺繍が施された金色の上着の上に、濃紺のロングコートを羽織っている。正面部分は腰丈で背面がとても長い、あまり見たことのないデザインだ。かなりスリムな白いパンツに膝丈の黒いブーツを履いている。日本一有名な歌劇団の舞台衣装のような着衣が、モデルのように手足の長い彼のスタイルをこれでもかというほど引き立てていた。  しかしその特徴的かつ個性的なファッションや、怜悧に整った顔立ちが霞むほど怜の目を惹いたのは、彼の瞳の色だった。サファイヤのように碧々とした瞳に引き込まれそうになり、怜は一瞬呼吸を忘れた。  ――きれいだ……。  うっかり見惚れていると、青年がゆっくりと口を開いた。 「久しぶりだな、レイ」  感情のない、どこか威圧的な口調だった。 「どうしておれの名前を……」  言いかけて、ハッとした。  青年の言葉は日本語ではなかった。英語でもフランス語でもドイツ語でもない。まったく知らない言語だ。それなのに怜は彼の発した台詞を即座に理解することができた。それだけはない。怜自身の口から飛び出したのも、彼が発したのと同じ言語だったのだ。 「おれ、なんで、知らない、言葉が……」  脳内の思考は日本語なのに、まるで唇が翻訳でもしているかのように、自分の口からすらすらと未知の言語が飛び出してくる。怜は混乱した。 「サイヨウシテクダサイ、マカナイツキデ、とは何のことだ。呪文の類か」  青年がまた口を開いた。どうやら夢から覚める直前にうわごとを言っていたらしい。 「あんた、誰なんだ」  怜はのそりと立ち上がると、目を眇めて青年を睨んだ。すると美しい碧眼が鈍い光を放った。 「次に私をあんたと呼んだら、命はないものと思え」  腹の底に響くような、低く不機嫌な声だった。 「こちらはユーリウス・フェザ・ヴェルナル・ハッサルホルト・ネイオール殿下にあらせられます。ここネイオール王国の第一王子、つまり皇太子殿下です。私は執事兼側近のウォルフェルドと申します。ウォルフとお呼びください」  側近らしき男性が言った。 「ユーリ……ネイオ……何だって?」  こんがらがった頭がさらにこんがらがってきた。ポカンと開いたまま口を閉じられなくなった怜に、ウォルフが問いかける。ユーリウスなんちゃら殿下と違って、彼の態度はいくらか好意的だ。 「レイ様は世界線という言葉をご存じですか?」 「世界線……パラレルワールド的なアレですか」  ウォルフが「はい」と頷く。 「世界線というのは、そのひとつひとつが独立していて互いに干渉し合ったりすることはないと言われています。しかし実のところ世界線と世界線の間には、しばしば歪みが起こっているのです」 「歪み……?」 「ええ。小さな歪みは人々が気づかないだけで割合頻繁に発生しています。通常そういった歪みから別の世界線に移動してしまうことはないのですが、時として不規則、不定期に非常に大きな歪みが起きることがあります。大きな歪みはたまたま近くにいた人間を呑み込み、別の世界線へと移動させてしまう――。そういった現象を、我々の国ではスリップと呼んでいます」 「ちょっと待ってください。まさかおれがそのスリップによって、日本からこの世界に飛ばされてきたと?」 「おっしゃる通りです」 「そんなおとぎ話を信じろと?」  いい加減にしてくれと怒鳴りたくなるのをこらえていると、傍らの美丈夫がゆっくりと一歩前へ出た。憎らしいほど足が長い。 「信じる信じないの話ではない。唯一無二の真実なのだ。お前は十九年前、ここネイオール王国でホワイトオメガとして生を受けた。本来ならブルーアルファである私の番になるはずだったのだが、二歳九か月の折、スリップによって突如別の世界線に飛んでしまった」  二十三年前、ネイオール王国の皇太子として生まれたユーリウスはブルーアルファだった。並外れた能力と恵まれたルックスを持つとされるブルーアルファだが、ひとつだけ不自由な点があった。ホワイトオメガと呼ばれる特殊なオメガとしか番になることができないのだ。ブルーアルファはホワイトオメガ以外との性交で子を成すことはできない。加えてホワイトオメガは数百年に一度しか生まれない希少種なのだという。 「しかし幸運なことに私が誕生した四年後、ネイオール王国内にホワイトオメガが生まれた。レイという名のそのホワイトオメガはただちに王家に引き取られ大切に育てられていたのだが、ある日忽然と姿を消してしまった。不幸なスリップによって」  どこか遠い目をしてユーリウスが語った。  ブルーアルファにホワイトオメガ。聞いたこともない単語が次々と飛び出す。確かに怜の第二の性はオメガだが、ホワイトオメガなどという言葉は一度たりとも耳にしたことがない。  わけがわからない。何もかも理解不能だ。 「ホワイトオメガは普通のオメガよりもアルファを強く惹きつける。男女を問わず肌や髪に艶があり、年齢を重ねても美貌を保っている者が多いとされている。お前の風貌は、まさにホワイトオメガそのものだ」  ユーリウスは自信たっぷりにその口角を上げる。憎らしいほど不遜で不敵な笑みなのに、見る者をドキリとさせる色香があった。 「勝手に決めつけるな。ホワイトオメガなんて聞いたことがない」  ユーリウスを睨み上げながらしかし、怜の脳裏には中学生の頃の記憶が蘇っていた。『男子のくせにその肌の艶はずるい』と数人の女子に囲まれ、肌の手入れ方法を教えろと質問攻めにされたのだ。『特に何もしていない』と答えても誰も信じてくれなかった。 「お前が知っていようといまいと、それが真実なのだ。私は二年九ヶ月の間、お前と一緒に暮らしていた。だからお前の左の乳首の横に小さなほくろがあることも知っている」 「なっ……」  心臓がドクンと鳴った。怜の左の乳首のすぐ横には確かに小さなほくろがある。 「さっ、さっき見たんだろ。おれが床に転がって気を失っている間に」 「見ていない」 「うそつけ。じゃあどうしてほくろのことを知っているんだ」 「だからかつて一緒に暮らしていたからだと言っているだろう」  ユーリウスはお手上げだとばかりに肩を竦めた。 「だって、そんな話……」

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