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第91話・スイッチ
杉野はソファに腰掛け、膝の上で指を組んで俯いていた。
(そんなに嫌かよ)
どんよりと重い空気を肌で感じて内心不貞腐れながら、藤ヶ谷は隣に座ってつい先ほどの事を思い出す。
ホテルの部屋の鍵が押しても引いても叩いても蹴っても開かなかったため、顔面蒼白の杉野が備え付けの電話でフロントに発信した。
すると、それを見越したかのように電話に出たのは山吹だった。
「どうだ番にはなれたか?」
開口一番にそう言った山吹は、杉野の怒りの声を聞いても全く怯まず笑うだけだった。
話の流れでカバンから抑制剤を抜き取っておいたなどと言ったために、藤ヶ谷も杉野も慌ててカバンの中を確認する羽目になる。
本当に、あるはずの抑制剤が姿を消していた。
慌てる2人の様子を電話越しに聞いて、山吹の声は更に楽しげになった。
「番になるまで出てくんなよー。正月のお礼、しっかり受け取れ。ゴムの場所はベッドサイドの」
ガチャン。
壊れるのではないかと心配になるほど力任せに杉野が電話を切ってしまったため、聞こえたのはそこまでだった。
(ベッドサイドか……)
藤ヶ谷は寝室へと目をやり、後で確認しておこうと心に決めた。
さて、いつまでもただ座っているわけにもいくまい。
恋人になりたてにも関わらず一言も発さなくなってしまった男を肘でつく。
「……杉野、とりあえず泊まることになりそうだな?」
「そうですね」
「シャワーでも、するか?」
「行ってきてください」
素っ気ない。
これは本当に、両思いだと判明して熱い口付けを交わしたのと同じ相手だろうか。
全く目を合わせることない上に、冷たく平坦な声に心が折れそうになる。
しかし杉野は、
『あんまり長居するとほんとにベッドルームに引き摺り込みそう』
と言っていた。
本当は藤ヶ谷と体を重ねたいところを、真面目すぎるが故に我慢しているだけだ。
なんとかその理性を突き崩そうと、藤ヶ谷は杉野の肩にそっと体を寄せる。
「い、一緒に入るとか、どうだ?」
「……藤ヶ谷さん……」
杉野がようやく顔を上げた。
精一杯の誘い文句のつもりだった藤ヶ谷だが、低い声を聞いて不安になる。
付き合って間もないのに軽すぎると思われただろうか、と。
「兄さんから藤ヶ谷さんは恋人がいたことないって聞いたんですが」
「は、はい」
急に関係のない話が始まって緊張が走った。
この年で初めての恋人だなんて重いと言われたらどうしようと、表情筋が強張る。
「ということは、未経験ですか。色々と……」
「そうです……ってなんだよ悪いか! どうせさっきのがファーストキスだよ!」
尋問のような空気に耐えきれず声を荒げれば、突如杉野に手首を掴まれた。
驚いて体を硬直させると、手首に乾いた唇が触れる。
「初めてがベッドじゃなくて風呂場でいいなら一緒に入ります」
「……っ」
緩やかに皮膚の薄い部分を喰みながら、真っ直ぐな黒い瞳が藤ヶ谷を射抜いた。
遠回しに、「一緒に入ったらもう我慢はできない」と釘を刺されている。
鼓動が早くなるのを感じながら、藤ヶ谷は返答に迷った。
これまでさまざまなシチュエーションを夢想してきたが、正直に言うと理想はベッドの上だ。
経験はないが、ゆっくりと愛し合えるイメージがある。
しかし、頑なな杉野を相手にそんなことを言っている場合ではないと感じた。
「こ、この年でそんなん気にしねぇから」
「俺は藤ヶ谷さんの『そんなん』をちゃんと大事にしたいです」
キッパリとした物言いに、杉野が如何に自分を大切に思っているのかを感じて藤ヶ谷は頬を綻ばせる。
それに、手首を握る手は優しいが、膝に置いたままの握り拳は震えていた。
杉野は藤ヶ谷を抱くのを耐えているだけだと確信が持てた。
シャワーの後、という気持ちもある筈だ。
「じゃ、じゃあさ。今は大人しく1人でシャワーするから。その、今日ベッドで、い、一緒に寝る、だろ? そんで汗かくと思うし、明日の朝、一緒に入るとかど……っ」
喋りすぎなのではないかと思うほど口を動かしていると、杉野がゆらりと立ち上がった。
そして、有無を言わさずに横抱きにされる。
急な浮遊感に驚いた藤ヶ谷は、反射的に杉野の首に抱きついた。
状況についていけず何も言えなくなった藤ヶ谷に、杉野は座った目を向けてくる。
「ダメですもう限界です。やっぱりシャワーは諦めてください」
「え? なんで?」
「明日の朝入るなら、今は入らなくてもいいでしょう」
「そうかなぁ!?」
抑揚のない早口がスラスラと形の良い唇から流れ出るのを聞いていた藤ヶ谷は声を上げた。
今から入るのと朝入るのは意味が違う。
だが、藤ヶ谷のツッコミなど杉野にはもう聞こえていなかった。
足は大股でベッドルームへと向かっている。
「もう無理です。今すぐ抱きたい。いや、抱く」
(杉野に変なスイッチ入った……! なんで!?)
望んだ展開の筈なのに杉野の豹変っぷりについていけず。
藤ヶ谷の心臓はときめきとは違う意味で大きく鳴り始めたのだった。
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