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第23話・理性の糸

 素直に受け取って一気に煽ると、柑橘系の爽やかな味と香りが口内に広がった。 「……遅くなってすみませんでした」  深刻な表情の杉野が、床に落ちていたスーツの上着を肩に掛けてくれる。  顔を上げられないまま、藤ヶ谷は首を勢いよく左右に振る。 「なんでお前が謝るんだよ……早かっただろ。さすが、さす……っ」  後悔と恐怖と不快と、安堵と。  複雑な感情が混ざりあった涙がとめどなく流れていく。  何も履いていない膝に雫が落ちる。 「ごめん、杉野。また、迷惑かけっ……、ゃっ」 「かけられてません」  足首を掴まれて身を固くすると、下着を足に通される。  介護でもするように手際よく淡々と杉野ははかせてくれた。  先走りで濡れたそれを触られた恥ずかしさは、今は沸いてこない。  とにかく杉野に言いたいことが沢山あった。 「たす、助けてくれてっありがと……!」 「場所を知らせてくれたおかげです」 「お前の言うこと……、これからはちゃんと聞くっ」 「そうしてください」  目から溢れ出てくる涙を手で拭っている間に、杉野はズボンのベルトまできちんとしてくれた。  即効性の抑制剤が効いてきたのか、身体が少しだけ落ち着いてくる。安心感で全てを任せてしまう。 「気持ち悪かったぁあ」  杉野は、子どものようにしゃくりあげる藤ヶ谷に手を伸ばす。  その手は迷うように彷徨った後、ポンっと頭に着地した。  そして、藤ヶ谷の身支度を終わらせると立ち上がってベッドを離れてしまう。  どこか物足りなくて、藤ヶ谷はベッドのシーツで無遠慮に顔を拭くと、端正な横顔に呼びかける。 「……こういう時って、抱き締めてくれたりするもんじゃねぇの」 「反省したんじゃないんですか」  杉野は大きく息を吐き、呆れかえった声を出してくる。 「俺だって、アルファですよ。あいつと一緒だ」  一見冷静に感じる言葉とは裏腹に、藤ヶ谷を見る杉野の目は熱い欲望の色を孕んでいた。  よく見ると杉野の中心がある場所は、窮屈そうに盛り上がっている。  そのつらさは、オメガとはいえ男である藤ヶ谷にも痛いほど分かった。 (そっか……それでも、こんなに色々してくれたのか)  藤ヶ谷の目線に気がついた杉野は、気まずそうにベッドに背を向けてしまった。  杉野の献身的な姿に、藤ヶ谷の胸が騒ぐ。  自然と身体が動いた。 「一緒じゃないだろ」  藤ヶ谷は、杉野の背に額を当てて抱きしめる。  大きく息を吸うと、平常時とは違う杉野のフェロモンが体中に行き渡る心地がした。  抑制剤が効いてきたと思ったのは気のせいだったのかというほど、再び鼓動が早くなってくる。 「離れてください。理性の糸が切れます」 「いつも安心する良い匂いなんだけど……今のお前の匂い、すごく興奮する……」 「藤ヶ谷さん、お願いだから」  単調だった杉野の声から、どんどん余裕がなくなっていく。  手首を掴まれると手のひらの熱が伝わって、余計に欲情を煽ってくる。  藤ヶ谷の頭の中は今や、どうすれば杉野に抱いてもらえるかでいっぱいだった。  ヒート中のせいだと分かっていても止まらない。  杉野の項に鼻先を摺り寄せて、艶めかしい声を出す。 「俺だって、ヒート中のオメガだぞ。襲ってくれた方が、楽になるのに」 「藤ヶ谷さんっ」  今まで手加減していたらしい杉野は、藤ヶ谷の腕をものともせずに勢いよく振り返った。  強い力で身体を抱きしめられる。  杉野の体温と香りに包まれて、藤ヶ谷は今まで感じたことのない不思議な幸福感に溺れる。  荒い息遣いを耳元で感じながら広い背に腕を回して抱き締め返すと、肩に顔を埋められた。 「好きな人は、大事にするって言ったでしょう」  本能に抗う掠れた声が吐き出される。  乱れた呼吸を整えるように大きく空気を吸い込むのが、手から伝わる肺の動きで分かった。 「だから、襲わないんです」  愚直なまでに揺るがない声。  抱擁だけでとろけていた藤ヶ谷だが、わずかに残る理性で腕を解いた。 「……っ……ごめん」  名残惜しいと叫ぶ心に鞭を打って、身体を離そうと腰を押す。  だが、藤ヶ谷を抱く杉野の力は緩まなかった。 「……離れねぇの?」 「……」  湿った呼吸がずっと首筋に当たり、互いに主張している欲望を服の上から感じながらもそのままで。 「色々当たってるんだけど……」 「人のこと言えないでしょ」 「こうしてるだけでまたイきそう」 「すみませんそれは勘弁してください」  表情は見えないが、杉野は己の中の何かと戦っているようだ。  どうしたらいいのかも分からずにひたすら高すぎる体温を分け合い、呼吸音が混ざり合う。 「警察……っ来ちゃうぞ」 「本当に呼んでる、暇……あったと思いますか?」  抑制剤は効いている時間のはずなのに、お互いに全く収まらないままどのくらい経ったのだろう。  杉野のスマートフォンが鳴り響くまで、2人はずっと抱きしめ合っていた。

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