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第1話 プロローグ
鼻腔をくすぐる、いい香りで目が覚めた。
俺の正確な腹時計は、そろそろ午後六時だと告げている。夕食の時間だ。
「ん~……」
まだ眠い目をこすって起き上がり、鼻をひくひくさせる。
この匂いは……俺の好きな、トマトソースの匂いだ! トマトソースがあるということは、もちろんメニューはお肉だということで。
俺は寝惚けながらも跳び起きて、細く開いた寝室の扉を目指す前に、う~んと伸びをした。
ここは、母屋とは違うプライベートな別棟にあるセツの寝室だ。
お昼寝するときは、いつもここと決めている。セツは研究所に入り浸ってて居ないことが多かったけど、お布団についたセツの匂いが気持ちいいから。
お肉は逃げない。もう二歳の俺は、それがちゃんと分かってる。えらい!
キングサイズのベッドから悠然と降りて、ピンと長い尻尾を立てて四つ足でリビングへと向かう。
「やあ、ベンジー。ちょうどよかった。今起こしに行こうと思ってたんだ」
カウンターキッチンの中で、セツがふにゃっと微笑む。
セツは清潔感はあるんだけど、天然パーマでいつも髪ははねっぱなしだ。それにヨレヨレの白衣。
「お世辞にもハンサムとは言えない」ってやつらしい。お屋敷にいっぱい居るメイドさんが話してた。
でも俺は分かってないな、と思う。お風呂上がりのセツは、食べちゃいたいくらいセクシーで格好いいということを。
白衣の下には適度な筋肉がつき、ウェーブのかかった前髪がまぶたに降りかかっているところを想像すると、おへその辺りがムズムズする。
俺は思わずカウンターキッチンに入って、立ち上がってセツの頬に三角耳をすり付けた。
「ちょっ……。今包丁使ってるから勘弁して、ベンジー」
くすぐったそうにセツが笑う。
「君の好きなステーキだよ」
「知ってる!」
付け合わせのサラダの大根をトントンと刻む手際の良さに、惚れ惚れしちゃう。
普段セツは母屋のお屋敷で別々に食事を摂るから、セツが食事を作ってくれるのは、特別に嬉しいことだった。
「手を出したら怪我をするからな」
「わ、分かってるもん、そんなこと」
素早く動く包丁に飛び付きたいのを我慢してるの、なんで分かったんだろう。見透かしたように、セツは目を細めて笑った。
笑うと糸みたいな目になっちゃうセツの笑顔、好きだ。
「今焼けるから、サラダとスープをテーブルに運んで」
「うん!」
俺が大好きなのは、血の滴るようなレアのお肉。あと、セツ。
そんなことを考えながらお皿を運んでいると、硬いノックの音が響いた。
「どうぞ」
入ってきたのは、執事の猪狩(いがり)さんだった。長い黒髪をオールバックにして後ろで結び、燕尾服の尾を揺らしてる。
じろり、と俺とセツに視線を往復させてから、不機嫌な声を出す。と言うか、このひとが機嫌がいいところを見たことがない。
「セツ様、またですか。専属のシェフにご不満が?」
「不満はないよ。ただ、母屋だとベンジーと一緒に食べられないだろう?」
「セツ様は小鳥遊(たかなし)財閥の、選ばれたお方です。ペットとままごとをするのは、いい加減になさいませ」
「ペットじゃない。彼は獣人という、立派な人間だ。人権だってある。君は優秀な執事だけど、ベンジーに対するその失礼な態度は改めて貰えないかな」
珍しくセツが強い声を出す。だけど猪狩さんは、深い溜め息をひとつついただけだった。
「……まあ、あと三年はお好きになさいませ。二十五歳までには、許嫁の甘露寺(かんろじ)様に嫁がれるご身分なのですから」
そうハッキリ聞いたのは、今日が初めてだった。許嫁? って、結婚するひとのことだよな。
「駄目だよ! セツは俺のものなんだから」
「べ、ベンジー」
セツが赤くなったり青くなったりしてる。慌ててカウンターキッチンから出てきて俺の口を塞ごうとしてたけど、それより先に俺は言う。
「セツは俺のお嫁さんになるって、約束したもん」
「それは本当ですか? セツ様」
「い、いやそれは……今年の七夕に、ベンジーが短冊に書いた願いごとで……」
猪狩さんはまた深く吐息した。
「そらご覧なさい。子どもは、冗談や方便の類いが分からない。取り返しがつかなくなる前に、関わらないようになさいませ。失礼致します」
それだけ言うと、猪狩さんはピシャリと扉を閉めて出て行ってしまった。
俺は急に不安になる。俺より少しだけ背の高いセツを見上げて問う。
「セツ。セツは俺のお嫁さんにはなれないの?」
「あ……いや。それは少し、難しい話だな。その話はあとにして、君の大好きなステーキでお祝いしよう」
「何をお祝いするの?」
「ベンジーの二歳の誕生日だよ。昨日は忙しくてお祝い出来なかったから」
そうか。昨日は、十一月十一日。俺が創られた日だ。
漠然とした不安を抱えながらも、俺はせめてお行儀よくしようと席に着いた。大きなお肉が運ばれてきて、ついそちらに気が取られてしまう。
今思えば、この先のことが分かっていて、セツは俺の大好きなステーキを焼いたんじゃないかと思う。
束の間、セツのふわふわした笑顔とジューシーないいお肉が、俺を幸せにした。
――そう、束の間。
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