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第70話・誰だ
金属が軋む音が小さな部屋に響く。
事態が把握出来ずに目を白黒させていると、杉野は藤ヶ谷の白い首元に顔を埋めた。
湿った吐息が肌に触れ、藤ヶ谷はびくっと体を強張らせる。
「そんなこと言ったら、何されても文句言えないですよ」
「え?」
静かだが圧のある声が至近距離で聞こえたかと思うと、頭の上で手首を交差した状態でまとめ上げられた。
驚いて動かそうとするが、杉野は片手で押さえているはずなのにビクともしない。
何も出来ずに見上げると、先ほどまでの優しい後輩は居らず。
捕食者のようにぎらつく瞳が見下ろしてきていた。
藤ヶ谷は、背筋がゾッと粟立つのを感じる。
「いいんですか? 俺がここで、ボタンを外して、服を脱がせて」
指先が、ワイシャツのボタンを一つ外した。露わになった部分の肌に触れるか触れないかのところを指が滑る。
唇が耳元に寄せられて、息を多く含んだ色っぽい声が直接鼓膜を震わせてきた。
「体に直接触れて、それから……」
ワイシャツの上から腰まで移動していた杉野の手は、再び上へと往復し、最後に頸に触れる。
「ここを」
藤ヶ谷は杉野の言葉通りに頭に思い描き、身体の奥がうずくのを感じて膝を擦り合わせた。
全身が熱い。
だがそれ以上に、
(誰だ、これ)
自分を組み敷く相手に恐怖を感じる。
口を開閉させるものの、それは言葉にならず息が溢れるだけだった。
触って欲しいと叫ぶ身体とは裏腹に、心は圧倒的な力に怖いと逃げ惑っている。
「す、……すぎの、……ごめ……っ」
絞り出した声は情けなく掠れていた。
杉野の動きがピタリと止まる。小さく息を吐いたかと思うと、触れていた頸をスルリと撫でてすぐに身体が離れていった。
「嫌、でしょう?」
そう言った顔は悲しげで。
硬直して見上げていることしかなかった藤ヶ谷の腕を杉野は解放する。
握られていた手首はジンっとして痛かった。
「自棄になったらダメです。俺や部長みたいに流せる奴ばっかじゃないのは流石に分かるでしょ」
一瞬前まで獣のような瞳をしていた男はどこへ行ってしまったのか。
藤ヶ谷は混乱して、自分を守る様に布団を引き上げた。
切り替えの早さについていけない。
普段の説教モードになった杉野は、藤ヶ谷の手から落ちてしまっていたカラーを拾い上げた。
そして、手際よく藤ヶ谷の首に巻き付ける。
(……俺、なんてこと)
「すみません、藤ヶ谷さんがあまりにも無防備なんで。少し驚かそうと思ったんです。……部長はしないでしょうし」
布団の上からポン、と優しく叩いてくれる。
安心感と後悔が胸で渦巻く。
それと同時に「あのまま襲って欲しかった」という気持ちもあって、藤ヶ谷の中はぐちゃぐちゃだった。
ただ、杉野は自身を部長と並べるくらいに藤ヶ谷のことをなんとも思っていないのだと。そのように藤ヶ谷は確信した。
なんとか常の雰囲気を取り戻そうと、カラーに触れながら拗ねたような表情をしてみせる。
「……ひ、ヒート中って、そんな気分になっちゃうんだよなー」
「なら尚更帰ってください。こっちの心臓が持ちません」
「ごめん」
腰に手を当ててため息と共に釘を刺され、おどけて手を合わせるしかなかった。
平常心を装っているだけでもだんだん脳がクリアになってきて、表面上よりも深い申し訳なさが頭をもたげてくる。
(そりゃ、好きじゃないやつと事故したら嫌だもんな。ごめんな杉野)
ふと手に冷たいものが当たって視線を落とす。
ベッドの端に、八重樫が涙を拭ってくれていたハンカチがそのままになっていた。
これ幸いと、藤ヶ谷はハンカチを持って顔を寄せた。
「部長の良い匂いがする……持って帰っちゃおうかな」
実際には仄かな柔軟剤の香りとほんの少しのフェロモンが残っているだけであったのだが。
おじ様に夢中であることを演出するには丁度良かった。
(つか、俺の涙でびちょびちょだからマジで持って帰って洗って返そ……)
そう思ってポケットにしまおうとすると、手首を掴まれハンカチを取り上げられた。
「え? え?」
「ご家庭のある部長のハンカチで何しようとしてんですか」
ただ洗おうと思っただけだったのだが、杉野は先ほどの変態じみた発言を聞いている。
あの発言の後では、もう何を言っても良からぬことに使おうとしているただのおじ様フェチである。
藤ヶ谷が言葉に困っていると、別のハンカチを杉野に握らされる。丁寧にアイロンのかけられたそれは、明らかに杉野のズボンのポケットから出てきた。
「これで我慢してください」
「いらないいらない!! 帰るだけだし!」
「一応、持っといてください」
藤ヶ谷は慌てて突き返すが、杉野はグイグイと押し付けてくる。
今、杉野のハンカチなど持って帰ってしまったら。
抑制剤を飲まずに家にいる予定の自分が何をしてしまうかなど、想像できてしまう。
強く首を左右に振りながら、藤ヶ谷は自分のヒップポケットに手を入れた。
「ハンカチくらい自分の持って……あ」
指先に当たって引っ張り出したのは、体に合っていないことが判明したばかりの抑制剤だった。
薄いオレンジ色の粉が入ったその小さな袋も、杉野は藤ヶ谷から取り上げる。
「ほら、無いじゃないですか。そしてこれは没収です。もう飲まないでください」
「ぐぬ」
何も言い返せないまま、胸ポケットに捩じ込まれたハンカチと共にオメガ専用のタクシーに乗せられてしまうのだった。
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