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氷解

 至が浩司に見せたメールの内容は、姉と母が至達の最寄りの駅に来たという知らせだった。 「住んでる場所なんて…教えてないのに…なんで…」  部屋でTシャツに薄手のコートを羽織りながら、呟く至に 「その気になれば人1人を探せる時代だ。そこはあまり深く考えるな」  そう言って急がせて、部屋を出る。  今年は残暑が厳しく、もう9月も半ばだと言うのにまだまだ暑くて駅までは徒歩圏だが、少々しんどい。  駅へ着くと、姉夏生と母親佳代子が本当に立っていた。 ーお父さんは未だに起き上がれなくて…ー  と冷たく告げられて実家を去ったあの日以来の母だ。  佳代子は至を見つけた瞬間に涙を溢れさせ、その場にうずくまってしまった。  浩司が近寄り夏生に挨拶をすると、佳代子に大丈夫ですか…と声をかけてくれている。  至は、目があった瞬間の場所から動けないでいた。 「ここではなんですから…近くの店にでも…」  と浩司が夏生に言って、佳代子を立ち上がらせて欲しいと告げると 「至の店に行きたいです…お店を見たい…」  佳代子がうずくまったまま浩司に言う。浩司は咄嗟に至を見るが至にはその声は聞こえていない。  夏生に佳代子を託して至の方へ向かうと 「店に来たいと言っている。俺はお前の考え通りにするが」  うずくまる佳代子は、別れた時より小さく見えた。夏生が佳代子の背中を撫でて、『立とう?立てる?』と優しく聞いている。夏生には母よりも長い期間会っていなかった。  至は答えが出せず固まっていて、どうにもならない。  浩司は仕方なく、取り敢えずでいいのでそこのドトールにでも…と姉夏生に話した瞬間に 「僕の店に来て」  と至が言った。よそのコーヒーより自分のを、と思ったのかどうかは判らないが、至は佳代子に寄り、座っている佳代子の肩を優しく抱きしめて 「僕のお店…見て下さい」  と声をかける。  その瞬間佳代子は至に抱きついて、声を殺して泣いた。  その場に尻餅をついた至に縋って、佳代子は泣いていた。小さく『ごめんね』と何度も言いながら。  店に着くと、佳代子は外から全容を見回した。  木のドア。木枠の窓。ガラスは綺麗にしてあって、几帳面な至らしいと思った。  その間に浩司は鍵を開けて中へ入ったが、その時目にしたのは例の大テーブルで、真衣子と一馬がケーキを食べている光景。 「は?」  と思わず声が出てしまった浩司は、気を取り直して 「あ~、ちょっと来客なんで…一馬くんには悪いが控え室に行っててもらえないか」  窓の外に見える女性2人と、年配の女性の方を支える至を見て、2人は『はい~』とトレイを持って立ち上がった。 「いや~はははっ真衣子姉御に呼ばれちゃったら、俺断れないっすよね~すんませんお留守の時に」  一馬が申し訳なさそうに頭を下げて、トレイごと控え室へ向かう。 ー姉御?ー  先ほど感動の場面を見たばかりの浩司は、たった今見せられた面白い光景は、ちょっと頭の隅に|避《よ》けておきたい気分だった。  至に促されて入店した佳代子は、またしても店内を見回しこじんまりしているが、温かみのある内装にホッとしたような顔をする。 「ここが|至《あなた》が作り上げた店なのね」 「僕と浩司がね」  佳代子は、あ…と呟いて浩司を見、そしてゆっくり近づくと 「ご無沙汰しております。あの折は大変失礼なことをしてしまい、申し訳ありませんでした」  と深々と頭を下げた。 「あ、いえ…そんな、頭を上げて下さい」 「あの時は…私も主人も混乱をしておりまして…また改めて来てほしいと言えばよかったものを、突き放すような言い方で…本当に…」  深々と下げた頭はそのままに、佳代子は話し続ける。  その光景を見つめている至の後ろに夏生が立ち 「お母さんは、あの日あなた達が家を離れてから3日間泣き腫らしたの。8年も前だけど忘れられないわ」  浩司は極力触れないようにはしつつ、それでも肩に指先を置いて 「お…お義母さん、頭をあげてください、本当に」  と焦っているが、それを見るにつけ夏生がどう言おうとあの時の自身の切なさ、情けなさ、惨めさ、そして親から受けた仕打ちの悔しさが癒えるものではなかった。 「反省していたわ。あの一瞬で無くしてしまったものが、どんなに大きかったか思い知ったって」 「父さんは?」  あの時伏せっていた父である。 「お父さんは、あれから1週間で会社へは復帰したけど急に老け込んでね、元気ではいるけど、もうお爺ちゃんみたいよ。あなた達の事は一言も話さないけれど」  そう話してるうちに、浩司は佳代子を席に着かせることに成功しており、至達にこちらへ来るように呼びに来た。 「じゃあ僕は飲み物用意してくるね、姉さんも座ってて」  佳代子が座っている席へ促して、至はコーヒーを淹れに厨房へ入る。  浩司もお菓子でもないかと戻ってきたが、ふと思い控え室をノックして 「なあ、なんか菓子があったら少し分けて欲しいんだが」  と入ってゆくのを至は不思議に見て、 「なに?真衣ちゃんお菓子買ってきてるの?」  と一緒に控え室にいくと、さっきとは違うポッキーやポテトチップスを食い荒らしている2人が見えた。 「一馬くん?どうしたの?っていうか…何してるの」  少々呆れた声で至が言うと、 「女子会です」  真衣子がニコッと笑って、食べます?とポッキーを差し出すが、今はいいや、と断って至は部屋を出た。  浩司は、 「体裁のいい菓子ないかな。クッキーとかケーキとか…」 「あ~殆ど食べてしまいました。でも店長、至さんの作ったマカロンとプリンありますよ?」  あ!そうか。むしろその方がいいかもしれんな、と呟いて浩司も急いで部屋を出ていく。 「さっきの女性達、どなたなんでしょうね」  恐縮もほぐれて、一馬はドアから真衣子へ目を戻した。 「なんか2人とも、至さん風な顔立ちしてた気がするんだけど」 「俺もそう思いました…似てましたよね…雰囲気とか」  そこで真衣子は、後で話すと言う言葉を思い出し、 「それよりも、もっと紹介してよ、彼氏にできそうな人」 「ええ~、もう5人も候補出しましたけど~」 「5人が外れたらどうするの?候補はいっぱいあってもいいはず」 「なんでそんな自信ないの~」  一馬は、かくなる上は大輔の同僚さんもねらっていくか…と心にきめた。  浩司がマカロンとプリンを体裁よく器に盛り付け、先に出しておくな、と至に告げた。  至は既にドリップに入っているのでもうそんなに時間はかからないだろう。 「お待たせしていてすみません。これは至が作ったものです。よかったら召し上がってみてください。今、彼の本業のコーヒーもきますから」  振り向いて見てみると、もうカップに注いでいる段階だったので、浩司は2人の前に座り至を待った。  夏生が佳代子に 「あの子が作ったんだって…美味しそうだね」  と勧めてくれて、佳代子はフォークでマカロンを取り一口たべた。  ラズベリーの甘酸っぱさと、クリームの甘さが口いっぱいに広がる。 「美味しい…」  思わず出た言葉に浩司が 「有難うございます」  と答え、あ、自分が言うことじゃないな、と笑った。 「評判いいんですよ、至のお菓子も」 「コーヒーだけじゃないんですね」  と夏生が問うと 「専門学校で、コーヒー受けにとならうんだよ」  と至がやってきた。 「はい、僕が淹れたコーヒーです」  夏生と佳代子のまえにそれぞれ置いて、至は浩司の隣に座る。  2人はコーヒーを一口飲んで、『あ…』と声をあげた。  好みがドンピシャなのだ。 「母さんと姉さんの味も変えてある。僕の仕事はそう言うこと」  お客さんの嗜好や料理に合わせて変えていることは浩司もわかっていたが、母親と姉の好みもまだ覚えていたんだなと感心をした。 「それで…今日はどうしたの?急に」  さっきから思っていたことだったが、至はずっとピリピリしている。  駅前で佳代子に抱きつかれて泣かれた時には少し戸惑ってはいたが、結構和らいだ顔をしたように浩司には見えた。しかし今は性急にことを運び、要件を終わらせようとしているふうにも見える。 「うん、移植の話を夏生から聞いてね…至に渡すものがあって来たの」  そんな至の空気を母親である佳代子が感じないわけはなく、佳代子も要件を早々に切り出してきた。 「これを、渡そうと思って」  バッグから一つの封筒を出して、至の前に置く。 「なに?これ」 「あなたのなのよ」  真ん中が不自然に膨らんだ封筒をとり、中身を出すと通帳と印鑑だった。 「通帳?僕名義だ…」 「そうなの。あなたの肝臓がいい状態ではないと聞かされたのはあなたが3歳の時でね。今はまだ平気だろうけど、いずれ移植も考えなければならなくなるかもしれないって|お医者《せんせい》に言われて、その日からできる限りの積み立てをして来ていたものよ」  中を開くとびっくりするような金額が記されている。 「え…こんなのは…」 「言ったでしょう。最初からあなたの移植に使うためのお金なのよ」  この事に関して反論はさせないという佳代子の意思を感じた。 「これは決して、あなた達を邪険にしてしまったことへの贖罪ではなく…親としてするべき……最後のことだから…」  至の疾患は遺伝性だと聞かされていた。佳代子はなんでもないが佳代子の弟は確か肝炎を患って、身体に支障をきたしていると聞いたことがあった。  その責任を、佳代子は感じて積み立てを少しずつやってきていたのだろう。それは至にもわかっていた。だけど… 至は浩司を見た。浩司も多少困った顔はしていたが 「使うか使わないかは…至に任せるが…受け取るだけは受け取ってもいいと思うよ、俺は」  優しい顔で至を見つめて言った。 「お義母さんも、ここに来るには勇気がいったと思う。でもそれを押して、身体を心配して、手術費がかかることもわかっているからそこも心配してこうやって来てくれたんだよ。その気持ちは受け取ろう」  至は1分ほど黙って考えてから、 「わかった…」  と通帳を封筒へ入れて、両手で掲げて 「有難う」  と一言言った。 「それとね、ここからは私からの話なんだけど」  夏生も話を切り出してくる。 「今お母さんが渡した通帳に、何十万単位のものがあると思う。それはあなたの権利だから受け取ってほしいの」  至はそれは受け取れないと言おうとした時に、夏生が 「私ね、5年前に結婚したのよ。今は家で暮らしてるわ」 「あ…おめでとう…」 「あなたにはおめでとうって言ってないのにね、ごめんね。ありがとう。それで、主人は普通のサラリーマンでね、稼ぎも普通。私も仕事は続けてるけど、今は子供もいてセーブしてるからあの家を守るのが難しくて…それで、裏の雑木林を売っちゃったの」 「え…」  流石に至が声をあげた。自分のせいで、あの父親が大事に守ってきた土地を売った…? 「ああ、気にすると思ったけど気にしないでね。きっとあなたが継いでも無理だったと思うから。お父さん本当に頑張って来たのね…」  夏生はコーヒーを一口飲んだ。 「でね、このお金はその土地を売ったものの半分。私と半分こね。だからあなたの権利なの。それで申し訳ないけど、財産分与はこれでと言うことににしてもらおうかなって思ってね、それで私が来たのよ」  旦那さんがいて、その人に何も得がないのは婿入りしてもらって申し訳がないという、もっともな意見だった。  夏生は昔からはっきりとものを言うので、嫌な時もあったがこうやって理路整然と言ってくれると、わかりやすくていいなと至は今更ながら思う。  元々家を出る段階で、財産のことなんかは全く考えていなかったし、今でもそれは変わらない。婿養子に来てくれた男性に感謝こそすれ、遺産がどうのと言える立場にはなかった。 「あ、それとね、通帳に記載されてるのは一部なのよ。いっぺんに渡しちゃうと税金かかっちゃうから、毎月非課税の定額が振り込まれるようにしてあるの、記帳は忘れないようにしてね」  何から何まで卒がない。至は苦笑してしまった。  そしてふと思う 「僕に姪か甥が居るの?」 「姪よ。今3歳なの可愛いわよ~」  子供好きな至はめちゃめちゃ会いたい気になったが、さっきから用意していた言葉は、もうここへは来ないで…だったので今少し迷いが生じていた。 「至、少しは譲歩してやれ」  察していた浩司が、優しく背中を撫でてくれる。  あの瞬間の感情は、多分生涯忘れることはないだろう、でもきっと両親も姉も…自分がこう言う嗜好で男性と一緒になると聞いた時には同じ思いだったかもしれないと、ようやく思えてきた。  姪にも会いたいし…できれば父とも一度話して、今どんなに幸せかを伝えたい。 「ありがとう…8年も不義理してすみませんでした…今日来てくれて有難う」  テーブルにつくほどに頭を下げたのは、涙を隠すため。  佳代子と夏生も涙を抑えて、テーブル越しに至の背中に手を当てた。  浩司はそれを見て背筋を伸ばし、 「改めて自己紹介をさせていただきます。矢田部浩司と申します。年齢は至と同じ33歳で、調理学校の同期です」  と言って頭を下げた。 「矢田部さんご挨拶有難うございます。母の佳代子でございます。至を…こんなに幸せにしてくださっていて…感謝いたします。それと大変ご挨拶が遅くなりましたが、この度至に肝臓を移植してくださるというお話。大変ありがたく思っております。本当に有難うございます。…色々難関ありますが、どうぞよろしくお願いいたします。できる限りのことはさせていただく所存ですので、何なりと言ってくださいね」  立ち上がって再度深々と頭を下げた。それに浩司も恐縮して立ち上がって頭を下げる。 「移植に関しては僕の意志ですから、お気遣いなくです。パートナーとして当然の事と思っております。それにまだ、私が移植できるかどうかはまだわからなくて…はっきり決まりましたら、またご連絡差し上げます」 「姉の夏生と申します。メールではよくお話を伺っておりました。本当に弟が幸せに暮らしていて安心しています。移植の件。私からも深くお礼申し上げます。まだ決定していなくても、名乗りをあげていただけたことは、至にも心強かったと思います。本当に有難うございます」  こちらも立ち上がって深々と礼をするのに習って再び頭を下げた。  それをやっと顔をあげた至が見て、みんなで頭下げあっておもしろいと泣き笑いして、浩司に嗜められた。 「それと母さん。さっき親として最後なんて言ってたけど…是非、また来てください。姉さんも…姪っ子連れてきて」  目的は凛々子なのね、とさりげなく名前も教えてくれて、わかったわよ、と笑ってくれる。  浩司は至が家族のことを許したようでよかった…と胸を撫で下ろした時、目の端にじっとコチラを見ている視線に気づいた。  真衣子と一馬がドア越しにコチラを伺っていた。  浩司は2人を呼ぶ。 「この女性は、至がバリスタへと教育している子です。きちんと後輩も育てきっちり仕事しています」 「松原真衣子と申します。至さんには色々教えていただき、毎日が勉強です。優しくて時々厳しいですがいい先生です私は大好きです」  にこやかにそう言ってお辞儀をした。 「可愛らしいお嬢さんね、至がお世話になっております。この子が厳しいのは想像できないけど、よろしくお願いしますね」 「はい、厳しいのは嘘です。いつも優しくしてもらっています」 「真衣子~」  浩司の声に えへへと真衣子は笑う。 「それで、えっと、コチラは…」  浩司がなんて言っていいか言い淀んでいると、 「八代一馬と申します。コチラのショップカードを作らせていただいておりまして、僕のパートナーも男性です」  と、何のてらいもなく挨拶した。  佳代子と夏生は一瞬驚いた顔をしたが 「そうなんですね、この子達の理解者がいてくれて心強いです。お仕事もコチラからお願いしているようで、これからもよろしくお願いします」  と笑った。 「こちらこそです。浩司さんはとても尊敬できる男性です。至さんを強く優しく見守っていつでも笑っていられる環境を作ってくれてます。僕のパートナーは浩司さんに憧れて、目指しているくらいなので、お二方も安心して至さんを任せて大丈夫ですよ」 「一馬くんてば…」   一馬の言葉に至と浩司が赤面してしまう。  佳代子はもう一度浩司をみて、 「周りの方のお話が1番その方を表します。至がいつも笑っていられるようで、その環境を作ってくださっている浩司さん、本当に有難うございます」  ともう何度目かの深々お辞儀。 「お、お義母さんもうそれは…」  浩司が慌てるのを見るのは珍しいので、真衣子も至もおかしくてクスクス笑いを禁じ得ない。  その後、ちょうどランチ時間にきたこともあり、浩司は食事を召し上がっていってほしいといって、ランチの中でいい方のものを作り始めた。 「ハンバーグセットですか?」 「まあ、うちではこれが精一杯の豪華なものだし仕方ない」  苦笑してハンバーグを焼き、その間ににんじんグラッセとポテトフライを作る。 「一馬くんも食べてくか?」 「ゴチになります」 「一馬くんあんなにお菓子食べてまだ入るの?さすが男の子だね」  真衣子が呆れたようにいうが 「じゃあ真衣子はいらないのか?」  浩司の言葉に 「店長のハンバーグとあっては食べないわけにいきません」 「何だよ天邪鬼だな」  浩司が笑って、2人のは後でな、と今のを仕上げにかかる。  テーブルで、親子3人が笑っていた。 「浩司の料理も美味しいから、食べていって欲しかったんだ」  後でコーヒーも入れ替えるね、と言いながら至は楽しそうだった。
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