ヴァロは答えない。猫なのだから当たり前なのだがここで諦めるわけにはいかない。 「頼むよ、ヴァロ。お前だけが頼みの綱なんだ。もし元の世界に帰してくれたら、あっちで美味いもの腹いっぱい食わせてやるぞ？」 　その台詞にヴァロがぴくりと反応した。眠そうな目をゆっくりと開けると、怜の顔をじっと見つめてきた。 「やっぱり。お前、おれの言葉がわかるんだな」 　昨日講義棟の屋上へ誘われた時『ついてこい』と言われた気がした。はっきりとした言葉で伝わってくるわけではないが、ヴァロの考えていることが脳に直接訴えかけてくるような感じがするのだ。 　美味いものを食わせてやると聞き、ヴァロは間違いなく〝期待〟を抱いた。つまりヴァロもまた怜の発する言葉を理解していることになる。 『ヴァロは世界線の歪みを察知し、違う世界線を行き来する能力を持っている』 　ユーリウスはヴァロが人間の言葉を理解できるとは言わなかった。あえて触れなかったのかもしれないが、このテレパシーめいた交流は〝対怜〟限定である可能性もある。 「あっちの世界にはな、美味いものがたっくさ～んあるぞ」 　ヴァロが昨日食べていた餌は山盛りでそれなりに美味しそうではあったが、猫用の餌には見えなかった。おそらく人間の食事の残り物だ。 「お前、猫専用の餌を食ったことないだろ。あっちの世界は味の種類も豊富だし、カリカリのやつからしっとりしたやつまで選び放題だ」 　ヴァロの耳がぴくぴくと動いている。大いに関心を示しているようだ。 「チュールっていうのがあってさ、それはもうめっちゃくちゃ美味いらしいんだ。もしおれを元の世界に帰してくれたら、山ほどチュールを食わせてやるんだけどなぁ」 　ヴァロがのろりと立ち上がった。その目が『約束するか？』と訊いている。 「もちろんだ。約束する。だから今すぐおれを――」 「そこまでだ」 　いきなり背後のドアが開いた。立っていたのは不遜な笑みを湛えたユーリウスだった。 「この国では収賄は重罪だ。たとえ相手が猫でもな」 　――くそ、もうひと押しだったのに。 　怜は唇を噛む。ヴァロは大きな欠伸をしてベッドを下りると、開いたドアから廊下へ出ていってしまった。 「教えていなかったが、この宮殿の猟犬はどいつもこいつも気が荒い。血に飢えているんだ。先日も忍び込んだ夜盗が朝、無残な姿で見つかった」 　ユーリウスはそう言って、傍らに落ちていた手製のロープを拾い上げた。猟犬の鋭い牙を思い出し、背中がぞくりとした。 「何か用か」 　睨み上げると、ユーリウスは「用があるから来たのだ」と不遜さ倍増の笑みを浮かべた。 「ウォルフ」 　ユーリウスの声が響くと同時にウォルフが現れた。廊下に控えていたらしい。彼が大事そうに抱えていたものに、怜は視線を奪われた。派手なピンク色をしたそれは、どこからどう見ても女性もののドレスだった。 「お前を私の妃として近々国民に紹介する。詳しい日取りは未定だが、ドレスのサイズ合わせをする必要がある。着替えろ」 　有無を言わせぬ口調に、頭の中でプチっと音がした。 「おれは女じゃない」 「女でなくても妃には違いない。ネイオール王国の伝統に則り正装をしてもらう」 「断る」 「お前にその権利はない」 　ユーリウスがウォルフに「着替えさせろ」と命じた。「はっ」と頷きウォルフが近づいてくる。怜は従順な側近からドレスを強奪すると、思い切り床に叩きつけた。 「レイ様！　なんということを」 　慌てふためくウォルフを無視し、怜はユーリウスを睨み上げた。 「おれはあんたと番になるつもりはないと言ったはずだ。こんなものを着る義務も義理もない」 「往生際が悪いな。それとも頭が悪いのか」 　蔑むように睥睨され、今度は頭の中でゴングが鳴った。 「あんた、いつもこんなやり方なのか」 「私の命令は絶対だ」 「教えてやるよ。あんたみたいなのを暴君っていうんだ。こんな横暴な皇太子じゃ、この国の未来は真っ暗だな」 「……なんだと」 　美しい碧眼が仄暗い光を帯びる。昨日のやり取りから、それが怒りの色だということを怜は知っている。 「納得しないのなら力ずくで納得させると言ったのを、忘れてはいまいな」 「死んでも納得しないと言ったら？」 　それには答えず、ユーリウスはウォルフの方に向き直った。 「レイを寝室に連れていけ」 　そう言い残すと、ユーリウスは踵を返し部屋を出ていってしまった。 「ちょ、ちょっと待っ――何すんだ、おい、放せ」 「レイ様、暴れないでください」 　見た目は紳士だし口調は丁寧だが、ウォルフはなかなかの剛力だった。 　――そりゃそうだよな、一国の皇太子の側近なんだから。 　などと場違いな感想を抱いているうちに、あっという間に後ろ手に縛られ、ユーリウスの寝室へと連行されてしまった。 　怜に与えられた部屋もひとりで過ごすには十分すぎる広さだったが、ユーリウスの寝室はその五倍以上はあろうかという豪奢な部屋だった。壁に掲げられた趣のある壁画や部屋のあちこちに点在するオブジェ、すべてが呆れるほど荘厳だったが、怜の目を釘づけにしたのは部屋の中央に鎮座する巨大なベッドだった。 　キングサイズよりさらにひと回り大きいそれは、天蓋つきなのはもちろんのこと、数々の装飾が施され、まるで美術品のようだった。 　――一体何人で寝るつもりなんだ。 　呆気にとられていると、ドアが閉まる音がした。ウォルフの姿は消え、部屋に残されたのはユーリウスと怜、ふたりきりだった。 『納得しないのなら力ずくで納得させると言ったのを、忘れてはいまいな』 　不意にさっきの台詞が脳裏を過る。嫌な予感がした