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第53話・嵌められた

 藤ヶ谷は始業時刻ギリギリに滑り込み、なんとか遅刻を回避することが出来た。  人で混み合うエレベーター乗り場で、藤ヶ谷より先に乗りこむのが見えていた杉野も問題ないだろう。  クリスマスらしく慌ただしい朝になってしまったが、これでいつも通りの日々を送ることができると胸を撫で下ろす。 「おー、藤ヶ谷!」  営業部の前まで来ると、部長室のデスクから八重樫に声を掛けられた。  幸先がいいと、藤ヶ谷は笑顔で部長室に入っていく。 「珍しく遅かったな」 「そうなんですよ部長ー! ちょっと夜更かしして」  そのせいで部長の喫煙姿を見損ねたと、肩を落として大袈裟に残念がった。  すると、八重樫の目が意味ありげに細められる。 「夜更かしか。杉野もそうみたいだな。外泊してたって言って女の子から黄色い悲鳴が」 「そっそうですかクリスマスイブに外泊か隅に置けませんねあははは」  杉野の話題が出て焦った藤ヶ谷はあからさまな早口で乗り切ろうとしたのだが、八重樫がじっと覗き込んできて香りを嗅ぐ仕草をした。 「君のフェロモンの香りがしたからてっきり一緒に居」 「あいつシャワーも浴びずに来たのか!?」  藤ヶ谷は両頬に手を当てて絶叫した。  部長室の扉が閉まっていなかったら、フロア全体に響き渡っていたことだろう。  話の途中で遮られた八重樫はそれを咎めるどころか、真っ赤に染まった藤ヶ谷の顔を楽しげに見ていた。 「……部長ー」  藤ヶ谷は揶揄いついでに嵌められたことに気がつき唇を尖らせる。  八重樫は背中を椅子に預けて豪快に笑う。 「あっはっは! すまんすまん! つい!」 「ただのトラブルです! トラブルでラブホ入って……なんもなかったんですけど」 「またまた、そんなことあるわけ」 「なんもなかったです」  必死に両手を振って弁明する藤ヶ谷に対して、面白げに八重樫は顎に手を当てた。  しかし直後の藤ヶ谷の否定を受け、改めてニヤリと口端を上げる。 「不服そうだな」 「そんなこと……」  反射的に首を左右に振るが、ふと言葉を切る。  ホテルのベッドで何もなかったことで、何故か気持ちが落ち込んだことを思い出した。  藤ヶ谷は腹の前で両手を落ち着かなげに擦り合わせる。 「……あ、あるのかな俺……」 「失礼します。藤ヶ谷さん、そろそろ」 「わぁあ!」  ノック音とほぼ同時に声を掛けられた藤ヶ谷は、再び大音量を発してしまう。  振り返ると、涼しげな表情をした杉野が扉の近くで立ち止まっていた。 「何ですかびっくりした」  全く驚いたようには見えないが、ポーカーフェイスすぎて本音が読めない。 「な、なんでもない!」  ひとりでドタバタしている藤ヶ谷は深呼吸をして杉野から視線を逸らす。  そんな藤ヶ谷を、八重樫は頬杖をついて穏やかな表情で眺めてきていた。  先ほどまで話していた内容が内容だけに、藤ヶ谷は居心地悪そうに目をあっちこっちに泳がせる。 「う……えと、山吹さん来た?」  杉野が頷いたのを見て、八重樫が行ってこいと手を振った。  肩を並べて歩くのが今更ながら気恥ずかしく、藤ヶ谷は杉野の一歩後ろを歩いて部長室を出た。

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