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第4話
信じられるわけがない。けれど自分をじっと見下ろす美しく碧い瞳を見ると、なぜか心の奥がじんじんと疼く。名前をつけることは難しいが、懐かしさにとてもよく似た感情が込み上げてくるのだ。
――まさか本当なのか……。
児童養護施設に引き取られる前の記憶は一切ない。ユーリウスの言っていることが本当だという証拠はないが、彼の主張を覆す決定的な証拠もまた存在しないのだ。今自分が置かれた状況を鑑みるに、ユーリウスの話の方が数段筋が通っているように思える。
何よりユーリウスは最初から怜の名前を知っていた。『久しぶりだな』と言った。
そしてほくろの位置まで。
――いやいや、まさか。
怜はふるふると頭を振った。
「わかった。これは夢だ。おれは悪い夢を見ているんだ」
「だから夢などでは――」
「じゃあなんなんだよ!」
頭を抱えて叫んだ時、部屋の隅で餌を食べ続けていた白猫が突然顔を上げ、ふがあっと大きな欠伸をした。さっきからずっと食べ続けていたことに驚いた。
「まさかあいつがおれを迎えに来たとか言うんじゃないだろうな」
「その通りだ。ヴァロは世界線の歪みを察知し、違う世界線を行き来する能力を持っている」
太った白猫の名前はヴァロというらしい。
パラレルワールドに特殊能力を持つ猫――。もはや荒唐無稽の極致だ。
怜は脱力する。
「バカバカしい。やってられない。茶番は終わりにしておれを元の世界に戻せ」
「説明の限りは尽くしたつもりだ。これ以上どうしたら納得してもらえるのだ、レイ」
「気安くおれの名前を呼ぶな!」
心の中でプツンと何かが切れた。
「そっちにとっては真実なのかもしれないけど、おれにとっては茶番以外の何物でもないんだよ。おれはあんたと番になるつもりはない。おれの人生はおれが決める。さっさと日本に帰せ!」
怜の剣幕に、ウォルフが握っていた槍をわずかに傾けた。止めたのはユーリウスだった。
「あんたと呼んだら命はないと言ったはずだが……まあいい。今日のところはこれくらいにしておこう」
「明日までここにいるつもりはない。今日中に元の世界に帰せ」
頑として譲らない怜に、ユーリウスは深いため息をついた。
「納得できないのなら、力ずくで納得させるまでのことだ」
ユーリウスはウォルフに「連れていけ」と耳打ちをする。ウォルフが「かしこまりました」と答えるのが聞こえた。
「ひとつだけ忠告しておく。この国では私に逆らうことは死を意味する。覚えておけ」
それだけ言い残すと、ユーリウスは靴音を立てて去っていった。
何が『覚えておけ』だ。はらわたが煮えくり返りそうだった。
長い脚が奏でるコツコツという靴音を聞きながら、怜は呆然とその場に立ち尽くす。
傍らではヴァロが、我関せずといった様子でむしゃむしゃと餌を食べ続けていた。
「……んっ」
窓から差し込む陽の光で目覚めた。天蓋つきのベッドに横たわっていることに気づき、ぎょっとして飛び起きた。
――そっか、ここは……。
昨日の記憶がつらつらと蘇る。ユーリウスの話を信じるとすれば、ネイオール王国とかいう国にある宮殿らしき場所だ。しかも時代は中世あたり。
てっきり牢獄にでも放り込まれるのかと思ったが、怜に与えられたのは十畳ほどもあろうかというシンプルで小ぎれいな部屋だった。部屋の中央にあるテーブルには、昨夜の夕食が手つかずのまま置かれている。昨日の昼食以降何も口にしていないのだからかなり空腹のはずなのだが、食欲はまったくなかった。用意されていたまっさらなリネンの寝間着も袖を通す気になれず、シャツにジーンズ姿のままだ。
昨夜はベッドに横たわってからも、自分の身に起きたことを受け入れることができなかった。夜半までぐるぐると思考を巡らせていたのだが、どうやらいつしか眠りに落ちてしまったらしい。
怜はベッドを下りると、明るい窓辺へと歩いた。
まず目に入ったのは広大な庭園だった。美しく刈り揃えられた緑の庭は、ちょっとしたビルほどあろうかという頑丈そうな高い塀で囲まれている。塀を越えて宮殿の外へ逃げることはほぼ不可能に思われた。
怜の知る限り東京にこんな場所はない。おそらく日本のどこにも。
――本当におれは、この国で生まれたのか……。
考えれば考えるほど突飛な話だが、初めて聞く言語を理解でき、あまつさえすらすらと話している自分がいるのだから信じざるを得ないのかもしれない。
とはいえあんな横柄な男と番になるはまっぴらだ。一刻も早くあのデブ猫を探し出して、元の世界に戻らなくては。
――とにかくどんな手を使ってでもこの宮殿から抜け出さなくちゃ。
塀は高いがどこかにきっと出入り口があるはずだ。怜は部屋の扉をそっと開けたのだが。
「おはようございます、レイ様。よくお休みになられましたか」
使用人らしき男がにこにこと話しかけてきた。おそらくひと晩中そこに立って怜を監視していたのだろう。
「お、おはようございます」
「朝食をお運びしてもよろしいですか?」
「あ、いや……あまり食欲がなくて。昨夜も残してしまいました。すみません」
「そうですか。それは心配ですね。もし食べたいものがございましたら、遠慮なくなんなりとお申しつけください。ご用意させていただきます」
そう言って監視係の男は、手つかずで残された夕餉のトレーを手に廊下を去っていった。すわチャンスかと思いきや、すぐに交代の監視係がやってきて扉の横に立った。ドアから逃げるのは難しそうだ。
扉を閉めた怜は、すぐさまベッドに敷かれたシーツを引き剥がした。そしてそれを縦に長く裂くと、端と端を固く結び合わせた。即席のロープで窓から脱出する算段だ。
幸い部屋は二階だ。地面までは目算で五、六メートルほどだろう。
――この高さならいける。
怜はロープを自分の腹に巻きつけると、もう一方の端をベランダの柵に括りつけた。柵を乗り越え、外壁を足の裏で蹴りながら少しずつ少しずつ下りる。ところがあと少しで地面に着地というところで、突然真下近くの茂みがガサゴソと蠢くのが見えた。
「え、うそっ」
茂みから現れたのは、なんと数頭の大きな犬だった。猟犬のようなしなやかな身体つきと鋭い牙を持った彼らは、訓練されているのか吠えることこそしないが、怜の真下で「ウー」と低い唸り声を上げている。間違いない、地面に足の裏をつけたが最後、一斉に飛びかかってくるだろう。怜は仕方なくロープを手繰り寄せ、二階のベランダに戻った。
「くっそぉ、まさか猟犬がいるとは」
聳えるような高い塀に獰猛な猟犬。刑務所を思わせる厳重な警備体制は、荘厳で趣深い宮殿の雰囲気にそぐわないように感じた。
肩で息をしながら次の手を考えていると、部屋の扉がほんの少しだけ開いた。ノックもせずに入ってきたのは、怜が待ちかねていた相手だった。
「ヴァロ、どこに行ってたんだよ」
駆け寄る怜を無視してベッドに伏せると、ヴァロは大きな欠伸をひとつして目を閉じてしまった。どうやら昼寝をしに来たらしい。
「なあヴァロ、おれを元の世界に戻してくれないか。お前、世界線の歪みを察知できるんだろ?」
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