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第105話・甘々めでたし(完)
それは、藤ヶ谷なりに杉野の喜ぶことを考えた結果の行動だった。
「ん」
チョコレートを咥えて見上げると、黒いコートを羽織っていた杉野はチラリと目線をよこす。
「……それはご機嫌とりですか」
「ばへはは 」
営業先に行く前にコートを取りにきたロッカールームで、藤ヶ谷は苦笑いした。
朝、八重樫に抱き締められて藤ヶ谷が喜んでいた時から、この後輩は不機嫌そのものだった。
目も合わせないし藤ヶ谷が話しかけても要点のみの返事しかしない。
こんなに感情的な杉野は初めてだった。
一緒に仕事をするのに不都合もあるため他の同僚たちに、
「いくらなんでも不機嫌過ぎないか」
と相談したほどだ。
だが、
「逆に杉野さんが、かわいらしーい子に『むしゃぶりつきたいくらい良い匂いです!』なんて言ったらどう思うのよ」
そう指摘されて藤ヶ谷はようやく反省した。
藤ヶ谷ならば、しばらく返事もしない。
「素敵なおじ様」という存在は、藤ヶ谷にとってはもう恋愛対象ではなくアイドルのようなものだが。
杉野にとってはずっと立ちはだかっていた壁なのだから。
休憩時間に八重樫が杉野に手を合わせているのを見たので、今回は藤ヶ谷も謝罪すべきなのだろう。
しかし、いつものように軽い調子で「ごめんなー!」と言っても許してくれそうにない。
そこで、藤ヶ谷はどうしたら杉野が喜ぶかを考えた。
今回ばかりは本人に聞くわけにもいかない。
だから1人で頭を捻りに捻った結果、思い出したのだ。
ゴタゴタとしていて渡し損ねたバレンタインのチョコレートを、ビジネスバッグに突っ込んだことを。
今の時間、ロッカールームは人が少ない。
縦長のロッカーが所狭しと並ぶ中で、藤ヶ谷は念のために誰もいないことを確認し。
杉野の反応をドキドキとしながら、約束していた「口移しで食べさせる」を実行したのだ。
あまり心が動いてないように見える無表情の杉野にめげず、ウール素材の分厚いコートの袖を引っ張った。
「ははふひほほ 」
誰かが来てしまっては台無しだと気が急く。
更にはチョコレートも、唇の温度でじんわり溶けてきた。
「はめか ?」
粘っているものの、だんだんと眉が下がってくる。
しばらく見つめあった後、杉野の方が折れた。しょうがないな、と目を細めて息を吐く。
「いただきます」
「ん」
杉野の顔が近づいて、唇同士が掠める。
チョコレートが形のいい唇に吸い込まれていった。
咀嚼する杉野を見ながら、もう少し触れ合ってくれれば良かったのにと藤ヶ谷は残念に思う。
「ありがとうございました。……まだ残ってますね」
機嫌が直ったらしい杉野が手を伸ばしてくる。
藤ヶ谷は手に持った黒い紙袋を差し出して頷いた。
中に入っている箱にはまだ四つチョコレートが入っている。
「ああ、これは持って帰って……っ」
しかし掴まれたのは紙袋ではなく、藤ヶ谷の後頭部だった。
驚いている隙に杉野に引き寄せられ、唇についたチョコレートをペロリと舐められる。
そして、それだけでは終わらず舌が唇の合わせ目から侵入してきた。
「んっ……ふ」
舌と舌を合わせてゆったりと絡め取られる。
カカオと洋酒の混ざった甘く芳醇な香りが鼻を擽ぐる。
杉野の舌に残ったチョコレートの味が、藤ヶ谷の口内にも移っていく。
一昨日に知ったばかりの高揚感に、引きずられていった。
しかし杉野が離れた後、藤ヶ谷は我に返って胸を押す。
「こ、ここ……っ職場だぞ」
「はい、だから名残惜しいですがおしまいです」
当然だと頷いた杉野は、思いの外あっさりと体を離す。
床に置いていたビジネスバッグを拾い上げ、外に出る準備は完璧だ。
文句を言っておきながらも、藤ヶ谷は少し物足りなく感じて腕に抱きついた。
杉野はコートに頬を寄せる藤ヶ谷の髪を、愛おしげにサラリと撫でる。
「次からはもうあんな簡単に他人に触らせないでください。部長だからまだ良かったものの」
「ん、ごめんな。気をつける。ところでさ」
今までと同じような説教モードに入った杉野の言葉を聞いて、「これは許してもらえたやつだ」と判断した藤ヶ谷は台詞を遮る。
肩に頭を置いて甘えた声を出した。
「今日、家来いよ……なんて」
「一箱分、さっきみたいに食べさせてくださいね」
やってみてから少し照れが入って俯く藤ヶ谷の前髪に、杉野がそっと口付けた。
胸を高鳴らせた藤ヶ谷は、頭にチョコレートの箱の中を思い描く。
紅潮した頬を緩めて杉野を見つめた。
「じゃあ後4回、さっきのができるな」
「なんでそんなに可愛いんですか」
真顔になった杉野は、再び唇を重ねてきた。
それを最後に職場での恋人としての時間は終了だ。
2人は仕事のために肩を並べて、ロッカールームを出たのだった。
めでたしめでたし
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