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第68話・んん?

 藤ヶ谷がいつも八重樫に好意の視線を向けているのは、本人を含め誰もが承知のことである。  が、それはあくまで尊敬や憧憬、親愛といった情だ。「番になりたい」ではなく「あんな人と番になりたい」という理想像のはずだった。  そして何より、今、八重樫に向ける目はいつもの光の灯った瞳ではなく。 「藤ヶ谷、どうしたんだ。そんなことを言うなんて」 「番にしてくれたらもう放置で良いんです。それ以上求めません、俺……」  藤ヶ谷とて、八重樫が了承してくれるなんて思ってはいない。  八重樫が番や子どもを何より大切にする人だからこそ、彼は「理想の人」なのだ。  その上、誰かと番になってしまえばもう2度と、藤ヶ谷は他の誰とも番うことはできないし心を交わしたとしても体が相手を拒否するようになる。  それでも気持ちが溢れ出て、藤ヶ谷は鼻を啜った。 「杉野にこれ以上迷惑かけたくない」  瞳に(とど)まっていた涙が、ポロポロと目尻からこぼれ落ちていく。  誰かの番になれば、もう番以外にはヒート中のフェロモンの影響はない。  杉野が飲む抑制剤が、藤ヶ谷のために飲んでいる分だけでも減る。事故があるかもしれないと気を遣わせる必要もない。  ヒートのせいなのか抑制剤の副作用のせいか、とにかく今の藤ヶ谷は感情のコントロールが難しかった。  子どものようにしゃくりあげ始めた藤ヶ谷の手をしっかり握り返した八重樫は、目元にハンカチを当ててくれる。 「藤ヶ谷、もしかして」 「あいつには運命の番がいて、絶対両思いになれないのに」 「んん?」 「なんで、いつもみたいにすぐに切り替えられないんだろう」  一瞬戸惑った声を出し、不自然に口元に力が入った八重樫だったが。  至極深刻に泣いている藤ヶ谷を見て軽く咳払いをした。  とめどなく流れていく雫をハンカチで受け止めながら頭を撫でてくれる。 「普段の藤ヶ谷は、一目惚れしてからその人にパートナーがいると判明するまでが一瞬だからなぁ」  八重樫の言う通りだった。  いつも藤ヶ谷は「素敵だ」と思ってからすぐに薬指を確認し、指輪をしていることに気がつく。  蓮池の時は例外だったが、諦めるとか切り替えるとかそんな次元の終わりではなかった。  優一朗の時は好意を持ったが、恋だったのかすら怪しい。  藤ヶ谷は、そもそもまともに恋愛をしたことがないのだ。 「今回は君が彼の魅力を心に積み重ねて、ゆっくり好きになっていったからすぐには忘れられないんだろう。当然だ」  説得力に溢れる、温かみのある声で諭される。  普段の藤ヶ谷であれば、何も考えずに「その通りです!」と言ったであろう。  しかし、藤ヶ谷は力無く首を左右に振った。 「一目惚れじゃないけど、好きになったのは最近です。好きな人がいるの知ってて好きになっちゃって……いつも通りなんです」 「なるほど。藤ヶ谷はそう感じるんだな?」  ズキズキと痛む頭が八重樫に話を聞いてもらうことによってマシになっていく。「番にしてくれ」などととんでもないことを言ったのに、咎めることもなく寄り添ってくれて。  胸のつっかえもほぐれてきた。 (あー……やっぱり部長大好き……) 「失礼します」  体から緊張が抜けてきた時、一番聞きたくて一番聞きたくない声が聞こえてしまう。  藤ヶ谷は咄嗟に布団を頭まで被った。

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