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第36話 王様だけの小さな神様
窓から差し込む月明かりが、二人の体を照らしていた。緩く波打つ長い黒髪は、夜の光を吸収するように銀色に縁取られている。
狼の時よりも一回り縮んだ体はそれでも、力強くティティアを抱きしめていた。同じ性別とは思えないほどにしっかりとした雄の体つきに、肺が萎んだように息を潜める。
体が熱い。心臓がやかましくて、どうしていいかわからない。恐る恐る広い背中に回した手のひらが、ゆっくりとカエレスの背を撫でた。
「……か、カエレス」
「私は、本当に君がいなきゃダメな雄だな」
「うん……?」
頬を重ねるように、擦り寄る。大きな体で可愛らしく甘える様子は、獣頭の時と何も変わらない。
衣擦れの音がして、肩にかけていた毛布がゆっくりと床に落ちる。温もりは夜の温度を招き入れるかのように離れると、大きな両手で髪を撫でられた。
「血は繋がって、私は呪いから解き放たれた。ティティア、君は私を救ってくれたんだよ。こんな華奢な体で」
「うそだ……だって、ね、ねめすないもん……」
「まあ、つまりはそういうことなんだけど」
「どういう……ええ?お、俺どこみていいかわかんないよ……」
体が縮んだことで緩くなった服の隙間から、カエレスの鍛えられた雄の体が見えていた。じんわりと顔を赤らめて目を逸らすティティアがよほど愉快だったらしい。カエレスは豊かな尾で床を叩きながら、ティティアと目を合わせるように顔を覗き込む。
狼の顔ではわからなかった無邪気さが、人型になったことで前面に出ているのだ。上等な雄が、己の番いを前にはしゃいでいるようにも見えた。
「新しい命に、敵うものはいないよ。きっと、始祖神がオメガから奪った魔力が、神の力が働かないところで戻ったことが理由じゃないかと思っている」
ヴィヌスは二人に罰を与えた。アテルニクスを獣混じりにし、オメガである青年から魔力を奪う罰を。それが、今の二人を苛んでいた原因だ。
しかし、カエレスの子供を孕んだことで、宿るはずのない魔力がティティアへと戻ったのだ。カエレスは放出するはずの魔力をティティアに与え、互いに抗えないと思っていた神の罰から解放されたのだ。
カエレスは、毛皮を隔てずに触れられることが心地いいらしい。大きな手のひらで小さな手を包み込むと、時折強弱をつけるように絡めた指で手の甲を撫でる。
大きなお耳と、豊かな尾っぽは残ったままだ。ネメスに隠れていた表情が晒されて、黙っていても瞳は雄弁にティティアへ想いを告げてくる。
火傷しそうなほど熱心な視線を向けられると、息がしづらい。
「多分、違うよ」
「そうなのかい?」
「きっと、狼にしたのはヴィヌスの嫉妬だと思う。同じ姿のもの同士でしか、番えないって思ったからだよ」
ティティアの小さな手のひらが、体温を確かめるようにカエレスの胸元に触れる。思い出すのは、神話の続き。ティティアが知っている、アキレイアスとは違う神話の話。
神の国から離れたアテルニクスの命の摩耗は、早かったという。魔力を奪われ、寿命が人のそれと同じになってしまう呪いだ。
だから、オメガの青年はアテルニクスの子を産む決意をした。一つでも多く、二人が生きた証を繋ぎたかったのだ。しかし、獣の姿と交わって、青年は異端扱いを受けた。それが贄の原因。人であるのに、人の営みから外れた行いをした、呪われた存在。だから周りは、異端を恐れて神に返そうとした。
きっと、人は同じ仲間同士で群れる生き物だから、アテルニクスの見た目を変えることで、青年の気持ちを離れさせようとしたのだ。
それでも、好きだという気持ちは抗い難い感情だ。何百年を経てもなお、こうして惹かれ合う。
本能がそうさせているのだとしたら、ヴィヌスは随分とおおがかりな戯曲を描いたことになる。
神話のその先、青年がどうなったのかは教えられていない。それでも、きっとこれが全ての答えだろう。そんな気がして宣えば、カエレスは声を上げて笑った。
「やっぱり、君は最高の番いだ。私の祖先が惚れた理由もよくわかる」
「なんだよ、そんなに笑うなってば!」
「褒めているさ。だって、私の番いは王の考えをねじ伏せる。すごく勇ましくて、なんとかっこいいことだろう。私の気持ちを振り回してくれる、きっとティティアには一生敵わないだろう」
衣擦れの音がして、体のわずかな距離も許さないと言わんばかりに抱きしめられる。少しだけ苦しいけど、静かなカエレスの呼吸が、とくとくとなる心音が心地よくて、まどろんでしまいそうだった。
もう、あのご機嫌な雷鳴は聞こえてこない。何かを噛み締めるような深呼吸が気恥ずかしくて、おずおずと背中に手を回す。
「気を抜くと、また戻りそうだけど。でも、こうして加減をしないでティティアを感じれるのは嬉しい」
「う、」
「すごいなティティアは、君こそ私の神様のようだ」
きっと、アテルニクスもまた青年に向けて同じことを思ったに違いない。
強くなくていいよ。そう言って、ティティアはカエレスが気が付かない弱さまでちゃんと見ていたのだ。
お互いを求め合うのは本能かもしれないけれど、それでもティティアは己の意思でカエレスの隣を選んだ。たとえ、どんなに境遇を憐れまれようとも、そんなもの勝手に憐れんでおけという心具合だ。
「一緒に生きようカエレス。俺だけの顔をたくさん見せて」
「それ、随分な殺し文句だ」
カエレスと共に生きることを誇らしく思っている。そんな自身を好きになれたのは、全部目の前の番いのおかげだ。
頬を重ねるように、すり寄る。カエレスの足跡を踏むように、ティティアも同じ命をなぞっていく、二人揃って随分と自己犠牲な上献身的な愛の形だ。
同じ神様からのお墨付き。似た物同士で、互いの命で縛り合う。
迷惑な神話に振り回された。それでも、この恋が成り行きの愛ではない事は確かだった。
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